今度こそ
山本トマト
『今度こそ』
当時、私は1匹の黒猫を飼っていました。名前は「クロ」といい、外見には大きな特徴が2個あります。1個目は、足の先だけ白い“靴下猫”であること。2個目は、シッポの先が折れ曲がっている”かぎしっぽ“であること。通常、かぎしっぽは先天的なものが多いですが、クロの場合は後天的なものであり、いつの間にか“かぎしっぽ”になっていました。
そんなクロを我が子のように溺愛していたのですが、ある日を境に、クロがこつ然と姿を消してしまいました。玄関にはペット用ドアが設置してあったので、出入りが自由にできるようになっています。しかし、何日間も帰ってこない事なんて今まで1度も無かったので、どこかで事故に遭ってしまったんじゃないか。そんなことを考えてしまい、とても落ち込みました。夜中、家に1人でいるとクロがいないことを嫌というほど実感するので、気を紛らわすために夜散歩することが日課になりました。
そうやって夜散歩をしていると、クロに似た猫を頻繁に見かけるのです。最初は単なる見間違いか幻覚だと思いました。しかし、見れば見るほど疑惑は晴れていき、すぐに確信へと変わりました。黒い毛並み。白い足。かぎしっぽ。
「間違いない、クロだ。」
私は嬉しくなり、クロを家に連れ戻そうとしました。駆け寄りたい気持ちを抑え、驚ろかせないように歩いて近づきました。しかし、クロは私との距離を一定に保つようにどんどん離れていきます。クロを追いかけて交差点にさしかかったとき、赤信号に捕まって見失ってしまいました。
別の日も、そのまた別の日も同じことの繰り返し。見失う場所は決まって交差点でした。横断歩道の向こう側に、歩みを止めてこちらをジーッと見つめるクロがいる。しかし、なぜか毎回赤信号に捕まってしまい、目の前を車が勢いよく通り過ぎた直後、クロの姿は消えていました。
そんな日々を何度も繰り返すうちにシビレを切らしてしまい、その日は走って追いかけることにしました。すると、クロも弾かれたかのように走り出しました。暗い夜道の中、前方を走るクロの白い足を頼りに無我夢中で追いかけて交差点にさしかかったとき、ちょうど青信号が点滅しはじめたところでした。相変わらずクロは信号を渡った先で歩みを止めて、こちらをジーッと見つめています。
「今度こそ」
そう意気込んで横断歩道へと飛び出した瞬間でした。身体に加わる強い衝撃。しばらく浮遊感があり、再度衝撃。何が起きたのかわからず、薄れゆく意識の中で目を開けると、クロが僕を見下ろしていました。黄色い目の中の黒い瞳孔は完全に開ききっており、まるで満月にぽっかりと穴が空いたような、新月のような瞳で私をジーッと見つめていました。
目が覚めた時には病院のベッドの上でした。信号無視の車に轢かれたんだそうです。一命は取り留めたものの、事の衝撃で何箇所も骨折しており、視神経は損傷して右目が失明していました。医者からは「この程度で済んだのは奇跡です。しばらく入院してもらうけど、リハビリすればまた歩けるようになるから。」と言われました。ホッとしましたが、あらためて当時の状況を振り返ると、嫌な考えが頭をよぎるんです。
もしかしたらクロは僕を○そうとしていたのではないか…と。
クロは明らかに僕を交差点へと誘導しているようでした。そして、交差点まで来た瞬間、示し合わせたかのように目の前を通り過ぎる車。でもなぜそんなことを?
だって、あんなに愛情を注いで可愛がっていたのに。
普段の世話はもちろんのこと。引っ掻かれたり、噛まれた時も丁寧に注意しました。シッポを踏みつけたりした事もありましたが、そうやって厳しく躾けるのは愛情ゆえです。少なくとも、僕はそうやって育てられてきました。
そうだ、あのときもそうだった。僕への威嚇をやめなかったクロが悪いんじゃないか。だからその日は、いつもよりキツめに躾けなければと思った。押し入れから金属バットを取り出し、何度か振り下ろした。鈍い感触の中、時折「パキッ」と音がした。たぶん、骨が折れたのだろう。しかし、それでも恐怖で瞳孔が開ききった目で僕を見るだけで、クロは最期まで威嚇をやめなかった。その新月のような瞳が気に入らなかった。だから僕はその瞳に向かって、渾身の力でバットを振り下ろした。瞬間、何かが砕けて飛び散る音がした。足元を見やると、片目が飛び出て動かなくなった、黒い毛の塊があるだけだった。
「これはクロじゃない」
しばらく呆然としていたが、ふと、そんな考えが頭をよぎる。本当にクロだったら、すぐに威嚇をやめてくれたんじゃないか?そうだ、そうに違いない。だからこれは、この醜く潰れた黒い毛の塊はクロじゃない。玄関のペット用ドアから迷い込んだ野良猫だろう。クロはどこかで事故にでも遭ってしまったんじゃないかと思った。だから街中でクロを見つけたとき、本当に嬉しかった。
退院した今でも、松葉杖をついて夜散歩をしていると、横断歩道の向こう側にクロがいる。あの忌々しい新月のような瞳で僕をジーッと見つめながら、僕が車道に飛び出すのを待っている。今はまだ追いかけることはできないけど、足が治ったら連れ戻してちゃんと躾けてやるつもりです。
大丈夫、きっとクロはわかってくれる。
今度こそ。
今度こそ 山本トマト @age_yummy
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