第2話 父の記憶

翌朝、ミラは父よりも早く目を覚ました。


 理容室のシャッターはまだ閉じられたまま。春の朝靄が通りを薄く覆い、どこか湿った鳥のさえずりが、隣家の屋根の上から響いてくる。


 昨夜、こっそり読んでしまった便箋は、元の場所――父の書斎の机の上に戻しておいた。今朝、それに気づいた父は何を思ったのだろうか。


 リビングでミラは湯気の立つカップを両手で包み込みながら、階段の上から聞こえてくる父の足音に耳を澄ませた。


 やがて、シンスケが階段を下りてきた。洗顔を終えたばかりの、まだ眠たげな顔。


「おはよう、ミラ」


「……おはよう、父ちゃん」


 会話のはじまりは、いつもと変わらない。けれど、ミラの胸の内には言葉にできないざわつきがあった。


 シンスケは無言でコーヒーを淹れ、カウンターに腰を下ろす。新聞を広げるふりをしながら、ちらとミラの様子をうかがっているようにも見えた。


「……昨日、書斎に入ったとよ」


 ミラは思い切って切り出した。


 新聞を持つ父の手が、ほんの少しだけ止まる。


「そうか。鍵、開いとったか」


 その言葉に、ミラは小さく頷いた。


「アイザワ・マサシって人、知っとる?」


 シンスケはコーヒーを口に運び、しばらく無言のままだった。そして、ゆっくりと答えた。


「高校までずっと一緒やった幼なじみたい。俺が九大、あいつが東大に行ってからは、あんまり会うこともなかったばってん……物理をやっとってな、天才やったとよ」


「その人の手紙、読んだ?」


「読んだ」


「“彼女は、危ないところにおる”って……あれ、やっぱお姉ちゃんのことやろ?」


 シンスケは少しだけ顔をしかめた。


「そうかもしれん」


 短くそう言ったあと、彼はカップを棚に戻し、窓の外を見つめる。


「ミナが、何かに巻き込まれとるとしたら、それは……俺の過去と、そしてミナが“自分のこと”を知ってしもうたからかもしれん」


「父ちゃんの……せい?」


「昔な、いろいろあったとよ。ここに帰ってくる前、俺はいろんなもんに関わっとった。ミナは、自分がどんな存在かってことも、あいつなりに理解しとったはずや。そいば、どこかで外に漏れてしもうたんかもしれん」


 ミラは黙ってその言葉を受け止めた。


 父の過去。知らなかった時間。そこに姉が巻き込まれているというのなら――


「……だったら、私が行く」


「どこに?」


「東京。お姉ちゃんを、探しに」


 シンスケは驚いたように目を見開いた。


「無茶や。ミラ、おまえはまだ……」


「でも、誰も動かんのなら、私が行くしかなかろ? 父ちゃん、じっとしとってよかと?」


 その問いかけに、シンスケは答えられなかった。


 ミラの声は震えていたけれど、その瞳はまっすぐに父を見ていた。


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