事故の記憶
白椿
事故の記憶
冷静沈着と言われる霧影伊吹には一度だけ恐怖を覚えた瞬間がある。それは自身が交通事故に遭った時である。いくら普段は冷静な伊吹でも、生きるか死ぬかの狭間を彷徨うほどの経験は十分に恐怖と言えた。その日は激しい雨が降っていて、伊吹は買い物から家に帰る途中だった。夕飯の食材を買い、少々急ぎ足に家に向かっていた。と言うのも、その日は伊吹が買い物に行く前までは快晴で、雨が降るなんて予報もなく、傘はいらないと思っていた。しかし買い物が終わった後、突然天気が悪くなってきたかと思えばゲリラ豪雨に見舞われるという不運この上ない事態に巻き込まれたのだった。濡れて風邪などひいては大変なので急いで家に帰っていたのだが、それが交通事故の原因となってしまった。キキーッという音に反応した時にはもう手遅れだった。大型トラックが伊吹を跳ね飛ばし、そのまま走り去って行ってしまったのだった。大きく空中に投げ出された伊吹は頭と体の何ヶ所かを強打した。たちまちそこは血の海とかし、その時伊吹を発見した女児が見たのは、血の海にうつ伏せになって沈んでいる伊吹だったのだ。女児の通報により、伊吹はすぐさま病院へと搬送された。意識はギリギリのところで保っていた。しかし、救急車で搬送されている最中に意識の糸が切れ、そのまま昏睡状態になってしまったのだった。医者からは
『残念ですが、ここまで重症になってしまった以上は助命はできません...』
と言われるほどの状態だったと言う。意識のない状態の中、伊吹は幻覚さえも夢の中で見ており本人によれば
『青い瞳をした女の霊に魅入られ、あの世に連れて行かれるかもしれないと思った』
という。
また意識が戻ってからも何度か奇妙な体験をしており、他の人には見えていない
『入院生活が辛いならいっそ死ねば?』
と声をかけてくる母親と思わしき女性と幼い少女の母娘の霊、夜にだけ現れる歌声が美しい少女の亡霊。生きているのかさえ不明な病室の前でコーヒーを飲むおばさんなどなど、奇妙な体験ばかりを伊吹はしていた。そうして完全に意識が戻るまで2ヶ月の期間を要したのだ。自宅の部屋のソファーでのんびりと座りながら、伊吹は事故の時の記憶を思い返していた。
『大型トラックに跳ねられた時点で生きているのも不思議だが、結局あの中年女性の正体はわからずじまいだったな...あそこまで怖い体験などしたことはない。もう今後は事故になどは遭いたくないものだ』
今はもう傷口が塞がった左目。しかし、今もなお、その痛々しい傷は左目を縦に横断し、伊吹の心を締め付けた。
『もう、あの時のような痛みは味わうまいと思っていたのに....事故のために大切な左目を失った。あの時たとえひどく濡れたのだとしても....このようになるくらいならそうしておいた方がよかったのだろうな』
伊吹はそう呟いて、左目をそっと撫でた。あの時はたまたま運が良かっただけであって、2度目はないかもしれない。だからこそいかなる時も慎重な判断をすることが大切だということを伊吹は学んだのだった。そして、もうこれ以上向こう見ずな行動で自身の身を犠牲にしたりすることはしないと伊吹は強く誓った。
END
事故の記憶 白椿 @Yoshitune1721
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