第23話 初めての喧嘩

「お嬢様、あちらに車をお寄せしておりますので……、」


 ルミナリクを出てすぐに、早く向かいましょうか、と彼は普段と何も変わらない声の調子で純蓮へと告げた。そんな彼を鋭く睨みつけると、純蓮は重々しく口を開いた。


「……なぜ、そのような態度をとることができるのです」

「お嬢様……? ……確かに、発信器を取り付けたのは少々手荒な手段だったかもしれませんが、これはお嬢様のためを思ってしたことで――」

「そのようなことを言っているのではありません!」


 ぐっと胸を抑え、声を張り上げる。少しでも間違えれば今感じている汚い気持ちがそのまま口汚い言葉になってこぼれ落ちてしまいそうな、そんな気分だった。


「……確かに『お友達』という言葉で濁し、何も伝えていなかったのは、わたくしの落ち度です。でも、それでも……」


 心を落ち着かせようと、息を吸う。しかし、脳裏に浮かぶのは先程までの彼らの言葉で。思い出すほどにふつふつと怒りは込み上げてくる。


「それは、あなたがアルマさんを侮辱していい理由になどなりません」

「お嬢、様……」


 驚いたように目を見張る影吉の返事を待たぬまま、純蓮は言葉の続きを吐き出してゆく。


「……アルマさんは、誰がどう言おうとわたくしの大切なお友達です。そんな彼を侮辱したことを、どんな理由があろうとも、わたくしは……、わたくしは絶対に許しません!」


「お友達」と言い切って初めて、その言葉をいつの間にか素直に言えるようになっていた自分に気づく。いつからか、純蓮の中で彼はただの契約相手ではなくなっていたのだ。

 

 純蓮の言葉を受け、影吉は苦々しげに吐き捨てる。


「……お嬢様は、あの者がどのような人間なのかご存知なのですか」

「それは……、どういう意味ですの」


 影吉の言葉に、純蓮はおもわず声を詰まらせる。まさか、アルマが殺し屋であるということを突き止めたとでもいうのか。


「…………何も、分からなかったんです。一之瀬家の持つ情報源を元にし、私が独自に調査を行っても何一つとして彼の情報が出てこなかったのです。わかったのは彼があの喫茶店に勤めているということだけでした」


 こんなことは今まで無かった、と彼は言う。


「きっと彼について何らかの隠匿が行われているのでしょう。……そのような工作が行われている人間がまともな人間の筈がない。私は……、お嬢様に危険な目にあって欲しくないのです」


 その声からあまりに切実な思いが伝わって。ぐらりと決意が揺れそうになる。それでも、純蓮は純蓮のためを思って行動し、共に笑ってくれたアルマのことを知っている。

 

「……アルマさんの素性がどうかだなんて、関係ありませんわ。アルマさんは、わたくしと初めてお出かけをしてくれて、初めて泣いてもいいと言ってくれて。初めてわたくしと同じ視点に立ってくださった……、とても大切な方なのです」


 そこで言葉を区切り、息を吸う。正直な気持ちを伝えることはとても怖くて、苦しい。それでも、きっとここで譲ってはいけないのだと、そう思った。


「わたくしに傷ついて欲しくないというあなたの考えはよく分かりました。けれど、その過程で誰かを傷つけるのなら、わたくしはそれを容認しませんわ。だから……、先程の言葉は撤回してくださいませ」


 見上げた影吉の瞳は、動揺に揺れている。きっとこれで彼もわかってくれたのだろう、とそう思った瞬間だった。


「そう……、ですね。お嬢様の言葉はきっと正しいのでしょう。ですが、たとえそうであっても私は私の主張を曲げません」

「…………え?」


 きっぱりと、彼は言い切る。その表情に先程までの危うさはないものの、そこからは何人の意見も聞き入れないという彼の強い意志がはっきりと見てとれた。


「私は、何があってもあなたを危険から遠ざけますし、そのリスクの筆頭である彼を危険視することもやめません」

「どうしてあなたはそうやって……」


 ふるふると震えたあとで、純蓮はキッと影吉を睨みつける。


「……このっ、影吉のわからずや! バカ! ……バカ!」

「……お嬢様 ?」


 戸惑った様子の影吉を無視し、純蓮はずんずんと歩を進めていく。数歩歩いた先で彼女はくるりと振り返ると、声を張り上げた。


「影吉の……、あんぽんたん! わたくし、影吉がきちんと謝るまで絶っっ対にあなたのこと許しませんわ!」


 そう捨て台詞を吐き、再度くるりと身を翻すと、彼女はあっという間に大通りへと姿を消してしまった。


 薄暗い路地に取り残された影吉は視線を落とし、静かにひとりごちた。


「……申し訳ありません、純蓮お嬢様。たとえこれが私の我儘であっても……」


 彼はそっと拳を握り込み、どこか苦しげな表情を浮かべる。


「私はもう二度と……、あなたが傷つく様子を見たくないんです」


 彼の囁くような声は誰かの耳に届くことも無いままに、灰色の空へと溶けて消えていった。

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