第4話 まな板の上の鯉

 墨田川が淀んだ夕焼けを呑み込むような、蒸し暑い晩夏のこと。


 料理人をしていた菱沼重太郎は、夜更けの仕入れ帰りにふと奇妙な路地へと迷い込んだ。昼間は通った覚えのない路地裏。いつのまにか灯った赤提灯のような、朧げな明かりに吸い寄せられるように、一軒の古道具屋の前に立っていた。


 「煙蒐屋えんしゅうや」と筆で書かれた看板。煤けた格子戸からは、甘く焦げたような木の匂いが漏れていた。


 戸を開けると、軋む音がした。


 出迎えたのは、丸顔でぽっちゃりとした中年の女店主だった。派手な色合いの帯に、涼しげな団扇を手に持ち、重太郎を見てにんまりと笑った。


 「暑い夜にようこそ。あんた、包丁を握ってる人間の手だねぇ」


 「……どうしてそれを」


 「そりゃ見りゃわかるよ。血を吸った指先の匂いってのは、骨董よりも馴染み深いんだ」


 店主はそう言いながら、店の奥から古びた木箱を持ってきた。


 中には一枚のまな板。分厚く、黒光りするような木の色。使い込まれて艶を帯びたそれは、どこか異様な迫力を放っていた。


 「これさ、鯉料理の名人が使ってたって代物さね。刃が入ると、鯉が自分で身を割るって話さ」


 「そんな馬鹿な」


 重太郎は鼻で笑った。だがそのとき、まな板の表面に――微かに、鱗のような模様が浮かび上がった。


 ぞわり、と背筋をなでるような感覚に襲われた。


 「気に入ったなら、持って行きな」


 「いくらです?」


 女店主は、ぱちりと片目をつぶった。


 「代金はね、あんたの腕前。まな板が気に入るかどうかってとこさ」


 


 重太郎はその夜、さっそくまな板を使った。


 鯉を一本、活きの良いものを桶から出して――まな板の上に置いた瞬間。


 鯉は、動かなくなった。


 暴れることもなく、静かに、まな板の上で眠るように横たわる。


 包丁を入れると、まるで道がすでに刻まれているかのように、刃が吸い込まれていく。


 「なんだこれは……」


 翌日、客は口々に言った。


 「こんなに柔らかい鯉の洗いは初めてだ」

 「まるでとろけるようだ。まるで、生きてるようだ」


 評判は広がった。重太郎の名は一夜で知れ渡り、料理雑誌の記者までが店に訪れるようになった。


 だが。


 数を重ねるたびに、重太郎の中にある“違和感”も、次第に大きくなっていった。


 鯉を捌くとき、まな板がわずかに呼吸しているように感じるのだ。生き物のように、温もりがある。刃を入れるとき、まな板が「よくできました」と言わんばかりに震えるのだ。


 ある夜――ふと気が付くと、桶に鯉を入れておいたはずが、誰も入れていなかった桶の中に、生きた鯉が一尾、泳いでいた。


 「おかしいな……仕入れはしてないはず……」


 だが、何故か鯉はいる。


 その日も捌いた。翌日も、また一尾。


 鯉は次々と現れ、重太郎は次々とそれをまな板の上で捌いた。


 そして――十七尾目の夜。


 鯉を桶から上げようとした瞬間、重太郎は手を滑らせ、指先をざっくりと切った。


 その血が、まな板の表面に一滴、落ちた。


 すると――まな板が、音を立てて震えた。


 生きている。これは、何かを喰っている。


 そう思った瞬間、桶の中の鯉が重太郎のほうを見た。


 ――人間の眼で。


 驚いて後ずさった重太郎は、厨房の隅にうずくまった。


 そして、気づいてしまった。


 今、まな板の上にいるのは――自分自身だと。


 


 


 翌朝。煙蒐屋の棚には、あのまな板が戻っていた。


 血の跡一つない、つややかな表面。よく手入れされた木肌には、うっすらと鱗のような光沢が残っていた。


 その隣で、女店主がぽつりと呟いた。


 「鯉ってのはねえ、流れに逆らって生きるもんだけど――まな板の上じゃ、逆らえないのさ」


 その夜もまた、まな板の上には、一尾の鯉が、静かに泳いでいた。


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