眠れる言葉

N氏@ほんトモ

眠れる言葉

『眠れる言葉』


 その日、エラン・シウの研究室は静寂に包まれていた。厚い断熱壁の向こうでは、首都リュミエールの夕刻の光が銀色の塔群を染め、上層のドームに映し出された人工の星が瞬いている。都市全体が眠りにつくまでの短い静寂のひとときだった。


 だが、その静けさを破ったのは、通信パネルの鋭い電子音だった。赤く点滅するアイコンが、緊急召喚であることを告げていた。エランは椅子から身体を起こし、眉をひそめた。発信元は「世界統合政府・文化遺産保存局 考古部門」。エランの専門、古言語学の領域が、ついに歴史の表舞台に引き出されたのだ。


 彼は、机上に浮かぶ3D投影を指で払って消すと、研究所の中央に設置された垂直リフトへと向かった。光の柱のように見えるエレベーターは、彼の身体を静かに包み込み、地表を貫くようにして最下層へと沈んでいった。


 会議室の空気は、冷たい機械的な静寂に満たされていた。重厚なカーボン製の壁に囲まれ、天井には青白い光が均一に灯っている。中央の長方形テーブルの両端には、二人の人物が待っていた。


 ひとりは、考古学者のリナ・ヴェル。切れ長の目に眼鏡、無駄のない動作をする女性だった。旧文明研究の第一人者で、特に「アーラ文明」と呼ばれる失われた社会の調査で名を馳せていた。


 もうひとりは、世界政府の行政部門から派遣されたタリス・グレン少佐。軍服のような濃紺のユニフォームに身を包み、書類ではなく人間の本音を読む訓練を受けた男だった。


 リナが、口火を切った。


「エラン博士、未知の言語を発見しました。あなたに解読を依頼したいのです」


 タリスが手元のリモート装置を操作すると、テーブルの中央にホログラムが浮かび上がった。それは、幾何学的でありながら有機的な流れを持つ文字の群。直線と曲線、途切れと繋がりが共存する奇妙な美しさを備えていた。


 エランは、思わず息をのんだ。見たこともない。聞いたことすらない体系だった。象形文字か、音素文字か、それとも――まったく別の概念体系か。


「これは……いったいどこで?」


 彼の問いに、リナが答えた。


「南東大陸の地下。数週間前、地下の遺跡群で発掘されたものです。遺構の様式と土層の分析から、少なくとも三万年前のものと推定されています」


 三万年前――


 タリスが口を挟んだ。「この言語が解読できれば、歴史の謎が明らかになる。我々の知る過去は空白だらけだ。博士、引き受けてくれるか?」

 エランは文字のホログラムを見つめた。




 輸送機は、夜明け前の空を滑るように進んでいた。エラン・シウは、キャビンの窓から遠ざかる都市の光を眺めていた。人工的に制御された空すら、ここから先には広がらない。目指すは南東大陸。地図には“未踏領域”と赤く記される、灰色のジャングルと岩山が支配する地域だった。


  現地ベースキャンプには、すでに調査チームの先遣部隊が展開していた。簡易バイオドームが設置され、中央には地中深くへと続くスロープと、重機によって露出した石階段が姿を現していた。


 チームは全員で十三名。そのうち言語解析班はエランと補佐の若手研究者ミナだけだ。残りは医療班と発掘作業班、そして警備のため帯同した元軍人がいた。


 エランは遺跡の調査基地に移動し、作業を開始した。文字はシンプルな形状もあれば複雑な形状もあり、同じ言語のものとは思えなかった。数種類の言語が組み合わさったものだろうか?どちらも論理的な構造とはかけ離れていた。シンプルな形状の文字だけで100近くあり、複雑な形状のほうに至っては数千に及ぶ可能性があった。こんな複雑で膨大な文字じゃ、平民は使いこなせないだろう。この文明は恐らく知識階級と呼べる特権階級がいたに違いない。


 エランたちは数日掛けて文字であろうものを全て撮影した。薄暗い遺跡の調査室は、埃と古い石の匂いに満ちていた。部屋の中央に据えられた簡素な木製のテーブルには、埃にまみれたランプが頼りなく光を投げかけ、壁に映る影を揺らしている。テーブルの上には、カメラ、ノート、拡大鏡、そして無数のメモが散乱し、まるでこの部屋自体が混沌としたパズルの一部であるかのようだった。モニターの青白い光が、未知の文字を映し出し、調査室に不思議な雰囲気を漂わせていた。その文字は、まるで生き物のように曲がりくねり、複雑に絡み合い、見る者の目を惑わせる。


 エランは、顎に手を当て、眉間に深く刻まれたしわをさらに深くしながら、モニターを睨みつけていた。彼の目は、まるでその文字の奥に隠された秘密を抉り出そうとするかのように鋭く輝いていた。言語学者として30年以上のキャリアを持つエランにとって、未知の言語に挑むのは、単なる仕事ではなく、人生そのものだった。だが、今回の発見は、彼のこれまでの経験を嘲笑うかのように、異様な難解さで立ちはだかっていた。


 隣に立つミナ・カサリは、まだ若く、鋭い観察力と大胆な発想で学会に名を馳せつつある新進気鋭の研究者だ。彼女は分厚い革製のノートを膝に広げ、ペンを忙しく走らせながら、時折首を振ってため息をついた。彼女の髪は乱雑に束ねられ、調査室の埃っぽい空気の中でわずかに揺れている。ミナは、ノートに書き留めたスケッチやメモを眺めながら、苛立ちを隠そうともしなかった。


「先生、これ…本当に言語なんですか?」ミナの声には、半信半疑の響きが滲んでいた。彼女はモニターを指さし、眉を上げた。「だって、文字が数千種類もあるんですよ? 数千! しかも、それぞれの形状があまりにも複雑で、装飾か暗号みたいじゃないですか。こんなの、古代人が実用的に使ってたなんて信じられないんですけど」


 エランは目を細め、モニターに映る一つの文字に視線を固定した。それは、曲がりくねった線と鋭い角が混在する、まるで抽象画のような形状だった。彼は指で画面をなぞり、ゆっくりと頷いた。「確かに異常だ。言語なら、もっと経済的であるはずだ。繰り返しやパターンが見えるはずなのに…」彼は一瞬言葉を切り、モニターに映る無数の文字を眺めた。「我々が撮影したこの膨大なデータの中で、同じ文字がほんの数回しか出てこないものもある。普通の言語なら、こんなことはあり得ない」


 彼は椅子に深く腰を下ろし、背もたれに寄りかかった。調査開始から数日が経ち、睡眠不足のせいで目の下にはくまが浮かんでいる。それでも、彼の声には興奮が滲んでいた。「だが、ミナ、考えてみろ。もしこれが言語なら、単なるコミュニケーションの道具を超えた何かだ。儀式のためのものか? 哲学を刻んだものか? あるいは…」彼の目が一瞬輝いた。「宇宙そのものを記述している可能性すらある」


 ミナは鼻で小さく笑い、ノートを閉じた。「宇宙ですか? 先生、ちょっと大げさすぎません?」彼女は立ち上がり、モニターに近づいた。彼女の指が画面を軽く叩き、特定の文字を指した。「単に古代の芸術家が暇つぶしに彫った落書きかもしれないのに。そんなロマンチックなこと考える前に、この一貫性のなさが気になりますよ。ほら、ここ見ててください」


 モニターには、遺跡の奥深く、岩盤の隙間に封じられていた巨大な金属の板が映し出されていた。まるで時の流れすら拒むかのようなその表面は、鈍く光を反射しながらも一種の神聖さすら感じさせる沈黙を保っていた。その金属板には、明らかに人工的な意図で刻まれた二行の文字列があった。だがそれらは、一見しただけでも明確な対照を見せていた。まるで異なる文化、あるいは異なる思考様式が同じ空間を共有しているかのように。


 上の行は、まさしく機械によって描かれたかのような精密さと冷たさをたたえていた。直線と鋭角が支配し、細かなパターンは一見すると幾何学模様のようでありながら、確かに意味を持つ構造体であることを主張している。まるで、思考すら計算の一部として組み込まれた存在によって記されたような、知性の冷たい結晶だった。


 一方、下の行は、始まりこそ硬質な印象を持っていたが、右へ進むにつれて文字の形が次第に変化し、線が丸く、柔らかくなっていった。それはあたかも筆跡のようで、規則の枠を抜け、感情の痕跡を帯びているかのようだった。まるで、書いた者の内面が筆を通してにじみ出たような…人間の手の温もりすら想像させる表情を見せていた。


 ミナは椅子にもたれ、腕を組みながら首をかしげた。その視線はじっとモニターを見つめたままだ。「この上の行の複雑さに対して、下の行の右側、この丸っこい文字、めっちゃシンプルじゃないですか? これが本当に同じ言語の一部だなんて、なんか怪しくないですか?」


 その声には、分析者としての冷静さよりも、直感的な違和感に対する戸惑いが色濃くにじんでいた。


 エランは、モニターに目を近づけ、指先で空中に文字の形をなぞりながらゆっくりと頷いた。「それは私も同感だ。だが、こんなにも同じ文章内で、しかも一つの板の上で混ざり合っているのに、違う言語だと断言するのは逆に不自然だ。もしこれが一つの言語体系の中に収まるものだとすれば、なぜこのようなスタイルの分断が起きているのか。きっと、何か意図がある。たとえば、記述した人物の階級の違い、あるいは用途の区別。もしくは……特定の意味を強調するための表現的な変化かもしれない」


「記号じゃなくて、表現…か」ミナは口元に手をやり、少し考え込んだあと、小さく首を振った。「それにしたって、こんな極端な違いってあり得ます? ほら、ここ……」彼女は指でモニターの右下を示し、そこに映る簡素な線を見せた。「このあたりの文字、ほとんど子供の落書きみたいに単純じゃないですか? 上の行があんなにも精密で無機質なのに、下の端になるとまるで違う。二人の人間が、別々のルールで書いたとしか思えないですよ、これ」


 エランは少し笑い、しかしその目は真剣なままだった。「だとすれば、その“別々のルール”が、同じ文化の中で共存していた可能性もあるな。たとえば――公式文書と、口語的なメモ。それぞれの役割が違っていたのかもしれない」


 言いながら彼は立ち上がり、部屋の中を歩き始めた。調査室の床はやや軋みながら、彼の足音を静かに響かせる。彼の手は無意識のうちに顎を撫で、視線はどこか遠くを見ていた。思考はすでに過去の文明へと深く潜り込んでいる。


「もしこの文字が解読できれば……あるいは、これを残した者たちの思考、感情、日常に触れることができるのかもしれない。だがなぜ、これほどまでに直感的ではないんだ? 言語というのは、もっと…もっと人間らしいはずだ。伝えたいという欲望、理解してほしいという祈り、その積み重ねで生まれるものだ」


「“人間らしい”、か」ミナはその言葉を繰り返し、少しだけ口元を緩めた。そして椅子に深く座り直し、そばに開いてあったノートのページをめくる。「この文字列も、わたしたちにとっては文明の失われた断片、歴史の空白を埋めるための手がかりっていう意味で見てますけど、これを書いた誰かにとっては、きっと何気ない日常業務だったんでしょうね。書いていたときの彼らには、こんなふうに未来の誰かが真剣に読み取ろうとしてるなんて、想像もしなかったのかも」


 その言葉に、エランは小さく頷いた。


 二人はしばらく沈黙し、モニターに映る金属の板を見つめた。その板には、以下の文字列が刻まれていた。


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