第20話 狐の涙と夜明けの誓い
追手が去った後のアパートは、まるで台風が過ぎ去った後のようだった。割れた窓ガラス、ひっくり返ったテーブル、散乱した本……。そして、それ以上に重苦しい空気が、狭い六畳間に満ちていた。
俺たちは黙々と後片付けを進めた。リコは肩の傷を押さえながらも、「これくらい大丈夫です!」と気丈に振る舞い、割れた食器の破片などを集めている。その顔には悔しさが滲んでいた。ルナ(猫)はキャリーバッグの中から出てきて、心配そうにリコやシズクの周りをうろついている。
そして、シズクは……。
普段の冷静沈着さが嘘のように、彼女は部屋の隅で膝を抱え、壁に向かって座り込んでいた。時折、小さく肩が震えている。先ほどの戦闘で受けた精神攻撃と、呼び覚まされた過去の記憶が、彼女の心を深く苛んでいるのは明らかだった。
「シズク殿……わたくしは平気ですから、あまり気を落とさないでください!」
リコが健気に声をかける。
「いつまでもメソメソするでない、シズク! お前ほどの者が、この程度のことでどうしたというのじゃ!」
ルナも、彼女なりに叱咤激励しているようだが、シズクはただ黙って俯くだけだった。彼女の周りには、厚く冷たい壁があるように感じられた。
夜が更け、リコとルナは疲労もあってか、それぞれの布団(リコは俺の隣だが!)で眠りについた。だが、シズクはまだ、部屋の隅で膝を抱えたままだった。その姿は、ひどく小さく、儚げに見えた。
俺はキッチンで温かいココアを淹れると、そっとシズクの隣に腰を下ろした。マグカ ップを差し出すと、彼女は一瞬驚いたように顔を上げたが、黙ってそれを受け取った。
「……眠れないのか?」
俺が静かに尋ねると、シズクは小さく首を横に振った。長い沈黙の後、彼女はぽつり、ぽつりと語り始めた。その声は、いつもの理知的な響きとは違い、弱々しく震えていた。
「……わたくしには、かつてお仕えし、守ると誓った方々がいました。リコ殿のような……太陽のように明るい方も……あなたのように、優しい方も……」
その瞳は遠くを見つめている。良い思い出と、そして、それ以上に辛い記憶を辿っているように見えた。
「しかし……わたくしの判断の誤り、力の未熟さが原因で……守ることが、できませんでした。わたくしが……もっとしっかりしていれば!」
言葉が詰まり、彼女の白い指が自身の膝を強く握りしめる。
「今日の戦闘で、あの黒装束の女の術を受けた時……あの時の光景が……また、繰り返されるのではと……わたくしのせいで、また大切な仲間を……リコ殿まで危険な目に……!」
ついに、彼女の瞳から大粒の涙が溢れ出した。普段のクールな仮面が剥がれ落ち、露わになったのは、深い後悔と恐怖に苛まれる、一人の脆い少女の姿だった。
「もう……誰も失いたくないのです……。怖いのです……また同じことが起きるのがっ!」
その嗚咽を聞いて、俺はたまらなくなった。理屈じゃない。ただ、この震える肩を、支えてやりたいと思った。
俺は言葉を探しながらも、そっと手を伸ばし、シズクの肩を抱き寄せた。
「……お前のせいなんかじゃない」
ビクッとシズクの体が強張るのが分かったが、俺は構わず言葉を続ける。
「過去に何があったのか、詳しいことは俺には分からない。無理に話せとも言わない。でもな、シズク…これだけは信じてくれ」
俺はシズクの体を自分の方に向けさせ、その涙で濡れた紫色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「お前はもう、一人じゃないんだ。俺がいる。リコだっている。ルナだっている。俺たちは、仲間だろ?」
「……っ」
「お前が怖いなら、俺たちがそばにいる。お前が戦うなら、俺たちが背中を守る。だから……もう一人で抱え込むなよ」
そして、少しだけ力を込めて、彼女を抱きしめた。
「俺が、必ずお前を守る。リコも、ルナも……皆、絶対に守ってみせるから。だから……安心しろ」
不器用な言葉だったかもしれない。何の根拠もない、ただの決意表明だ。でも、俺の今の精一杯の気持ちだった。
俺の胸の中で、シズクの嗚咽がさらに大きくなった。でもそれは、さっきまでの絶望的な響きとは違う、何かを吐き出すような、縋るような響きを持っていた。俺はただ黙って、その小さな背中を優しくさすり続けた。ケモミミ美少女を抱きしめているという状況に、心臓はとんでもない音を立てていたけれど、今はそんな邪念は封印だ。
どれくらいの時間が経っただろうか。ようやく嗚咽が収まり、シズクはゆっくりと顔を上げた。その目元は赤く腫れていたが、瞳には、先ほどまでとは違う、微かな光が宿っているように見えた。
「……ありがとう、ございます……相川、殿」
掠れた声で、彼女はそう呟いた。
「……おう」
俺は照れ臭くて、短くそう返すのが精一杯だった。
窓の外が、少しずつ白み始めていた。長い、長い夜が明けようとしている。
シズクの心の傷が完全に癒えたわけではないだろう。でも、この夜を境に、俺たちの間には、単なる仲間以上の、もっと深い、特別な絆が生まれた気がした。
俺は改めて決意する。もっと強くならなければ。この大切な居場所と、かけがえのない仲間たちを守るために。
朝日が、破壊された部屋と、寄り添う俺たち二人を静かに照らし始めていた。
(続く)
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