第二章 波の向こうへ

 船の甲板に立つと、潮風が頬を打った。

 乾いた塩の匂いが鼻をつき、大輔はわずかに顔をしかめる。


 「変わらないな、この匂い」


 横で剛が苦笑した。

 黒々とした海が果てしなく続いている。遠ざかる陸地が霞み、視界は水と空だけになった。


 「思い出すな……ガキの頃をよ」


 慎也がぼんやりと海を眺めながら呟く。

 その声には懐かしさと同時に、どこかひっかかるものがあった。



 三人が暮らしていたあの場所は、海に囲まれた閉ざされた世界だった。

 フェリーが通うのは日に数便。外の世界との繋がりは希薄で、季節ごとに決まった暮らしが繰り返されていた。


 「夏は毎年、あいつん家で花火だったな」


 剛が懐かしげに言う。


 「あいつって?」


 「石田だよ。親父さんが漁師でさ、仕掛け網の手伝いしながら、貰った駄賃で花火を買い込んでさ」


 「そうだっけ……そうだな。谷口はそのたびに浴衣を着てきてた」


 「似合ってたよなぁ、谷口」


 剛がわざとらしくニヤリと笑う。

 慎也は苦笑しながらも、遠くを眺めたまま続ける。


 「大人たちは、よくわからない連中だったよな。みんな無口で、口を開けば『昔からの決まりだ』ばっかり言ってさ」


 「ああ。何が決まりなのかなんて、教えてくれなかったけどな」


 大輔も応じる。

 大人たちは何かを隠しているようで、それが子供心にも不気味だった。


 「……でも、そんな日常が当たり前だったんだ」


 慎也の声がわずかに沈む。



 ふいに、三人は黙り込んだ。

 波の音だけが耳に響く。


 (当たり前だった、あの頃)


 だが、思い返せば不自然なことばかりだった。

 島を覆うような陰。決して立ち入るなと言われた場所。

 口にはしないけれど、誰もが薄々感じていた異様さ。



 「あの同窓会も……変だったよな」


 剛がぽつりと言う。


 「ああ」


 慎也がすぐに応じる。


 「悠真だけじゃない。場の空気そのものが……どこか、ねじれてた」


 大輔は頷いた。

 谷口や石田は楽しげに振る舞っていたが、その明るさが妙に浮いていた。

 そして、野村。


 「野村……お前ら、気づいてたか?」


 大輔が口を開く。


 「あいつがやけに気さくになってたことか?」


 剛が苦笑する。


 「昔はあんなタイプじゃなかったよな」


 慎也も静かに言う。


 「変わるにしても、あそこまで変わるか……?」


 潮風に乗せて交わす会話は、次第に重く沈んでいった。



 波間に浮かぶ白いカモメがひと声鳴く。

 その声にふと気づかされる。


 「けどな、俺たちだって変わったさ」


 大輔が小さく笑う。


 「都会で暮らしてるうちに、俺たちもあの場所のことを、どこか遠ざけてた」


 「……そうかもしれないな」


 慎也が頷く。


 「けど、やっぱり戻ってくるんだな」


 剛が感慨深げに言う。



 潮の香りが濃くなる。

 やがて遠くにうっすらと陸影が見えてきた。


 慎也が、じっとその影を見つめる。


 「帰ってきちまったな……」


 誰ともなく洩れる言葉。

 その響きに、三人は無言で頷いた。



 船が近づくにつれ、懐かしい風景が徐々に形を成していく。


 桟橋。かつての漁船。くたびれた倉庫。


 「あの桟橋、まだ使ってんのかよ」


 剛が呆れたように笑う。


 「変わってない……いや、時間だけが止まってるみたいだ」


 大輔が呟く。



 波が船腹を打つ音が、次第に重く響きはじめる。

 まるで何かが彼らの帰還を拒んでいるかのように。


 だが、三人は顔を上げた。

 もう引き返すことはできない。



 船が桟橋に横付けされ、ゆっくりと減速していく。


 踏みしめる甲板の感触が、かすかな震えとなって足に伝わる。


 「行くぞ」


 大輔が静かに言った。


 「おう」


 剛が短く答えた。


 「俺たち三人で、だ」


 慎也が言葉を重ねた。



 誰も出迎えに来る者はいない。

 潮風の中に、遠くから漂ってくるような微かな気配があった。


 その気配を胸に刻みながら、三人は歩き出す。


 戻るべきでなかった場所へと。

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