第26話

あいさつだけは、する。

最低限、それだけは守ろうと決めた。

でも、それ以上は無理だった。


目を合わせるのも、声をかけるのも。

勉強のとき、どうしてもわからないところだけ、

教えてもらうために小さな声で質問する。

そのときも、顔は上げない。

机の上の問題集だけを見ながら、

できるだけ無表情に、必要な単語だけを吐き出す。


ショゴスは、その態度に、何も言わなかった。

ただ、少しだけ眉をひそめて、

けれど、ちゃんと答えてくれた。


おれが問題を解いているあいだ、

ショゴスはじっと黙って、様子を見ていた。


ふと、気配を感じて視線を上げると、

ショゴスがこちらを見ていた。

けれど目が合いそうになると、すっと視線を落とす。

それから、小さく、気づかれないようにため息をつく。


おれはただ、

また問題集に目を落とし、

黙々と鉛筆を動かし続けた。


そんな日が、何日か、続いた。


気づけば、ショゴスの態度はずっと変わらないままだった。

押しつけてくることもない。

勝手に触れようともしない。


ただ、勉強に詰まったときだけ、

静かに、必要なことだけ教えてくれる。


その様子を、何度も、何度も見てるうちに、

おれのなかの張り詰めた怒りも、

少しずつ、ほんの少しずつだけど、

やわらいでいった。


----


おれは今、統計検定準1級の問題集にかじりついてる。

会社で、データアナリストの業務をやれるようになりたい。

そのためには、どうしても統計の基礎と応用を固めなきゃいけない。


でも、問題集を開くたびに、目の前が真っ白になる。


(なんだこれ……)


意味のわからない記号、見たことない式展開。

そもそも線形代数が必要なんだってことさえ、問題集に手をつけて初めて知った。


「なあ……この式、なんでこうなるんだ?」


どうにもならなくなって、机に伏せそうになりながらショゴスに助けを求めた。


ショゴスは、おれのノートを静かに覗き込むと、

ほんの少しだけ眉を下げて、優しく言った。


「……線形代数、基礎からやろうか」


(基礎から、か……)


心の奥がずきっと痛む。

でも、現実から逃げてる場合じゃない。

彼女に胸を張れる自分になりたい。そのためには、今、耐えるしかない。


「……おねがい」


声を絞り出すと、ショゴスは何も言わず、

真っ白なノートをおれの前にそっと置いた。


「まずは、ベクトルからやろう。ゆっくりでいいから」


ベクトル。

懐かしい響きだ。でも、懐かしいだけで、何も理解できていない。


深く深呼吸して、ペンを持ち直す。

ノートに書き込まれる、見慣れない記号たちを、必死に追いかけながら。


(仕事のために――)


(彼女に恥ずかしくない自分になるために――)


おれは、かすかに震える手で、線を引き続けた。

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