ひとつきりの風景

トウシン

第1話 風の音だけが聞こえる

ナンコウ市の春は、ほかの町よりも少し遅れてやってくる。


その分、空気は澄んでいて、光の粒もどこまでも優しい。冬枯れの畑に少しずつ緑が戻ってくる頃、ミトウ・ミラは理容室の窓辺で、風に揺れるカーテンをじっと眺めていた。


「……お姉ちゃん、今日も連絡なしかね」


ぽつりとつぶやいた声は、風の音に溶けていった。カーテンの隙間から差し込む陽の光はやわらかく、外ではヒバリが鳴いていた。三月の終わり、春休み。友達はみんな遊びに出かけていた。けれどミラは、なんとなく心がざわざわして、家にいた。


東京で大学生活を送っている姉・ミナからの連絡が、ここ数日ぷっつりと途絶えている。


「きっと忙しかとやろ、って母ちゃんは言いよったけど……」


母の言葉を思い出しても、胸の奥の違和感はなかなか消えなかった。姉は、どんなに忙しくても用件だけのLINEくらいは送ってくる人だった。たとえ夜遅くても、通学電車の中からでも、「今日ね、ちょっとおもしろいことがあってさ」とか、くだらない話をよく送ってきていた。


でも、今回は違う。最後のメッセージは五日前。


『ごはん、ちゃんと食べてる?』


たったそれだけ。何気ない一文。それっきり、既読もつかなくなった。


スマホを握りしめたまま、ミラはもう一度画面を見つめた。意味なんてないのに、つい読み返してしまう。何か見落としているんじゃないかと思うけれど、そんなものはどこにもなかった。


そのとき、店の奥の方から電話の音が鳴った。


「……はい、ミトウです……えっ、あ、はい、ミナは……」


母の声だった。電話の相手に、どこか困っているような雰囲気が伝わってくる。


ミラはそっと立ち上がり、受付を横目に裏口の方へ回った。なぜだか、父の書斎が気になって仕方なかった。普段は鍵がかかっているはずのあの部屋が、今朝はなぜか開いていた。


父がいつも白衣の裏に隠している、小さな古びた鍵。幼い頃、一度だけ見たことがある。


部屋の中には、古い本が積まれ、古いパソコンと分厚いノートが並んでいた。見たことのない数式や図、そして印刷された学術論文の山。


それだけではない。引き出しの奥からは、茶封筒に包まれた何枚もの手紙や写真が出てきた。手紙は外国語で書かれたものもあり、日付は十数年前のものから、つい最近のものまで混在していた。


「……これ、全部……父ちゃんの?」


ミラは手紙の束の中から、少しだけ色の違う一通の封筒を取り出した。差出人の欄には、こう書かれていた。


――アイザワ・マサシ


どこかで聞いたことのあるような名前。でも、誰だったかは思い出せない。


封筒の中には、一枚の便箋だけが入っていた。


『シンスケへ あのときの記号をまだ覚えとるね? 彼女は、危ないところにおる』


ミラは便箋をそっと置いて、深呼吸した。


「……父ちゃんより先に読むの、やっぱマズかったやろか」


風がまた、カーテンをふわりと揺らしてくる。


春の風は、どこか不安で、でも確かに、何かを運んできている気がした。

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