第四章 夜鳴きの鈴 再び
重い雲が空を覆っていた。
朝とも夕ともつかない鈍い光が辺りを包み込み、息をするたびに湿った空気が肺にまとわりつく。
「……重てぇ空だな」
剛がぼそりと呟く。
乾いた声が、湿気を含んだ空気にすぐさま吸い込まれて消える。
「さっきの空とはまるで違う」
慎也が続けた。
「ほんの数時間前のことだぞ」
大輔の声にもわずかに疲労が滲む。
空は灰色に沈み、視界の端で雲が蠢くように流れている。
まるで何かが天井でうごめいているようだった。
三人は歩を進める。
先程歩いたはずの道なのに、どこか違う。
「島が……縮んだみたいだ」
剛が言う。
「景色が歪んで見える」
まるで島そのものが三人を囲い込もうとしているかのようだった。
記憶の中の島は、もっと明るく、広かったはずだった。
港から続く小道。潮の匂いが運ぶ、昔の夏の気配。
「ここで、みんなで駆け回ったっけな」
剛がふと思い出す。
「悠真は誰よりも走るのが速かったな」
慎也が笑いそうになりながら言うが、声はすぐに途切れた。
「けど……」
大輔が続ける。
「悠真は残った。俺たちが島を離れたあとも」
三人はふと足を止め、黙り込んだ。
あの日、悠真は確かに言ったのだ。
「俺は、ここでいい」
だからこそ違和感が強まる。
「なのに、東京で同窓会を開いた?」
慎也が呻くように言う。
「あいつがわざわざ……?」
剛も眉をひそめる。
住民たちの気配はますます異様だった。
誰も口をきかない。
目が合えば逸らすどころか、家の中へと慌ただしく姿を消していく。
カタン。
バタン。
扉が閉まる音が続けざまに響く。
「まるで……島全体が俺たちを拒んでるみてぇだな」
剛が歯ぎしりするように言う。
「いや」
慎也がぽつりと呟く。
「拒んでるんじゃない。恐れてるんだ」
その言葉に、大輔は何も返さなかった。
胸の奥に、ぞわりとした感覚が広がる。
風が吹いた。
その風に混じって、かすかな音が聞こえた。
カラン。カラン。
「……鈴?」
剛が顔を上げる。
「聞こえる」
慎也が答える。
記憶の中に、かすかに重なる音。
「……あの夜と同じだ」
大輔が呟いた。
少年時代、肝試しの夜。
闇の中、確かに聞こえた鈴の音。
闇の中で、微かに揺れる光とともに、遠くで鳴る音。
「まさか……」
剛が声を震わせる。
そのときだった。
風がひときわ強く吹き、砂埃が舞い上がった。
「やぁ」
声がした。
悠真だった。
まるで、三人の足が止まるのを待っていたかのような絶妙なタイミングで。
「また会ったね」
悠真の笑みは、変わらず貼りつけたようだった。
目は細められ、笑っているのにどこか感情が伴っていない。
「悠真……」
慎也が呟く。
「まるで待ち構えてたみたいだな」
大輔が探るように言う。
悠真はわずかに肩をすくめる。
「偶然さ。狭い場所だからね」
「偶然にしては、できすぎてる」
剛が鋭く返す。
「それにしても」
慎也が続ける。
「お前は島に残ってたはずだ。俺たちが出て行ったあとも」
「ずっとな」
大輔が重ねた。
「それなのに、東京で同窓会を開いた?」
剛がさらに問い詰める。
悠真はわずかに間を置き、笑った。
「外の空気も吸いたくなるって言っただろ?」
その声は、どこか空洞のように響いた。
三人は互いに視線を交わす。
悠真の態度は、あまりにも悠真らしからぬものだった。
「俺たちを呼び寄せたのは、お前だよな?」
大輔がさらに踏み込む。
悠真は、にこりと笑う。
「呼び寄せる?何の事やら…」
即答だった。
だが、その即答がかえって不自然だった。
「野村とも、同じタイミングで会った。偶然にしては、できすぎてる」
慎也が冷たく指摘する。
「へぇ…… 野村も?」
悠真がわずかに眉を動かす。
それは驚きではなく、まるで「計算通りだ」と言わんばかりの動きだった。
そのとき、再び鈴の音が響いた。
カラン。カラン。カラン。
風がざわめき、空気が重く沈んでいく。
「……もうすぐだよ」
悠真が呟く。
その声は、風に乗るかのように耳の奥へ刺さる。
「もうすぐ、始まる」
悠真はふと視線を遠くにやり、静かにそう告げた。
「何が始まるんだ?」
剛が問い詰める。
悠真は答えなかった。
ただ、薄く笑いながら背を向け、ゆっくりと歩き去っていく。
その背中を見送りながら、三人は言葉を失っていた。
「やっぱり、おかしいよな……」
剛がぽつりと言う。
「どこからどう見てもな」
慎也が応じる。
「……あれは、本当に悠真か?」
大輔が呟いた。
答えはなかった。
ただ、風の中に混じる鈴の音だけが、静かに鳴り続けていた。
夕暮れを待たずして、空はすっかり夜の気配に染まっていた。
垂れ込めた雲が空を押しつぶし、陽の光をほとんど地表に落とさない。
島の小道は、湿った闇の底に沈んでいる。
「ここだな……」
剛が立ち止まり、目の前の古びた木造家屋を見上げた。
看板は色褪せ、「民宿たかぎ」と、かろうじて読める。
窓は曇りガラスで中の様子はわからない。
ただ、まるでこちらを見返しているような気配だけが伝わってくる。
「誰か、いるのか?」
慎也が低く呟く。
「入ってみるしかねぇだろ」
剛が息をつき、重い引き戸に手をかけた。
ギィィ……と、軋む音が響く。
中に入ると、ひんやりと湿った空気が身体にまとわりついた。
畳の匂いと古びた木の香りが鼻を刺す。
カウンターの奥から、無言のまま老夫婦が現れた。
主人らしき男は黙ったままじっと三人を見つめ、女将は目を伏せたまま動かない。
「泊めてもらえるか」
大輔が声をかけると、老主人はわずかに頷いた。
「……部屋は用意してあります」
抑揚のない声だった。
だがその言葉に、三人は小さな違和感を覚える。
「用意してある? 俺たち、予約も何もしてないんだが」
慎也が訊くと、主人はわずかに視線を逸らし、低く答えた。
「誰かが来ると思ってましたから」
その返事に、沈黙が落ちた。
「……誰が来ると思ってた?」
剛が問い返すが、主人はそれ以上言葉を発しなかった。
通された部屋は、薄暗い和室だった。
畳は湿気を帯び、敷かれている布団もどこかじっとりと冷たかった。
妙なことに、宿帳にはすでに三人の名前が書き込まれていた。
「誰が……」
大輔が声を漏らす。
「気味が悪ぃな」
剛が布団を手で叩くが、湿り気が手のひらにまとわりつく。
壁には古びたお札がいくつも貼られ、端の方は破れかけている。
「これは……守り札か?」
慎也が指で触れると、お札ははらりと崩れ落ちた。
夜が深まるにつれ、宿全体の空気はさらに重く沈んでいった。
時折、廊下のどこかでギシリと木が軋む音がする。
誰かが歩いているようにも思えるが、気配は曖昧で掴めない。
「なぁ……お前ら、あの老夫婦の顔、ちゃんと見たか?」
剛が声を潜める。
「ああ。まるで死人みたいだった」
慎也が応じる。
「もう、ずっとここに閉じ込められてるような顔だったな」
大輔が静かに言った。
三人は布団の上に腰を下ろし、今までの違和感を確認し合うように言葉を交わした。
「悠真のことだが……」
大輔が切り出す。
「あいつは島に残ったはずだ。なのに、同窓会の幹事として案内状を送ってきた」
「しかも東京でだ。あいつが東京で会おうなんて言うわけがねぇ」
剛が唇を噛む。
「野村も不自然だった。同じタイミングで現れやがって」
慎也が低く続ける。
「すべてが、偶然にしてはできすぎてる」
大輔が締めくくった。
そのとき、また廊下で何かがきしむ音がした。
「……まただ」
剛が警戒する。
静かに耳を澄ますと、今度はふすまの向こうからかすかな鈴の音が聞こえてきた。
カラン……カラン……
「外じゃない。……中だ」
慎也が息を呑む。
誰もいないはずの民宿の中で、鈴の音が確かに鳴っている。
三人は動けなかった。
息を呑んだまま、ただじっと音が過ぎ去るのを待つしかなかった。
(これは、ただの偶然なんかじゃない)
大輔は胸の内で確信していた。
「……おい」
剛が声を潜める。
「誰かが、見てる」
その言葉に、慎也と大輔は同時に頷いた。
やがて音は遠ざかり、しんと静寂が戻る。
「ここまで来てしまった以上……」
大輔が低く言う。
「戻るわけにはいかない」
「分かってる」
剛が息を吐く。
「ここで逃げたら、全部が闇に消えちまう」
慎也も声を絞り出す。
「明日、すべてを確かめよう」
大輔が固く拳を握った。
「この島で、何が起きたのか。そして、これから何が始まるのか」
夜はまだ終わらない。
鈴の音が、またひとつ、遠くで鳴った。
三人はそれぞれの決意を胸に、静かに瞼を閉じた。
闇の中で、ただ次の朝を待ちながら。
火消えて戻り立つ 黒助 @kurosukekaidan
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