第2話

「なあ響、今日も吹いてくれよ! 昨日のアレ、マジでやばかったって!」


放課後の音楽室。ユウトのテンションは、昨日からずっと高いままだった。


「……やらねぇって言っただろ」


響は面倒くさそうに答えながら、部屋の奥のカーテンを引いて光を遮った。薄暗くなった室内に、昨日吹いた古びたサックスが、ひとり寂しく棚の上に佇んでいる。


「いやでもさ、あの音は本物だった! 鳥肌立ったもん。俺、あの瞬間、音楽ってヤベぇって思ったんだぞ!」


「……知らねぇよ。勝手に震えてろ」


「けどさ、もったいねぇって。あの音を埋もれさせとくの、音楽に失礼だろ!」


「音楽に失礼…?」


響は呆れたように笑った。自分がそんなことを言われる日が来るとは思ってもみなかった。


「そんなに言うならお前が吹けよ。俺じゃなくても音楽は続く」


「いや無理だろ、俺にはあんな音――」


「だったら黙っとけ。俺の音に勝手に意味つけんな」


ピシャリと響いたその言葉に、ユウトの口が止まった。

空気が一気に冷たくなる。


「……悪い。ちょっと、声、でかかったな」


「……いや。ごめん。俺もしつこかった」


一瞬の沈黙。外では吹奏楽部の練習音がかすかに聞こえていた。誰かがトランペットを外して笑い声が上がる。


響はその音に、ふと目を細める。


その旋律。どこかで聞いたことがあった。

数年前、誰かが泣きながら吹いていたメロディと、よく似ている。


けれど、思い出す前に首を振った。


もう関係ない。

あの頃の俺は、もういない。



---


教室に戻ると、ミナが窓際でぼんやり空を見ていた。


「……音楽室、また行ってたんだ?」


「たまたまだよ。うるせぇ奴がしつこいだけ」


「ふーん……でも、響がサックス吹くとこ、見たかったな」


「なんでそんなに俺に期待すんだよ。俺、ただの一般人だぞ?」


「でも、昨日の音、すごかったってユウトが。……私も聞きたかったなって思って」


「ミナもかよ……」


響は溜息を吐き、椅子に深く腰を下ろした。窓からは淡い夕日が差し込んで、教室全体をオレンジに染めていた。


「昔、やってたんでしょ?」


「……なにが」


「音楽。なんか、吹き方が自然だった。ユウトが言ってた、“あの音は素人のもんじゃねぇ”って」


「ユウトは口が軽すぎるな……」


ミナは笑って肩をすくめた。


「でも、もし本当に昔やってたなら――なんで、やめたの?」


その言葉に、心が小さく震えた。


なぜやめたのか。

答えは簡単だ。あの日、全部が壊れたからだ。

楽譜も、教室も、あいつの音も。全部。


けれど、その感情は言葉にできなかった。


「ただ……飽きただけだよ。音に」


「嘘だね」


ミナの言葉は優しいのに、どこか刺さるようだった。


「飽きた人が、あんなに丁寧に吹けるわけないもん」


響は思わず目をそらした。夕陽が少し、まぶしかった。



---


放課後、帰り道で突如として声がかかる。


「おい、響!」


振り返ると、翔也が歩いてきていた。顔には不機嫌そうな表情が浮かんでいるが、そこにはどこか、諦めきれないような情熱が見え隠れしていた。


「なんだよ、翔也」


「お前、なんであんなにサックス吹きたくないんだよ!」


翔也の声は、やっぱりうるさい。だけど、今回は少しだけ響きが違っていた。いつもはただの暴力的な迫り方だったが、今日はどこか、必死なように聞こえる。


「なんでって、なんでって……お前がうるさいからだろ。しつこいんだよ」


「お前、あれだけの音を出せるやつが、なんで吹かねぇんだよ。才能を無駄にすんな!」


響は無言で翔也を睨みつける。

「無駄にしてねぇよ。お前こそ、うるせぇ」


翔也は少し黙り込んで、次の言葉を探しているようだった。だが、どうしても諦めきれなかったのだろう。


「俺、響が吹いてるとこ、見たかった。昨日のあんな音、また聞きたいんだ」


その言葉に、響は立ち止まった。


言葉にならない何かが胸にこみ上げる。翔也の目には、単なる音を求めるだけでなく、もっと深いところで響を見ようとしている、そんな姿が浮かんでいた。


だが、響はその気持ちを拒絶する。


「……俺には関係ねぇ」


そう言って、また歩き出した。


翔也の声が背後から届く。


「響、俺、絶対にお前が吹くところ、見るからな!」


その言葉に、響はまた振り返ることはなかった。


その瞬間、心の中にある音が、さらに遠くなるのを感じた。


響は、音楽を完全に忘れたわけではなかった。だが、誰かにその音を求められる度に、過去が引き裂かれるように感じてしまうのだった。

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