第3章

 三連休の初日、藤木は朝早くに目を覚ました。カーテンを開けると、雲ひとつない青空が広がっている。その空を眺めることは、藤木にとって日常のほんの少しの癒しであり、同時に心の中で湧き上がる漠然とした焦燥感を隠すための理由でもあった。空は広い。確かに広い。しかし、それがどうしたのだろう。そこに自分の存在を証明する何かがあるわけではない。


 今日は小山と数人の同僚と一緒に、郊外の小さなカフェへ行く予定だ。藤木にとっては珍しく、誘いに乗ることを決めた。ただ、心のどこかでそれが正しい選択かどうかはわからないままだ。何かをして、何かを見つける。それが本当に意味のあることなのか。それとも、ただ流されているだけなのか。


 彼女はバスの時刻表を確認し、身支度を整えてから家を出る。歩きながら、さっきからずっと考えていた。自分の行動が本当に「自分の意思」から来ているのか、それとも他者の期待に応えているだけなのか。ふと、そんな疑問が再び頭をもたげてくる。だがその答えを出すことができないまま、バスに乗り込んだ。


 バスの窓から見える風景は、街の喧騒を離れていくにつれて次第に静けさを増していく。藤木はその景色をぼんやりと眺めながら、周りの人々の様子を観察する。彼女の視線はどこまでも鋭く、同時にどこか冷めたものを感じさせる。


 小山と他の同僚たちは、藤木があまり口を開かないことに慣れているようだった。それでも、時折交わす会話の中で、藤木は自分の興味がどこにあるのかを感じ取る。彼女が関心を持つのは、他人の言葉の背後に隠れた感情や意図だ。小山が無意識に見せる表情、言葉を選ぶ瞬間。その一つ一つが、藤木にとっては何よりも魅力的な観察対象だった。


 「藤木さん、どうしたんですか?」

 突然、小山が声をかけてきた。藤木ははっとして顔を上げた。


 「え?」

 「なんだか、考え事してるみたいでしたけど。」

 小山が心配そうに見つめる。その目線が藤木の心にほんの少しの波紋を立てた。


 「考えていたことがあって。」

 藤木は無理に笑顔を作り、答える。

 「ただ、何気ないことを。」

 小山は微笑みながら、また会話を続ける。藤木はその会話に適応しながら、心の中ではまた別のことを考え続けていた。


 ――人間は、他者に「分かってもらいたい」という欲求に突き動かされるものだ。小山がこちらを気にかけてくれるのは、ひとつの優しさだろう。しかし、その優しさをどう受け取るべきか。自分の内面をさらけ出すことで、得られるものがあるのだろうか。それとも、逆に何かを失うのだろうか。


 車窓から流れる景色が変わり、町の外れに差し掛かると、藤木はようやく心を落ち着けることができた。小さなカフェに到着すると、同僚たちはすでに店の前で集まっていた。藤木は静かにその場に加わり、皆の笑顔を眺める。


 カフェは、どこか懐かしい雰囲気が漂っていた。木製のテーブルに、古びた陶器のカップ。暖かな空気の中で、藤木はしばらく静かに座っている。会話が途切れることなく続く中で、彼女はその言葉のひとつひとつに耳を傾けながら、どこか遠くを見つめていた。


 この時間は、確かに「今」を生きている感覚を与えてくれる。それでも、藤木はその感覚に完全には身を委ねられなかった。何度も、何度も心の中で問いかける自分がいた。

 ——私は、この瞬間をどう受け取るべきだろうか。今、目の前に広がる世界は、私に何を教えてくれるのだろうか。


 小山が突然、笑いながら言った。

 「藤木さん、何か難しい顔してますよ。今日はリラックスしてください。」


 その言葉に、藤木はようやく自分の顔が硬直していることに気づいた。少しだけ苦笑し、頷いた。

 「はい、分かりました。」

 だが、心の中ではまだ答えが見つからない。自分の思考が、あまりにも複雑に絡みすぎているからだ。


 カフェで過ごすそのひととき、藤木はそれがどれほど他人との接触によって成り立っているものかを感じ取っていた。小山の無邪気な笑顔、他の同僚たちの雑談、それらすべてが、彼女にとってはただの外的刺激に過ぎなかった。だが、その刺激が無意識のうちに、自分の中に小さな反響を生む。それが何なのか、まだ分からない。けれども、藤木はそれを無理に解明しようとはしなかった。

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