兄・1

 俺の母親が死んだのは、あまりにも不運な事故だった。学年が上がって学童のなくなった俺は、その日ずっと家でひとり母親が帰ってくるのを待っていた。夜の七時になっても八時になっても帰ってこない母親を心配しているところにやってきたのは警察と、何度か会ったことのあるだけの親父だった。


『運転を間違えた車が歩道に乗り上げたんだ』


 それからのことはあっという間だった。母親は白い箱と板になって、俺は今までの暮らしができなくなった。


「誠一、俺と暮らそう」


 親父はそう言って、俺の頭を撫でた。母の親戚は遠方に住んでいる上に、俺を見て面倒くさそうな顔しかしかなった。他に身よりがなかった俺に選択肢はなかった。


 初めて親父の家にやってきて、今までの俺のいた場所と違う世界にやってきたと思った。2DKの部屋で母親と二人で寝起きしていた俺にとって、玄関だけで今までの生活が出来るんじゃないかと思うくらいの豪邸だった。そして話に聞いていた、親父の息子が現れた。


「俊一、今日からよろしく頼むぞ」


 そう言って、親父は向こうの息子の頭を撫でた。その瞬間無性に腹が立って、そっちの息子の顔面を蹴り飛ばしてやりたくなった。私立の小学校とやらに通ってる何も知らないボンボンのくせに、俺のことを知った風な顔で見やがって。


「……誠一です」


 俺は腹の底が冷えるような思いを飲み込んで、俊一を見た。いい奴なんだろうな、と思う。その後ろから遠慮がちに親父の本当の妻が現れた。俺は今日からこいつを「母さん」と呼ばなければならない。


 俺の母さんを殺した奴は耄碌もうろくしていて、話にならなかった。

 俺の親父は一生懸命俺のことを大事にしようとしている。

 親父の本当の妻も、この事態を運命だと割り切っているようだった。


 俺はどうしていいのかわからなかった。

 

 ただ、新しく出来た弟の俊一だけは可愛かった。俺によく懐いてくれて、居場所のない俺をこの家に馴染ませてくれた。最初に俊一にムカついた俺が恥ずかしくなるほど、俊一は俺を大事にしてくれた。


「俊ちゃん、ゲームしようか」

「うん、する!」


 俺は本当に俊一のことが好きになった。裏表なく、こいつは俺のことを好いてくれているのがよくわかった。でも、急にお兄ちゃんお兄ちゃんと呼ばれるのはなんだかくすぐったかった。


「お兄ちゃんは止めてよ。誠一でいいよ」


 すると、俊一は不思議そうな顔をした。


「でも、お兄ちゃんはお兄ちゃんでしょう?」

「うん、俺は俊ちゃんは弟だと思ってるよ」


 結局、俺は皆から「誠一くん」と呼ばれることで落ち着いた。そういうわけで、俺は必死で「良い兄」になった。俊一を可愛がっていれば、俺はこの家に住める。本当はいろんなものをぶっ壊したいくらいムカついていたけど、この家を追い出されて俺が生きていける保証がなかった。近所の公立小に転入した俺は、俊一のいないところで親父と本当の妻に呼び出された。


「お前がやる気なら、中学受験も出来るぞ」


 中学受験なんて、それまで俺には関係ないことだと思っていた。中学受験のことは知っていたが、俺を養うだけで一生懸命の母親に「私立に行く金をくれ」なんてとても言えた話ではなかった。ここで俺が私立の中学に行ったら、今までの俺を否定するみたいで嫌だったから俺は丁寧に断った。


「遠慮することないのに、家族なんだから」


 本当の妻に言われて、俺はそのすました顔に拳を叩き込みたくなった。少なくとも、俺はお前だけは本当の家族だなんて認めたことはない。ただ外聞があるから、俺はこの女のことを「母さん」と呼んでいるだけだ。俺の母親は、たった一人なのに。どうしてこんな、惨めなことがあるんだろう。


 そういうわけで俺はこの女は大嫌いだったが、俺に居場所を作ってくれた俊一はやっぱり好きだった。俺と違って、擦れることなく純粋で幼くて可愛いらしい俊一が俺は好きだった。俺と同じ親だって言うのに、大層な違いだ。


 親父は、俺の母親のことが本気で好きだった。だから俺が生まれた。

 だけど、いろんな都合で本当の妻と結婚しなくてはいけなくなった。


 親父は俺を本当に可愛がってくれた。

 だけど、それは俊一に申し訳のないことだと俺は思っていた。

 俺も母さんと一緒に死ねばよかったのに。

 そうすれば、俊一もあの女も苦しまないで済んだのに。


 ああ俊一、俺たちはどうすればよかったんだろうな。


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