期限切れのブラックコーヒー
神崎諒
期限切れのブラックコーヒー
湿り気を帯びた空気が週明けのオフィスに澱んでいた。
月曜日の朝、
佐藤健二は自席でブラックの缶コーヒーを口に含んだ。
……ぬるい。
味も温度も、やがて始まる仕事の喧騒にかき消される些事に過ぎない。
机上にコーヒー缶を置く、その動作が出陣の合図だった。
パソコンの画面には来週に迫った大型コンペの企画書が映し出されていた。大手飲料メーカーの新ブランド立ち上げ。これを獲得すれば、社内での地位は
健二がこの広告代理店『アドネクスト』に入社したのは、バブル崩壊後の就職氷河期、二十数年前のことだ。
第一志望ではなかったが、内定を得たからには、ここでトップに立ってやると心に決めていた。負けん気の強さは我ながらよく自覚している。地方の公立高校から、人一倍努力して都内の中堅大学に入った。周囲には、親の庇護の下でのうのうと過ごしてきたような、底の浅い余裕を漂わせる同級生たち。
——あんな風に、安穏と流されてたまるか。
その反骨心が、常に健二を駆り立ててきた。
入社当初から文字通りがむしゃらに働いた。同期がまだ右も左も分からず戸惑っている間に、健二は泥臭くクライアントに食い込み、着実に数字を上げていった。時には多少強引な手も使った。上司に取り入り、同僚の出した良いアイデアを、あたかも自分の発想のように見せることも厭わなかった。ビジネスは結果が全て。ただ前だけを見て走り続けてきた。
気づけば同期の姿は遥か後方にかすみ、四十代半ばにして課長の地位まできた。その過程で妬みや陰口に晒されたことは数えきれない。それすらも勝者の証だった。
ふと顔を上げると、フロアの向こうで田中あかりが制作部の上司と打ち合わせをしていた。彼女は今回のデザイン担当だ。真剣な顔でモニターを指差しながら何かを熱心に説いている。
彼女が作るものは繊細で、それでいて媚びずに自社の一貫したこだわりを訴えかけてくる。
悪くない。むしろ、よく練られている。それでも最終的にクライアントの心を掴み、契約書に判を押させるのはプレゼンテーションになる。デザインは、あくまでそのための手段の一つに過ぎない。
あかりの、仕事に集中しているひたむきな横顔に、一瞬、忘れていたはずの顔——同期だった高橋の顔——が重なった。すぐにくだらない、と頭を振った。
ポケットのスマホが短く震えた。別居中の妻からだった。
『週末、荷物を取りに行きたいです』
小さく舌打ちをした。
既読はつけるが、返信は、しない。余計なことは考えずに大事なことだけに一点集中する。
コンペの準備は佳境を迎えていた。提出されたあかりのデザイン案は、健二の目から見ても完成度が高かった。ターゲット層のインサイトを的確に捉えていて、提案するブランドの世界観も巧みに、美しく表現している。それでも、もっと直接的に、もっと分かりやすく、クライアントの役員たちが「なるほど」と膝を打つような要素を前面に出すべきだ。健二は自分のプレゼンテーションの流れに合わせるために、いくつかの修正を指示した。彼女が込めたであろう意図や細部へのこだわりは戦略上不要と判断して大胆に削ぎ落とした。
「この案も悪くはないがな、田中さん。クライアントはこちらの方が理解しやすい。君のこだわりよりも俺の経験を信じてもらいたい」
健二の鋭い眼差しを受けて、あかりは一瞬、唇を開きかけたが、再度きつく唇を結んだまま俯いた。
張り詰めた空気が喉を締め付ける。
まただ……。
あかりは心の中で呟いた。
自分の考えやデザインに込めた想いが、こうも容易く誰かの都合で上書きされていく。フリーランス時代に味わった苦い経験が生々しく蘇る。
先輩デザイナーは「あなたのためよ」といいながら、私の案をもみ消した。『田中あかり』の名前もクレジットから抹消されていた。
自分の情けなさと悔しさに、夜通し、一人で声を殺して泣いた。それでも何もいえなかった。波風を立てるのが怖かった。業界で干されるのかもしれないと思った。
今は会社員、守られているはずなのに、守られていない。どうしても強くは出られない自分がいた。
「……分かりました」
絞り出すようにいった。健二が満足げに頷くのが視界の端に入り、あかりは逃げるように自分のデスクに戻るほかなかった。パソコンの画面に映る、自分が情熱を注いだデザインが、借り物のように他人行儀めいていた。
昼休みに入り、健二は給湯室で水道から直接、冷たい水を飲んでいた。自販機まで足を運ぶことすら億劫だった。濡れた手を振り、紙コップを捨てようとしたとき、隣の小さな休憩スペースから、ひそやかな話し声が漏れ聞こえてきた。田中あかりの声だ。
「……フリーランスの時、すごく信頼してた先輩デザイナーがいたんです。一緒にコンペやろうって、そう誘われて、私、寝る間も惜しんでメインのデザイン案、作ったんです。……提出する直前になって、私の名前だけクレジットから外されて。ほとんど先輩の手柄みたいになって……賞まで取ってた……」
同僚の女性だろうか、相槌を打つ声も微かに聞こえる。
健二の脳裏に、またしても高橋の顔が浮かんだ。彼が会社を去る間際、最後に顔を合わせた時の、力なく俯いた姿。何かいいたげに、何もいわずに去っていった背中。
健二は蛇口を強く捻り、冷たい水を再度、一気に
過去は過去だ。ビジネスとは非情な競争原理の上に成り立っているものだ。
紙コップをつぶしてゴミ箱に投げ捨てた。
コンペの一次審査は滞りなく通過した。健二は「よし」と、内心で
送られてきたクライアントからのフィードバックシートに目を通すと、最後に、こう記されていた。
『……特に、ご提案いただいたデザインコンセプトの独自性と、それを表現するトーン・マナーには感銘を受けました』
それは紛れもなく、健二が修正を加える前の、あかりが最初に提案していたデザインの核心部分への賛辞だった。気づけば、眉をひそめていた。
そんな折、社内の廊下で数年前に退職した元同僚と偶然、顔を合わせた。当たり障りのない近況報告の後、ふと、その元同僚が高橋の名前を口にした。
「そういえば、高橋のこと聞いたか? あいつ、地元に帰って小さな建築事務所立ち上げたらしいんだけど、数年前に、病気で亡くなったって。まだ若かったのになあ……」
「……そうか」
相手はそれ以上は触れずに「お前も身体、気をつけろよ」と軽く肩を叩いて去っていった。
自席に戻る途中、自販機に立ち寄った。いつものブラックコーヒーのボタンを押そうとして、指が止まる。
『売切』の赤いランプが点灯している。仕方なく、隣の微糖タイプのボタンを押した。
ガコン、と音を立てて出てきた缶コーヒーは、手に取ると、生ぬるかった。
一口飲む。舌の上に中途半端な甘さが広がり、後味には、錆びた鉄のような味が残った。
最終プレゼンを数日後に控え、健二は最後の調整作業に入っていた。あかりが修正してきたデザインデータを確認する。概ね指示通りだが、いくつか修正しきれていない箇所が微妙に残っている。健二はそれを完全に正そうと、あかりを内線で呼び出した。
「田中さん、ここの部分だが、やはりもっとシンプルにしてくれ。前にもいったはずだ。クライアントは分かりやすさを求めてる」
「佐藤課長、ですが、この部分は今回のコンセプトの根幹に関わる重要な表現なんです。クライアントも、一次のフィードバックで特に評価してくださった点です。ここを変えてしまうと、全体の印象が、その……薄っぺらくなってしまいます」
「いいから、いう通りにしてくれ。最終的な責任は俺が取るんだ。これは業務指示だ」
健二の語気が強くなる。彼の苛立ちが伝わってくるようで、あかりは一瞬怯みそうになったが、ぐっと奥歯を噛み締めた。
彼のいう「責任」とは何だろう。結局、評価されるのはデザインそのものなのに。
「……分かりました。でしたら、最終成果物から、私の名前は外してください」
あかりが静かに頭を下げて返事を待たずに踵を返す。小さくなっていく背中を、健二は見送ることしかできなかった。
深夜のオフィスは、水を打ったように静まり返っていた。蛍光灯の白い光だけが、がらんとしたフロアを無機質に照らしている。
健二は一人、自席で最終プレゼン資料を睨んでいた、が、文字も図形も記号の羅列にしか見えず、内容は全く頭に入ってこない。あかりの言葉が頭の中で何度も反響していた。
——名前を外してください。
反芻すればするほど、自分が足元から崩れ落ちていくような感覚に襲われる。
重い身体を引きずるようにして席を立ち、休憩スペースの自販機へ向かった。暗がりで煌々と光る自販機が目に悪かった。
ブラックコーヒーのボタンは『売切』の赤いランプが灯ったまま。その隣には『期限切れ間近 特価』と赤いマジックで手書きのシールが貼られた、甘ったるそうなミルクコーヒー。諦めて小銭を入れた。ガコン、と間の抜けた音が静寂の中でやけに大きく響き、缶が取り出し口に落ちた。
プルタブを開けて一口飲む。人工的な甘さが舌に絡みついてきて、慣れない後味が残る。思わず顔をしかめた。
時間が経ち、照明が消えた自販機のガラス面に自分の顔がぼんやりと映し出された。
乾いた粘土に刻まれた亀裂のように、
部長への昇進。成功。それだけを道標に歩んできた。
バラバラに見えていた出来事が、不意に一本線で繋がるような感覚があった。
得体の知れない感情が濃霧のように胸の内を満たしていく。ポケットの中で妻からのメッセージを受信したままのスマホが、ずしりと重く感じられた。
最終プレゼンの日。健二は自分の意向を強く反映させた資料でプレゼンに臨んだ。いつものように自信に満ちた態度で、よどみなく言葉を紡いだ。
その後の質疑応答では、確かな手応えを感じることはできなかった。結果は後日、メールで連絡されることになった。
会社に戻る道を歩いていた。濡れたアスファルトが明るくなった空の色をぼんやりと映している。前方に田中さんの姿が見えた。イヤホンで何かを聴きながら、まっすぐ前を見て歩いている。
声をかけるべきか、ためらった。声をかけるとして、どんな言葉をかければいいのか。分からなかった。結局、健二は会釈だけをして、何もいわずに彼女の横を通り過ぎた。すれ違いざま、彼女も小さく会釈をした。あるいは気のせいかもしれない。
自分のデスクに戻ると、見慣れないものが置かれていた。未開封の缶コーヒー、自分がいつも飲んでいるものとは別の、ブラックコーヒー。
健二はその缶を手に取った。ひんやりとした金属の感触が掌全体に伝わってくる。
しばらくの間、その缶を見つめていた。それからゆっくりとプルタブに指をかけた。
カシュッ、と軽快な音が静かなオフィスに響いた。立ち上る、苦く香ばしい香り。ゆっくりと一口、含む。
普段のものよりも苦みが深くて雑味のないクリアな味。
健二は、もう一口飲んだ。
その後、深呼吸をして、ポケットからスマホを取り出した。妻からの新着メールが未読のままそこにある。
返信画面を開き、おぼつかない指で文字を打ち始めた。打っては消し、また打っては消し……を繰り返す。
自分の汗とコーヒーのにおいが混じって、生乾きのように青臭かった。
期限切れのブラックコーヒー 神崎諒 @write_on_right
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