カタバミ生命西立川ビルの怪(5)
「……それ、本当に大丈夫なんですか」
「霊障ですね」
ヒカルはジーンズの裾をめくり上げ、まるで他人事のように言った。白く細い足首の肌に青紫の痣がべっとりとついている。痛みはないが、じくじくと疼くような感触が残るという。
「ごめんなさい。私が余計なことを言って引き留めさえしなければ」
「いえ、こちらこそ助けてもらったので」
特に考えがあって起こした行動ではない。結果的にそうなった、というだけだ。
ナナミが咄嗟にあの“何者か”にむけて手を伸ばした瞬間、どこからともなく叫び声のようなものが聞こえた。そして土まみれの手はヒカルの左脚から離れ、さらにもぞもぞと奇怪な土塊になってその場に落ちた。一体何が起きたのか、ましてや激しくぶれるカメラごしではナナミに把握しきれるはずもない。
ともあれ“何者か”は再び闇の奥へと消えた。悪臭を放つ土塊を残して。
―――
地下三階奥部。
同じ手は二度と使わせない、とばかりにナナミが持っていたスマホの電源が落ちた。バッテリーは半分ほど残っていたはずだが、強制終了したかのようにぷっつりと切れた。どれだけ電源ボタンを長押ししても再起動しない。これも霊障というやつだろうか。地上に戻った時に直っていると良いのだが。
「本当に開けるんですか、その扉」
「“中にはミカンが十五個”」
「みかん?」
「何でもないです。まあ、大丈夫でしょう。どのみち開ける他に選択肢はないですし、こうしているとまたあいつが戻ってくるかもしれない」
ナナミを少し後ろに下がらせ、右手でショットガンを構えつつ、左手でドアノブをひねる。クリアリングの基本動作がいちいちキビキビしていて、ナナミもそのたびに感嘆する。
鉄扉は施錠もされておらず、またこれだけ湿気のある場所ならどこかが錆びているのではとも思ったが、キイ、と軋む程度の滑らかさであっさりと開いた。異界と化した空間の最奥部にこれ見よがしとある一枚の鉄扉。呪いが溢れてくるとか、吸い込まれるだとか、そういうオカルトがあったわけでもない。――しかし。
「なんですか、ここ」
もはや滅多なことでは驚くまいと思っていたナナミだが、扉の向こうにあった光景を前にそんな呟きが出た。
そこは、のっぺりとした灰色のモルタル壁で四面を囲まれた殺風景な大部屋だった。これまで辿っていた通路や小部屋よりも広く、天井も高い。そして、照明もないはずなのに妙に薄明るく感じる。
四面を囲む壁はそれなりの厚みと頑丈さがありそうだ。ここが本当に防空壕(のようなもの)なのだとしたら、避難した人間がすべて安全に収容できるのではないかとさえ思わせる。だが部屋には何もない。誰かが住んでいた痕跡もなければ、小物や家具もない。
真ん中に、ぽつんと、ミニチュアサイズの神社のようなものがひとつあるだけ。
「あれが、マニュアルに書かれていた祠?」
入るやいなや、ヒカルは後ろ手に鉄扉を閉め、担いでいたケースを下ろす。
「はい。でも、ちょっと待っててくださいね」
ナナミは言われた通りに立ち止まり、ヒカルの“準備”を見る。
「また扉に何かしてるんですか」
「そう。エレベーターでも部屋でも、とにかく“扉”っていうのは重要なんです。外側と内側を繋ぐものであり、また封じ込めるものでもある。それが扉であると認識されれば内外は“区別”される。だから、こういう風にピンポイントで対策ができる」
ナナミに向けて言っているのかただの独り言なのか、ヒカルはそう呟きながら鉄扉の左右二カ所に命札(?)をかけていく。先ほどエレベーターを降りた時と同様に。
「広義の意味では建物自体がそういう空間であるとも言えます。自動ドアだろうとガラス扉だろうとそれは内外を隔てる扉であり、そして内部には魔が生じやすい。だからあたし達……蘆屋ビルメンテナンスの役目がある」
ナナミは思い出す。祖父の部屋にあった襖を。あるいは、中学校の旧校舎に残る化学室の扉を。
「エレベーターでも部屋でも建物でも、扉一枚を隔てた中には何が潜んでいるか――ただのミカンか、ネズミがいるか、はたまた霊がいるか――外からは分かりませんから」
「ネズミ?」
「細かいことは置いておいて……と、まあ、これが我が社の営業トークです」
やがて何かしらの準備を終えると、ヒカルは再びポケットからピルケースを取り出し、何かの錠剤を口に含み、水なしで噛み砕いて飲み込む。まともな服用法ではないが、あれは何の薬なのだろう。
「ところでナナミさん」
「はい」
「頭、痛くないですか」
「いえ、別に」
「じゃあ大丈夫です」
「……」
「では行きましょうか」
大きな部屋の真ん中に二人。祠に向け、一歩また一歩を進む。こつんこつんと足音が響く。足音は一度二度と反響し、虚空に吸い込まれるように消えていく。部屋全体を覆う空気は相変わらず湿気っていて生ぬるい。
「頭痛はしないですけど、嫌な感じはします」
「そりゃ、こんだけ“あからさま”ならそうなるかと」
「あの祠、私達が近寄るのを拒否してるってことですか」
「だんだん分かってきましたね……お、っと」
先行していたヒカルが、かくん、とバランスを崩す。ショットガンを構える銃口がゆらぎ、同時にフラッシュライトの光が激しくぶれる。ナナミは咄嗟に駆け寄り、身体を支える。
「ありがとうございます」
「大丈夫ですか。もしかして、さっきの?」
「微妙に力が入らなくなるんですよ。そのうち消えます。たぶん」
ナナミも大きいほうではないが、ヒカルはさらに小さかった。重量バランスとしてはショットガンのほうがよほど重いのではないかと思うほどだ。こんな小さな体躯でよくもキビキビ動けるものだなと感心する。
―――
いくら大きな部屋とはいえ、鉄扉から祠まではそう遠くもない距離である。だがこの暗闇の中と不快感のせいで、辿り着くまでには思いのほか長く感じた。
「マニュアルには“祠に手を合わせる”、何もしないでお参りだけして帰ってくる、とありますけど」
祠は古く朽ちかけた木造で、観音開きの戸と思われるものがついている。注連縄や紙垂、札といったものはついていない。ナナミも詳しいわけではないが、それはどこか“祠というにはやけに奇妙なもの”にも見えた。
「これ、中には何が入ってるんですか?」
「迂闊に開けないほうがいいですよ」
ナナミは伸ばしかけた慌てて手を引っ込める。
代わりに、ヒカルは岩塩弾を装填したショットガンを突きつける。
マニュアルの逆をやるということは、つまり、そういうことだ。
ホラー漫画や映画で見たことがある。山や神社に佇む祠に近寄ってはならない。近寄った人間には良くないタタリが起きて……そして、だいたいそういう物語のオチといえば――。
「正確に言えば、祠を壊すわけではないです。塩を撒いてやるだけです。害虫駆除と同じ。巣はそのままで、まず中にいる“もの”だけを追い出す。まあ、祠も、ちょっとは吹っ飛ぶかもしれませんけど」
ナナミを後ろに下がらせ、ヒカルは銃口を祠に突きつける。彼女はこの事態の対策方法を知っている。ここに来るまでもそうだ。ここがどういう場所で、何があって、どうなるのか。どこまで分かっているのか、ヒカルはそれらを見越している。だからこそナナミは安心できるし、また不安にもなる。
プロの仕事に口を出すことはできない、それは分かっているのだが。
「あたしから離れないでくださいね」
ヒカルは先ほど撃った一発の補充分を装填、そしてポケットの中にある残りのシェルの弾数を確認。改めて銃口を祠に向け、引き金に指を置く。
ナナミはつかず離れずの距離を保ち、ことの次第を見守る。
マニュアルの逆をやる。つまり祠を“叩く”。それでこのビルの怪異は封じられる。たぶん間違いはない。そうするしかない。確かにそうかもしれないが、本当にそうなのか。もっと他に穏当な解決方法はないのだろうか。今になってそんな不安を――。
「他に解決方法なんてないと思いますよ。“乗せられたのなら最後まで”というやつです」
ナナミの不安を見透かしたかのような言葉と共に、ヒカルは引き金を引いた。部屋中に響く銃声と共に、岩塩が木造の祠に叩きつけられる。たかが塩の塊といっても、高速で撃ち出されたそれはソフトターゲットを容易に破壊する。近距離で放たれ、しかも対象が古びた木造の祠というならなおさらだ。ちょっとは吹っ飛ぶ、どころではない。砕かれた木片がばらばらと周囲に飛び散っていく。
「……、…………!」
右手でショットガンを保持したまま、ヒカルはまた何かの文言を唱え始める。左手の人差し指と中指で数回ほど宙を切り、そして唱え終わるや否やフォアエンドに手を添えなおす。排莢し、さらにもう一発。
カタバミ生命西立川ビル地下三階。異界と化した地の底で、蘆屋ビルメンテナンスによる修理――と呼ぶにはあまりにも奇想天外な――行為が為されていく。
―――
「伏せてください」
部屋中に反響する銃声が鳴り止む頃、ヒカルは祠から銃口と目を離さず、後方にいるナナミに指示した。大量に“塩を撒かれ”てズタズタになった祠は、しかしこれといった異変も起きていない。その隙にヒカルは右ポケットからシェルを二発まとめて取り出すと、ショットガンの銃身を寝かせ、一手で素早くデュアルロードする。
静まりかえった部屋の中、ヒカルはまだ銃口を祠に向けたまま。数秒。数十秒。あまりにも長く感じる間の果てに――……やがて、祠がカタカタと震えだした。
「な、何。何、何ですかこれ」
ヒカルはショットガンを構えたまま一歩後ずさり、ナナミと祠の間に立つようなポジションを取る。そうしている間にも祠の振動はさらに強くなっていく。
そして。
激しい振動の末に祠は自壊し、中から巨大な影が現れた。
こちら蘆屋ビルメンテナンス 黒周ダイスケ @xrossing
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