第2話

 ネロはトラックのけたたましいクラクションに気づき、顔を上げた。


 目の前に、猛スピードで突っ込んでくる巨大な鉄の塊。荷台の資材がガタガタと揺れ、運転手の慌てた顔がフロントガラス越しに見える。普通ならパニックになる状況だが、ネロは一瞬、冷静に状況を分析した。


「はあ? 何だこのトラック、僕を轢く気か? ふざけるな、僕がこんなところで終わるわけないだろ!」


 だが、現実は非情だ。トラックはブレーキが効かず、ネロに迫る。悲鳴を上げ、近くの生徒たちが逃げ惑う中、ネロは動けなかった。いや、動かなかった。


 美貌を誇るネロだが、運動神経は並以下。逃げるのは無理だと瞬時に判断した。彼のナルシストなプライドが、「逃げるなんて美しくない」と足を止めたのだ。桜の花びらが彼の周りで舞い、まるで最後の舞台を飾るかのようだった。


「僕は美門ネロだ。こんなみっともない死に方、するわけない……!」


 その時、別の気配が現れた。黒いローブをまとった細身の男が、まるで影のようにネロの前に立ちはだかった。


 グリーム――死神だ。どこか頼りなげで、目元には深いクマがある。内気で心配性の彼は死神としては致命的な欠点を持っていた。


「だ、ダメだ! ネロ、死んじゃダメだ!」


 グリームの声は震えていた。彼の手には黒いノート「死のリスト」が握られている。そこには、ネロの名前がの日付と共に記されていた。


 死神はリスト通りではない、誤った殺しをしてしまうと、死神としてのライセンスを剥奪される。グリームはそれを恐れていた。


「はぁ!? 何だお前!?」ネロが叫ぶが、グリームは答えず、ネロを庇うように腕を広げた。トラックが眼前に迫る。グリームの顔は青ざめ、冷や汗が流れている。「僕、死神なのに、こんなこと初めて…… でも、ネロを助けないと!」


 衝撃音が響き、ネロの意識が一瞬途切れる。身体は宙を舞い、アスファルトに叩きつけられた。血と肉片が飛び散る――だが、痛みはない。


「う、うう……?」


 ネロが目を開けると、そこにはグリームが必死の形相で彼に人工呼吸を施している姿があった。


 グリームのローブは汗で湿り、彼の細い手はネロの胸を押すたびに震えている。唇がネロの唇に触れるたび、ネロの意識がぼんやりと戻ってくる。


 グリームの目は涙で潤み、まるで自分が死にそうなほど怯えていた。


「ンぐっ!? 何してんだお前!離れろ、不審者!」


 ネロはグリームを突き飛ばし、跳ね起きた。だが、すぐに自分の身体の異変に気づく。


 服はボロボロになり、ブレザーの袖は裂け、ネクタイはどこかに飛んでいた。そして自分の手が、肌がザラザラしている。


 肌の表面には小さなヒビが入り、指で触ると甘い香りが漂い、砂糖の粒がキラキラと輝いている。目線を下げると、まるでジンジャーブレッドマンのようなクッキー状になっていた。


「な、なんだこれ!? 僕の身体! 僕の美が!」


 ネロの叫びが通学路に響いた。グリームは縮こまりながら、震える声で説明した。


「ご、ごめんなさい! 僕、死神なんですけど……力が弱いから、仮死、いや……菓子状態にしかできなくて……それで、ネロさんの身体、こうなっちゃって……」


「は!? 死神テメェふざけんな! 僕をこんなザラザラのクッキーにしたのはお前か!?」


 ネロはグリームに掴みかかり、怒りを爆発させた。クッキーになったネロ腕は意外と力強く、グリームのローブをぎゅっと掴む。


 そこに、キャスターがケラケラと笑いながら近づいてきた。革ジャンが朝の光にきらめき、サングラスがネロの怒りを反射する。


「ハハハ! すげえな、死神のくせに失敗してクッキー人間作っちまうとか! お前、才能あるぜ、グリーム!」


「うう、キャスターさん、からかわないでください……」


 グリームが涙目になる中、ネロはキャスターを睨みつけた。クッキーの瞳は、なぜか人間だった時よりも鋭く光っているように見えた。


「てめえも何か知ってんだろ? このクソみたいな状況、説明しろ!」


 キャスターは肩をすくめ、ニヤリと笑った。


「まぁ、俺の矢がトラックに当たっちまったのが発端っちゃ発端だな。けどよ、面白えじゃん! お前、クッキー人間として新生活始めてみねえ?」


「ふざけるな! こんな身体で生きていくなんて、絶対に認めない!」


 ネロの怒号が朝の通学路にこだました。だが、彼の知らないところで、運命の歯車はすでに動き始めていた。


 通学路は一瞬にしてカオスと化した。トラックは路肩に突っ込み、煙を上げながら停止。荷台の資材が地面に散乱し、鉄パイプが転がる音が響く。マミを含む他の生徒たちは、驚きのあまり立ち尽くしている。


 ネロは地面に拳を叩きつけ、悔しさに震えた。クッキーの身体は意外と丈夫で、拳を叩いても痛みはほとんどなかった。


 それが逆にネロのプライドを傷つけた。桜の花びらが彼の周りに降り積もり、まるで皮肉な舞台装置のようだった。


「こんな身体、丈夫だろうがなんだろうが、僕の美じゃない!」


 グリームはネロの怒りに怯えながらも、なんとか状況を収めようと口を開いた。


「ネ、ネロさん、落ち着いてください! 僕、なんとか元に戻す方法を探しますから!」


「元に戻す? お前がこんな身体にしたんだろ! 責任取れよ、クソ死神!」


 ネロの毒舌がグリームを刺す。グリームはさらに縮こまり、ノートをぎゅっと握りしめた。だが、その時、キャスターが再び口を挟んだ。


「おいおい、グリームは悪くねえだろ。俺の矢がトラックに当たんなきゃ、こんなことには――」


「黙れ! お前も同罪だ! そのバカデカい弓をしまえよ!」


 ネロはキャスターにも食ってかかった。キャスターは一瞬ムッとした表情を見せたが、すぐにニヤリと笑い返した。


「ハハ、いい度胸じゃねえか、クッキー野郎。気に入ったぜ。お前、なかなか面白いな」


「誰がクッキー野郎だ! 僕は美門ネロだ!」


「いいか、お前ら。この身体を元に戻すまで、僕は絶対に許さねえ。分かったな?」


 グリームはこくこくと頷き、キャスターは肩をすくめて笑った。


「頑張れよ、クッキー王子。まぁ、俺はこれで仕事に戻るぜ」


 キャスターはそう言い残し、クロスボウを担ぐと大きく翼を広げ、一瞬で上空へ飛び去った。グリームはネロに怯えながらも、なんとか言葉を絞り出した。


「ネ、ネロさん……僕、ほんとに元に戻す方法、探しますから……その、信じてください……」


「信じる? お前みたいなヘタレ死神を簡単に信じるわけねえだろ。さっさと僕を運べ!動け!」


 ネロの怒号に、グリームは涙目で頷いた。こうして、死神とクッキーと化したお菓子な美少年の物語が幕を開けたのだった。

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