第4話
すっかり日も落ちて、車内は暗闇の中に年代違いのブルースが流れている。時雨さんの趣味とはちょっと考えにくいから、きっと猫駒さんの趣味だろう。
こんな時間まで外に居るのはいつぶりだろうか?そんなことを考えてみるが、それはきっと意味の無いことだということに気付いて、少し苦笑いが漏れてしまう。
「着いたぞー。ヒトちゃんごめん、時雨叩き起こしてくんない?コイツすぐ寝るんだよ」
突然の停車と共に猫駒さんにそう告げられ、左を見れば確かに目を閉じて俯く時雨さんが。どこでも気を張っているように見えていたから、少し意外かもしれない。
「時雨さん、時雨さんってば。着きましたよ。起きて下さい」
少し肩を揺すってみるが、起きない。それどころか寝言まで小さく聞こえてくる始末。呆れて物も言えない。
「ヒトちゃん、コイツにこう言ってみてよ」
どうしようか考えあぐねていた時、そう猫駒さんから耳打ちされる、確かにこれは私もやられたら少し嫌かも知れないが、このまま仕事に遅れて怪我人が出たりでもしたら元も子も無い、致し方ない。本当に致し方ないが、時雨さんにはさっさと起きて頂こう。今度は強く肩を揺すり、そのついでに先程猫駒さんに仕込まれた脅しを口にする。
「時雨さん!起きて下さい!起きないと猫駒さんが晩ご飯にあなたの嫌いなものパーティを開くそうですよ」
「嘘だろ!親子丼だけはやめろって言ったじゃないか?!」
ほぼ怒号に近い悲鳴で飛び起きた時雨さんと目が合った。猫駒さんの笑い声が響く、どうやらこの脅しは常習的にやっているらしい。信じられないものを見る様な目で私と猫駒さんを一瞥した後、すぐにその淡麗な顔は眉間に皺を寄せて訝しげに口を開いた。
「俺を起こすためにそんな下らない嘘を?」
「嘘かどうかは猫駒さん次第です。親子丼嫌いなんですね」
さっきから意外な行動しか取らないなこの人。本当に四年前と同一人物だろうか?今一度思い返してみる。
……いや、どう見ても同一人物としか言いようがないだろう。
「名前から何から全部嫌いだね。俺は親子丼に親子丼という名前をつけた人物なら殺してもいいと思ってすらいる。生まれる場所が決まってて、ようやく死んでも人間のエゴでどこぞの知れない卵と親子にされるなんて冗談じゃない」
そう一蹴して髪をかきあげた後、時雨さんはさっさと車を降りてしまった。依頼人の所へ向かうのだろうか?思わず私も降りようとした時、車のバックドアが開けられる。
「いいか、お前も猫駒も前線じゃ足手まといだ。絶対に!そこから!出てくるなよ!」
荷台から見覚えのある刀を取り出してそう言う時雨さんの剣幕は物凄くて、私は首を縦に振る他無かった。
こっそり着いていこうと思ってたけれど、あの調子では間違いなく追い返される。邪魔するのは本意ではないし、今回は技術を見て盗むことにしよう。できないなりに、やれることはきっとあるはずだ。
「ヒトちゃん、後ろじゃ見えないっしょ?前来る?」
「行きます」
とは言え、何もしないというのは時により何かする事より辛く苦しいもので、現に暇を持て余してそこそこの時間が経っている。
ヒビの入ってしまった腕時計が長針も短針も頂点を指す。どこかの家から十二の鐘を打つ音がする。私は助手席から窓の外を見た。ぽつんと一つ、LEDに変わったばかりらしい街灯が煌々と地面を照らす。
予感は、あった。粟立つ肌とここまで生きてきた私の勘が、生存本能が、よくないものだと告げていた。桐箱を強く抱き抱え、反射的に窓を少し開ける。今日は無風のはずだが、風の音が聞こえた。
「ヒトちゃん?窓なんか開けて一体何を……」
「黙って」
確認した後窓を閉めて人差し指を口に当てる。不思議そうな猫駒さんを横目に、フロントガラスへ視線をやった刹那、それは地面へと幾度目からしいダイブを果たした。車のフロントガラスにべったりと、赤い液体がこびり付く。悪趣味なことに、この怪異は死んだ時の状況を鮮明に再現するらしい。見ているだけで正気が削れそうだ。
「猫駒さん!ワイパー!」
「了解!俺の愛車汚しやがって!怪異め、洗車代請求すんぞ!」
どこかで改造したのか、目にも止まらぬ速度で稼働するワイパー。きっと前にもこんなことがあったのだろう、苦労が垣間見える。
「ははハ、はルきさあん。どう、どうしてえ?ワタし、かわいいいのに」
窓を完全に閉めるのを忘れたのか、窓の隙間から金切り声のような、はたまた地を這うような声が重なって聞こえてきて、思わず耳を覆った。
ワイパーが優秀な仕事を遂げ、視界が開ける。さっきまで何も無かった街灯の下に、大量の血痕。そしてそこに不安定に立つ、かつて人間であったはずのもの。壊れた頭蓋に、潰れた空き缶みたいにひしゃげた首。これ以上は口でも言いたくない。とにかく、人ならざる存在が、ガラス一枚越しにこちらと相対しているのだ。
「どうシてすてたのぉ!いちばん、一番あいしてたのに!」
「長い、うるさい、喋るな怪異が。お前みたいなタイプが俺は一番嫌いなんだ。愛についてほざくやつは結局そうやって道を誤って二度と帰ってこない。そのくせ、無いものばかり探しているんだ」
隙間から入る冷気だけでも分かる。時雨さんの気配があった。でもそこに四年前のおちゃらけた彼は居ない。居るのは私の知らない、変わってしまった誰かだった。
「ハるきさん……じゃない……だれ?あなたはだあれ?」
「さあ?誰だっていいんじゃない?それじゃ、死んでよ」
街灯の下、なんでもないように時雨さんは刀を振るう。その太刀筋は気怠げで、私が見たものと全く違う。本当に同じ人なのか?容姿が似ているだけの他人じゃないか?本当に私はこの人に憧れたのか?
失望、有り体に言えばそうなるだろう。
呆気なく終わった仕事に対して時雨さんは無関心で、すぐ様に現場を離れようとしているのが見えた。これじゃ、こんなんじゃ。
「このままじゃ、上手くいかない」
口から言葉が溢れ出す。咄嗟に口を閉じるよう自制したし、猫駒さんは応援に夢中で恐らく聞こえてはいないけれど、気を付けておこう。念の為に。
視線をフロントガラスの向こうに戻す。どこか様子が変だった。死んだら何も残らないはずの怪異の血の跡が、まだしっかりとこびり付いていたからだ。
まだ、まだ死んでない。
桐箱を取り落とす。蓋の開いた箱から鈍い光がまた私を見ている。
手の形をした血と肉が、時雨さんの方へ静かに、着実に向かっていくのが見える。
右手は迷わず桐箱の方へ、呼ばれるように真っ直ぐと。私の手によく馴染んでしまっているその肉切り包丁は、忌まわしいお父さんの愛用していた包丁だ。私に愛を囁いて、食べることを何よりも愛していたお父さんの包丁だ。
車の扉を蹴り開ける。私に向かってくる声は聞こえない。目線は一つ、怪異の方へ。
「ハルきさんヨりぃ!あなたのホうが、おいしいカモ!」
一体どうやって生きてるのか、そもそも生きてなんかなかったか。ぐちゃぐちゃになっても、首と胴が泣き別れても変わらぬ怪異の執念に関心すら覚えてしまう。でもやっぱり見た目は見てて気持ちがいいものでもないし、これから死ぬかもしれないと考えると、怖い。けど、この恐怖に高揚している自分も居た。
声が聞こえる。最後に聞いたのは随分と昔の事だけど、お母さんの声だ。
『仁見。ご飯を食べる時はなんて言うんだっけ?』
優しい眼差しのお母さん。ごめん、助けてあげられなくて。
肉切り包丁をしっかりと構える。家畜を殺す時のように、一撃で。
「いただきます」
私の一番よく知ってる、儀式の言葉。命を頂く時の大事な言葉。唱えながら包丁を振るえば、確かな手応えと共に肉のえぐれる音が聞こえる。断末魔はなかった。私にはたくさんの返り血が付いて、脂ぎった血がてらてらとLEDの光を反射していた。視界がきらきらとしていて、全てが綺麗に見えた。なんでか分からないけど、あの異形の化け物に立ち向かえた、これは大きな進歩だろう。
この調子なら、きっと私は変われる。
「ごちそうさまでした」
手を合わせて、締めくくれば、ひとつ思い出したことがある。そう言えば私、車から出るなって言われていたんじゃなかったっけ。
「ひ、ヒトちゃん……そのぉ」
申し訳なさそうな猫駒さんの声、嫌な予感がしてギギと音がなりそうなくらいゆっくりと首を回す。
目に入るのは困ったように眉を下げた猫駒さん、血の跡が擦れた軽バンのフロントガラス、そして。
「それで?俺に言うことは?」
私と同じように返り血を浴びて、ニコニコとした営業スマイルを称えた時雨さん。
「た、大変申し訳ございませんでしたぁ!」
今晩学んだ事は、美人は別に真顔じゃなくても怖い時は怖いということだ。
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