御影殺し

三島カオル

第1話

小さな頃から道を歩けば、それらが時々目に入ることがあった。

 到底人とは呼べない何か、それらは見ているだけで正気を失いそうな見た目をしていることが多かった。言葉自体は私のよく知る言葉で、その不気味な姿のまま、人間社会で当たり前のように暮らしていた。数はそれほど多くない。見かけて月に一度くらいだろうか?最初の頃はあまりに不気味で、見かけ次第その場を後にしていたが、今ではもう慣れたものだ。それらはこちらが認知しなければ牙を向かない、何も知らないフリをすればいいだけ。触らぬ神にたたりなしと言うやつだ。そうして今まで生きてきた。

 しかしこれまで何も起こらなかったから、この先もそうである保証なんてないのを、当時の私はきちんと理解していなかった。

 四年くらい前の冬、お父さんに電車で連れられて来た少し遠くの街。仕事で忙しいお父さんを待つのに飽きて、散策がてら近くの公園を散歩していた時のことだ。

「ねえねえお嬢さん。お嬢さんお嬢さん、お話ちょっといいかしら?」

 背中から、しゃがれた老婆の声で話しかけられた。私は口を引き結んでそのまま歩みを進める。答えてはいけない、連れて行かれるから。

「ねえねえ、ねえったら。お嬢さん、ちょっとお話聞いて欲しいだけなのよ」

 ぞくりと寒気が背中をける。日が段々と落ちて夜がやって来る。夜は昔から、人間の暮らす時間では無い。人間は息を潜めて眠る時間とされているらしい。

 では一体、誰のための時間?

「ねえねえねえ、お話ししましょうよお!聞こえているんでしょお!あなたを見かけたときから、ずっとちょうどいいとおもっていたのよお!」

 答えは明白、この化け物たちの食事の時間だ。

 地面を蹴って走り出す。幸いなことに足には自信があったけど、後ろから聞こえる不気味な声と止まない悪寒があの化け物の存在を雄弁に語る。今まで話しかけなければ追ってくることは無かったのに!

「まあ!キレイなくろいかみのけ!つやつやのしろいはだ!ああ妬ましい、私だってもっとキレイだったのに!」

 化け物の言葉を右から左へ聞き流しながら狭い路地の方へ入る。黄昏時たそがれどきの空に照らされた路地裏は段々と光と闇の比率が入れ替わり、走り抜ける頃には日が落ちきってしまう。

「こっちを向いてよお、わたしとこうかんしましょお!このしろいかみのけなんていらないから、あなたのくろいかみのけをちょうだいな?ちょうだいな?あなたをたべたらもらえるかしら?」

 背後の声はうんともすんとも答えない私に頼み続ける。口調も相まって子供のようだった。私は振り返りも返事もしない。こういうタイプのやつは何もしちゃいけない、何かしたら殺される。生存本能が騒ぐ、今すぐここから逃げ出せ、早く、早く!

 曲がり角を右に曲がる。目の前に飛び込むのは無機質なコンクリートの壁。足を掛けるところもなく、のっぺりとした表面が私の目の前に反り立つ。

「あなたみたいなねえ、キレイな子をねえ、ずうっとずうっと探してたのお!」

 声は私の後ろ、1mもない距離から聞こえてくる。

 冷や汗が額から頬を伝って、足元の砂利に落下するのが感覚で分かった。

「ちょうだいな、ちょうだいな」

 気配が迫る。呼吸が荒れる。涙があふれる。こんなところで死んでしまうのか?まだたった十数年しか生きていないのに?死にたくない、死にたくない。目の前に走馬灯が走る。私に笑いかけてくれたお母さん、真剣に仕事に取り組むお父さん。その短い一生を終えて、光の無い目で私を見つめていた花子のあの真っ黒な目。

 私は死にたくない、死にたくないのならどうしたらいい?

「お生憎様あいにくさま、私の体にはあなたにくれてやる部位なんてひとつたりともありません」

 後ろに振り返り、震える喉を無理やり使って初めて反論する。目の前に飛び込んで来た異質な光景は、私がよく見た日常の延長線上だ。先程まで老婆の声で私を誘っていたこの化け物は、やはり人とは思えない姿をしている。蛇のような下半身にしわくちゃの紙みたいな肌、辛うじて人の形をしているかもしれない顔は醜く歪んでいた。このまま死にたくないなら、私は戦うしかない。鞄にたまたまあったカッターの刃を出して、覚悟を決める。

「いやあああ!ほしいのお!あなたのぜんぶ、ぜんぶぜんぶちょうだいよお!!」

 化け物は駄々をこねる。棒切れのような腕を地面に叩きつけて、蛇のような尻尾を私の方へ振り回す。

「助けて、だれか……!」

 溢れる涙が視界を歪める。せめてもの抵抗で向けたカッターの切先がブレた。

 その隙を見ていたのか、棒切れのような腕は私の手首を掴みあげる。

「つかまえたああ!もらうわねええ!」

 その細さからは考えられないほどに強い握力で、弱っちいわたしの手首はあっさり締めあげられる。

 死ぬんだ、死んでしまうんだ。私、こんな得体の知れないものに食べられて死んじゃうんだ。言葉も出ない。途端に力が抜けて地面に座り込むと、ぎらぎらと光る化け物の目が私を見ていた。

 

「ねえお前、何してるの」

 

 迫る死に絶望しきった時、化け物の背後から、そんな声が聞こえてきた。

「答えてよ、何してるのかって聞いてるの。もうとっくに死んだ身で、まさか生者の命を穢そうとするわけだ」

 硬い靴底が砂利を踏みしめる音がやけに大きく響く。私の手首を締め上げた化け物はそこまで聞いてようやく興味を示したのか、私の腕を握ったまま背後を見た。

「なああにい?」

「うわあ、気持ち悪いな。前衛美術って言ったらなんでもまかり通ると思ったら大間違いだ。よくもまあそんな醜悪な見た目で表を歩けたね」

 水が流れるように自然な罵倒。それが化け物にはお気に召さなかったのか、理解の追いつかない私の事なんかお構い無しに意識を別の方へ向ける。

「おまえええ、わたしわあ!としうえなんだぞお!」

「知らない。俺、老害嫌いなんだよね」

 その声を皮切りに風が吹き抜けて、視界が開ける。耳には地面を強く踏みしめた音と、肉が裂ける音。刀がさやから抜かれる音が残る。

 瞬きをひとつすれば、肩より上で髪を切り揃え、上は白いシャツで下は黒いズボン。腰には少し長めの刀を携えた男が私を背に庇うようにして立っていた。

「生きてる?死体とかそういうの苦手なら目閉じてて。そうじゃないなら好きにして」

 ぶっきらぼうにそう言って、男は私を意識から除外したようだった。

「いたあああい!やめてよおお!いじめないでええ」

「被害者ヅラしちゃってさ、人間食おうとしてる奴が全く小賢こざかしい。そんなに痛いのが嫌ならお望み通り一撃で終わらしてあげよう。あー俺って優しい!」

 男が気楽そうに笑って、カチリと刀の鯉口を切る。踏み込んだ左足、かがむ様な前傾姿勢を取ったことで、男の肩越しに化け物の姿が私の目に映った。

「ゆるさないゆるさない!としうえをうやまわないやつ!ゆるさない!」

「はいはい、聞き飽きたよ」

 瞬間。空気が体感で分かるほどに冷え込む。冬の寒さじゃない、なにか別のものが原因であるのは明白だった。目の前で起ころうとしている超常から、私は目を離せなかった。

「嫉妬に狂ったみにくき者よ」

 高らかに上げられた声が鼓膜にこびり付く。

 風になびいた髪が、やけにはっきりと見える。

「死にそうらえ」

 刀が抜かれ、化け物に向かって振り抜かれる。切り口から血が吹き出す訳でもなく、静かに。そのまま納刀してカチリと音が鳴る。

 ずるり。化け物が真っ二つに別れて、断末魔が耳に入る。何を言っているかは聞こえなかった。それよりも別のことに集中していたのもあるかもしれない。

「ああ良かった、生きてたんだ?」

 あの化け物に立ち向かって平然とこちらに笑顔を向けるこの男が、今の私の興味の中心だった。

「あの、ありがとうございました」

「別にいいよ。仕事みたいなものだから。そうだ、君。割としっかりあの化け物みたいなのを認知してるよね。困ったことがあったら、時間がある時にでもここにおいで」

 突然氷のような手に掴まれたと思えば、そう言ってマジックのように手から一枚の名刺を渡される。名前は『大山猫おおやまねこ』という、どうやら何でも屋というものらしかった。

 私の目線が名刺と男の顔を行ったり来たりしていれば、男はそのまま話を続ける。

「何でも屋『大山猫』家事に掃除に育児まで、なんでもご用命ください。『怖い事』だって大丈夫、全て承ります。『怖い事』のご相談の際は、この俺、国久時雨くにひさしぐれまでご連絡を」

 流れるような営業トークと、胡散臭くて仕方が無い笑顔が私の口を開かせまいと圧力を掛けてくる。質問は受け付けてくれなさそうだ。

「それじゃあお嬢さん。夜道には気をつけて。次あんなのに会ってもまた助けてあげられるわけじゃないからね」

 ひらひらと手を振って颯爽さっそうと去ってしまったあのひとの事を、私はあれから今になっても忘れられずにいる。あの時から私は子供のように無条件で強い憧れをあの男に抱いてしまって、ずっとあの人のようになりたかった。い交ぜになった感情を抱えたまま、四年の月日が経った。

 あれから名刺は色せて、私の心も大分変わってしまったけれど、憧れだけは色褪せないままで。たった四年で何もかも変わってしまった私からすれば、唯一の宝物だった。だから、会いに行こうと思ったのだ。

 懐かしい電車に一人で乗って、おぼろげな記憶を辿ってホームに降り立つ。退色した名刺は、私の行先を示していた。

 名刺を鞄から引っ張り出して、書いてある住所のところまでたどり着く。おもむきのある(言い方によっては老朽化の進んだ)事務所の扉をノックすれば、気の良さそうな声で中から返事が返ってくる。

 私の対面に座った人は私の知る男、国久時雨ではなかったが、別に問題はなかった。最終的に彼が出てくればそれで良かったからだ。

「それでェ?アラサカ……なにさんだっけ。ご要件は?」

 軽薄に聞かれる。ここまでは予想通り、平静を保って私は言った。

荒坂仁見あらさかひとみです。仁を見ると書いて、ひとみ。国久時雨さんに用があって来ました」

「そりゃまたなんで、見たところ『怖い事』があったようにも見えないけどなァ」

 対面に座る男は私を見透かすように見つめてくる。ここで引いたら負けだ、今日の覚悟が全て無駄になってしまう。ひとつ息を呑んで、吐き出す。今日何度目かの覚悟をする。

「お友達に、なりたいんです」

 静まり返る事務所内、天井の方から何かが崩れ落ちる大きな音がした。

 私と、彼の話を始めるとしよう。本音で話せない、不器用者の話だ。

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