ひょっとこ

雷光が空を裂き、数秒遅れて轟音が耳を打った。心臓が一瞬で冷水に沈められたような衝撃——死ぬかと思った。

だが、驚いたのは雷の音ではない。雷が光った、その一瞬。橋の反対側に、人影が見えた気がしたのだ。しかも、裸の。


 


二月の深夜。冷気は肌を刺し、雨は容赦なく叩きつけてくる。傘がなければ、風呂上がりのようにずぶ濡れになる。そんな中、あの一瞬——暗闇の向こうに、裸の人間が立っていたように見えた。


この時間帯に人がいるだけで奇妙なのに、裸だなんて。驚かないほうが無理だ。


だが、あれは本当に人間だったのか? 仮にそうだとして、なぜ深夜に橋の上で裸になっている?

私の乏しい想像力では、そんな行為の目的なんて青姦くらいしか浮かばない。だが、一瞬目にしたその姿は、ただポツンと佇んでいただけだった。相手は一人。ならば違うだろう。


他にも人がいるのでは?と、暗闇に目を凝らしてみるが、視界は黒一色。距離と雨と深夜の暗さが、何も見せてくれない。


関わらない方がいい。まともじゃない人間に違いないのだから。

そう分かってはいる、けれど気になって仕方がない。


本当にいたのか? なぜ裸で、なぜそこに? どんな顔をしていた?

どうしても、その理由が知りたかった。


足が勝手に動き出した。私は、橋の反対側へと歩き始めていた。


 


すぐに橋上灯の光が近づいてきた。最初はそのまま光の下を通るつもりだったが、ふと思い直して避けることにした。

だが、光は橋の両端まで広がっている。暗いのは、内側の車道と外側の欄干だけだ。車道を歩けば車に轢かれる可能性がある。仕方なく、私は欄干に登り、平均台のように渡って先へ進んだ。


橋の四分の一ほど進んだところで、再び橋の向こうを見た。だが、やはり何も見えない。暗闇の奥には、ただ静寂があるだけだった。


寒さに震える足で、私はまた歩き出した。


 


橋の中央付近に差し掛かったとき、不意に、裸の人間のシルエットが浮かび上がった。

一瞬声が出そうになったが、喉の奥で押し殺す。


なぜ、突然見えるようになったのか——すぐに理解した。

背後から車が近づいていたのだ。車のライトに照らされて、その人影が現れた。


私は慌てて背中を丸め、頭を抱えてうずくまった。自分まで照らされてはまずい。

あの人影がこちらに気づき、逃げられたら台無しだ。


車が通り過ぎてから十秒ほどして、そっと体を起こす。

再び橋の向こうは真っ暗だった。だが、先ほどと違うのは、確かにあそこに人間がいるという確信だ。しかも、裸の。


期待と恐怖で鼓動が激しくなっていく。足音を殺しながら、私はその暗闇に向かって進んだ。


 


橋の四分の三を過ぎた頃、ようやくその姿がうっすら見えた。

肌色がかすかに視界に映る。それだけで十分だった。見間違いではない。裸の人間が、本当に橋の上に立っているのだ。


あと少しで届く。私はもどかしさに耐えながら、その姿を見たい衝動を押さえきれなくなっていた。

一体どんな顔をしているのか。なぜ裸で、なぜここにいるのか。話がしたい。


その瞬間、雷が再び空を裂いた。

一瞬の閃光の中で、相手の姿が鮮明に浮かび上がる。


女だった。

濡れた長い髪。女性特有のくびれ。ふくらんだ胸部、突起のない鼠径部——

そのすべてが、女であると確かに物語っていた。


安堵が全身を包む。

女だからといって、何かをするつもりはない。性別などどうでもいい。ただ、本物の人間だったということが嬉しかった。


マネキンか何かだったらどうしようかと不安だったのだ。

だが、彼女は生きていた。そう確信できただけで、私は胸が高鳴るのを止められなかった。


もう、抑えきれない。走り出したい。走って、彼女の正体を知りたい。

そう思ったとき、脳裏にあの姿が蘇った。


なぜ、胸と鼠径部が見えたのか——そう、正面から見えていたからだ。

あの女は、私を見ていたのだ。


 


思い返せば、車のライトに照らされたときも、こちらを向いていた気がする。

いつから気づいていたのか。


こちらを見ている——つまり、私の存在を知っているということだ。


普通なら逃げるはずだ。深夜、こんな天候の中、誰かが近づいてくれば不気味で仕方ない。

それなのに彼女は、微動だにせず、じっとこちらを見ていた。


恐怖が、興奮を押しのけて体を支配する。

背中に冷たい汗が伝い落ちていく。


逃げたい。けれど、それではここまで来た意味がない。


逃げるくらいなら、今、走るべきだ。

そう思い直し、私は全力で駆け出した。


 


雨が顔に叩きつけられ、視界が歪む。歪んだ視界に、平衡感覚が狂い、スピードが落ちる。

それでも顔を伏せ、唸るような声を漏らしながら、私は彼女に向かって走った。


視界の隅に、もう一人の足が見えた。こちらに向いている足。

ついに、彼女の前まで来たのだ。


その足は動かない。逃げる気配もない。


私はゆっくりと顔を上げた。

だが、膝のあたりまで見えたところで、堪えきれず一気に視線を上げた。


 


そこにあったのは、橋の上にぽつんと立つ——全身鏡だった。

そしてその鏡には、びしょ濡れで、髪を濡らし、目を見開いた私が、映っていた。

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ひょっとこ @kain_5339

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