キャスタードグリーム -Caster and Gream-

水煮ランド

死と愛とクッキー

第1話

 彼が朝、鏡の前に立つ姿は、まるで神話の美少年ナルキッソスが現代に降臨したかのようだった。少なくとも、彼自身はそう確信している。


 漆黒の髪は一本一本が計算されたように滑らかに流れ、鋭い鳶色の瞳はどこか人を寄せ付けない冷たさを湛えている。


 頬のラインは柔らかく、しかし顎にかけては意志の強さを感じさせるシャープさがある。完璧に整った眉、鋭い目元、滑らかな肌に満足げに頷いた。


 美門みかどネロ、18歳の彼は自分の姿をじっくりと眺め、薄く微笑んだ。


「今日も完璧だな。美の化身たるこの僕に、世界はただ跪くしかない」


 彼の部屋は、まるで高級ホテルのスイートルームを思わせる洗練された空間だった。


 白と金を基調としたインテリアに、壁一面には自撮りの写真が額縁に収められて並ぶ。どの写真も、まるでファッション誌の表紙を飾るかのような計算し尽くされたライティングとポーズだ。


 部屋の中央にはキングサイズのベッドが鎮座し、シルクのシーツが朝の光にきらめく。


 ベッド脇のサイドテーブルには、フランス製の高級化粧品が整然と並び、まるで小さな美術品の展示のようで、棚には美に関する書籍――スキンケアの科学からルネサンス期の美学まで――がぎっしりと詰まっている。


 それから、ネロは極端な偏食家だった。朝食は決まってアーモンドミルクのスムージーと、オーガニックのダークチョコレート一欠片。これ以外のものは頑として口にしない。


 彼のキッチンには、専用のブレンダーと厳選された食材だけが置かれ、冷蔵庫には「美の源」と書かれたラベル付きのボトルが並ぶ。


「美は内側から作られる」が彼の口癖だが、実際には「面倒なものは食わん」と同義かもしれない。


 今日も彼は、ガラス製のタンブラーにスムージーを注ぎ、チョコレートを一欠片つまんで口に放り込んだ。濃厚なカカオの香りが鼻腔をくすぐり、ネロは満足げに目を細めた。


「さて、今日も凡庸な高校生どもを僕の美で圧倒してやるか」


 ネロは制服のネクタイを鏡の前できゅっと締め、鼻で笑った。


 紺のブレザーは彼の細い肩にぴったりと合い、シャツの白さが肌の透明感を一層引き立てる。彼は最後に髪を軽く整え、指先で前髪を微妙に動かした。完璧だ。


 だが、心のどこかで小さな不安が蠢いていた。最近、妙な胸騒ぎがするのだ。まるで何か大きな出来事が迫っているかのような感覚。


 夜中にふと目が覚め、窓の外をじっと見つめてしまう、そんな瞬間が日に日に増えていた。


「ふん、馬鹿馬鹿しい。僕にふさわしくない感情だ。僕に恐怖など……無縁だ」


 彼はそんな考えを振り払うように首を振った。肩に鞄をかけ、玄関のドアを開ける。


 外は春の朝らしい清々しい空気が漂い、遠くで小鳥のさえずりが聞こえる。ネロは一瞬、その穏やかな風景に心を奪われそうになったが、すぐにいつものように毒づいた。


「こんな平凡な朝が僕にふさわしいわけない」


 通学路はいつものように賑やかだった。桜並木が続く歩道を、学生たちがぞろぞろと歩いている。淡いピンクの花びらが風に舞い、アスファルトに小さな絨毯を作っていた。


 ネロはそんな雑多な群衆を横目で見ながら、優雅に歩を進めていた。


 すると突然、背筋に冷たいものが走った。まるで誰かに全方位から見られているような感覚だ。


 彼は立ち止まり、辺りを見回した。桜の木々が風に揺れ、花びらがひらひらと舞う。遠くでトラックのエンジン音が低く響き、近くでは生徒たちの笑い声がこだまする。いつも通りの通学路。変わったところは何もない。だが、なぜか心臓が少し速く鼓動していた。


「……気のせいか。僕がこんなことで動揺するわけないだろ」


 ネロは自分を納得させるように肩をすくめ、再び歩き出した。だが、その瞬間、彼の知らないところで、運命の歯車が軋みながら動き始めていた。


   ◇◇◇


 冥界。現世のすぐ近くに存在しているが、普通の人間には見ることのできない別の次元。


 そこは現実と非現実の狭間、薄いヴェールで隔てられた空間。赤黒い空はどんより曇り、どこか不穏な雰囲気が漂うこの場所で、異様な光景が繰り広げられていた。


 ヘルズゲー都デスサイ住。黒いローブに身を包み、見た目は20代の青年だが、生気のない青白い肌をしていて、その目はどこか虚ろ。ローブの裾は擦り切れ、まるで何年も洗っていないような薄汚れた印象だ。


 彼の手には「死のリスト」と書かれた古びたノートが握られていた。革の表紙はひび割れ、ページの端は黄ばんでいる。そこには、今日死ぬ予定の人間の名前が記されている。ノートの一番上に大きく書かれた名前――「美門ネロ」。


「う、うう……なんで僕がこんな大役を……」


 青年はリストを見つめながら、ぶるぶると震えていた。


 死神である彼は、その中でも最下級で、普段は小さな事故や老衰で死ぬ魂を回収する程度の仕事しかしていない。


 それがなぜか、今回は「交通事故で死ぬ高校生」という、ちょっとした注目の案件を任されてしまったのだ。彼の細い指はノートを握りすぎて白くなり、額には冷や汗が浮かんでいる。


「ネロさん、18歳……美少年……うわ、写真見る限りめっちゃ綺麗な人じゃないですか……こんな人を死なせるなんて、僕、気が重いよ……」


 青年はリストに貼られたネロの写真を眺め半泣きになった。写真の中のネロは、まるでモデルのようにポーズを決め、自信に満ちた笑みを浮かべている。そんな彼の姿に圧倒され、ますます自信を失った。


 彼は極度の心配性で、仕事のたびに「本当にこの人でいいのかな」「間違えたらどうしよう」とパニックに陥るタイプだ。


 過去には、誤ってリストにない魂を仮死状態にしてしまい、上司からこっぴどく叱られたこともある。それでも、死神としてのライセンスを失うわけにはいかない。彼は深呼吸し、震える声で自分を鼓舞した。


「よ、よし! やるしかない! トラックが来るタイミングで、ネロさんが道を渡るように……そしたら、自然に事故が……うう、怖いけど頑張る!」


 彼がそんな決意を固めたその時、背後からド派手な声が響いた。まるで雷鳴のような、空間を切り裂く声だった。


「おい、そこの暗い死神! 道塞いでんじゃねえぞ!」


 青年が振り返ると、背中から白い翼を生やした長身の男が立っていた。


 長めの銀髪をオールバックにし、革ジャンに無数のシルバーアクセサリーという、不良漫画から飛び出してきた、いかにもワルという出で立ち。


 背中には「LOVE OR DIE」と刺繍され、腰にはチェーンがじゃらじゃらと揺れている。肩に巨大なクロスボウを担ぎ、その表面には無数の傷と、なぜかハートのステッカーが貼られていた。彼はニヤリと笑い、青年を見下した。


「てめえ、グリームだろ? 底辺ザコ死神って噂の。こんなところで何ウジウジしてんだ?」


「ひ、ひいっ! キャ、キャスターさん!? ど、どうしてここに……?」


 グリームはキャスターの威圧感にすくみ上がり、後ずさった。足元で小さな石につまずき、危うく転びそうになる。


 キャスターは愛の神にしてキューピット。効率を愛し、ルール無用の仕事ぶりで、効率よく「愛の矢」を射ってカップルを量産することで自身の階級昇格を狙っている悪名高い存在だった。彼はグリームの怯えた様子を見て、ますます調子に乗った。


「ハッ、ビビってんじゃねえよ。俺はただ、仕事のついでにこの辺でデカい一発ぶちかましたいだけだ。見ろよ、この通学路! いっぱいいるガキを一気に八人くらいブチ貫いて、まとめてカップル四組ぐらい作っちまおうって作戦だ」


 キャスターが指差した先には、ネロやマミを含む高校生たちが歩いている。桜の花びらが舞う中、彼らは無邪気に笑い合い、朝の活気に満ちていた。


 グリームはそれを見て、慌てて叫んだ。


「だ、ダメです! その中に僕の担当の人がいるんです! ネロさんを死なせなきゃいけないのに、もしキャスターさんの矢で変なことになったら……!」


「ハ? 死神の仕事なんざ知ったこっちゃねえよ。俺の階級昇格がかかってんだ。邪魔すんなら、てめえのその貧弱な身体、燃やしてやってもいいぜ?」


 キャスターはクロスボウを構え、グリームに軽く威嚇した。


 向けられた先端がグリームの鼻先をかすめ、彼は「ひええ」と情けない声を上げ、ノートを胸に抱きしめた。だが、内心ではほんの少し、キャスターへの反発が芽生えていた。


「うう……僕だって、ちゃんと仕事したいのに……キャスターさん、いつもこうやって威張って……」


 グリームのそんな小さな反抗心も、キャスターにはまるで関係ない。彼は通学路を見渡し、目を輝かせた。まるで獲物を見つけた捕食者のような彼の瞳が鋭く光る。


「おっと、いい感じのタイミングだ! あのイケメンとその前の女共々、まとめてぶち抜いてやるぜ!」


 キャスターの視線は、通学路を歩くネロを含めた八人の学生たちを捉えていた。


 彼はクロスボウに巨大な矢をセットし、筋肉が盛り上がる腕で弦を引いた。


 ハート型のやじりは燃え盛り、まるで愛の力を象徴しているかのようだ。そして、躊躇うことなく一気に引き金を引いた。


「ちょっと待ってって――」


 グリームが叫ぶ間もなく、キャスターが矢を放った。矢はものすごい勢いで飛び出し、一直線に通学路を突き進んだ。


 空気を切り裂く音が響き、桜の花びらがその風圧で舞い上がる。


 だが、その瞬間、道の脇から大型トラックが飛び出してきた。荷台には溢れんばかりの建設資材が積まれ、タイヤは泥で汚れている。


 矢はトラックの後輪に直撃。ゴムが破裂する鋭い音が響き、タイヤはパンクした。トラックは制御を失い、蛇行しながら暴走を始めた。


「チッ! ミスったか!?」


 キャスターが驚きの声を上げる一方、グリームはリストを握り潰しそうになりながら叫んだ。


「や、ややや、やばい! トラックがネロさんの方に! こ、これ、予定と違う!」

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