神の意志の名残

@Moon__rise

第1話:不思議な死に方

その事件が起きた日、町は不気味なほど静まり返っていた。

いつもと変わらぬ朝。目覚めた私は、何気なくカーテンを開けた。すると視線の先には、パトカーと規制線に囲まれたマンションが、異様な存在感を放っていた。

そして耳に飛び込んできたのは、信じがたい噂だった。

「死体が……二人とも手を繋いでたんだって。皮膚が、全部剥がされて……それに……」

住民たちの口は重い。しかしその目には、抑えきれない興奮が宿っていた。

断片的な情報をつなぎ合わせていくうちに、事件の輪郭が浮かび上がってきた。

男女の遺体は、手を繋いだまま跪いていたという。

背中の皮膚は丁寧に剥ぎ取られ、男の生殖器は無惨なほど破壊されており、首は静かに切り落とされ、その在り処は、まるで神へ捧げられたかのように、誰にもわからなかった。女の子宮は摘出され、二人の亡骸は、血で染まった“イエス・キリストの磔刑画”の前で、まるで祈るような姿勢を取って倒れていた。

まるで――儀式。

信仰に似た、悪意の演出。

町は騒然となった。

だが、数日もすれば、まるで何事もなかったかのように、再び静寂が戻ってきた。

唯一の変化は、捜査協力の呼びかけが増えたこと。

そして、事件の詳細を妙に詳しく語った男――私の隣人の存在だった。

その晩、バイト帰りに例のマンションの前を通りかかると、不意に誰かに肩を叩かれ、心臓が止まりそうになった。小説やアニメでよく見るが、犯人が犯行現場に戻って、自分の作り上げた「芸術品」をじっくり味わう――そんな展開は珍しくない。それを思いながら振り向くと、そこには穏やかな笑みを浮かべた隣人が立っていた。

「びっくりした……! 犯人かと思って、殺されるかと……」

私は怒りに任せて声を荒げた。すると彼は、どこまでも静かな声で言った。

「君を殺す理由なんて、どこにもないさ――少なくとも、今はね。それに……君は相変わらず、感情的になりやすいんだね」

その言葉が、なぜか妙に耳に残った。

彼は、つい最近この街に越してきたばかりのはずだ。

それなのに、まるで昔から私を知っているかのような口ぶりだった――。

だがその瞬間、彼の声と視線には、不思議な説得力があった。

彼は犯人ではない――そう、直感した。

だが同時に、確信した。

彼は、何かを知っている。

証拠は、ない。ただの勘に過ぎなかった。

けれどその勘は、日を追うごとにじわじわと確信へと変わっていった。

隣人は、引っ越してきたばかりの人だった。

普段は穏やかで親切で、よく自作の料理を分けしてくれた。

つい先日も「これは自信作なんだ」と微笑んで、私と一緒に食事をしたばかりだった。

「新しい料理を勉強しているの。五月二日に、うちに食べに来てくれない?」

そのとき彼女がそう言ったのを、私は素直に受け取った。

なんの疑いもなく、ただのご近所付き合いのつもりで――。


その帰り道、彼と並んで歩きながら、事件の話題になった。

彼はまるで目撃者のように、驚くほど詳細に語った。

「どうしてそんなに詳しいんですか?」と私が問うと、彼はこう答えた。

「知り合いが、あのマンションに住んでるんだ。そいつから聞いた話さ」

そう言いながら、肩にかけた大きな黒い袋を撫でた。

「それは?」と尋ねると、彼は笑って言った。

「友達に借りたゲーム機とソフトさ」

けれど、私は知っている。彼の部屋には、テレビがない。

テレビもないのに、なぜゲーム機を借りる必要があるのか。

それに、彼が近くに知り合いがいるなんて、これまで一度も聞いたことがなかった。

疑念は膨らむばかりだった。

ようやく自宅に着き、ドアを開けようとしたとき、彼がドアノブに手をかけたまま、こちらを振り返って言った。

「……君、もしかして俺を疑ってるのか?」

その目つきに、背筋が凍りついた。

「いや、そんなことは……」と咄嗟にごまかし、私は逃げるように部屋へ入った。

――やはり、おかしい。

あのゲーム機の話。あの詳細な証言。

彼の存在そのものに、説明のつかない違和感が付きまとっていた。

そんなとき、静寂を破ってチャイムが鳴った。

覗き穴からそっと外を覗くと、そこには一つの目だけがこちらを見つめていた。

私は驚きのあまり、その場に倒れこんだ。

ドアの向こうから聞こえてきたのは、あの隣人の声だった。

「大丈夫? 今、何か変な音が聞こえたけど……」

私はすぐにドアを開けることができなかった。

包丁を手に取り、背中に隠したまま、ゆっくりとドアを開けた。

彼は相変わらず微笑んでいた。手には、何冊の本も持っている。

「これ、読み終わったから君に貸すよ。君、大学で文学を勉強してたんだろ? 本が好きだと思って」

そう言って、本を玄関にそっと置いた。

「忙しそうだし、これ以上は迷惑かな」と言い残し、彼は帰っていった。

その背中を見送りながら、私はふと彼の言葉を思い出した。

――「明日、新しい料理を試したんだ。ぜひ食べてみてよ」

言い知れぬ不安が、全身を包んだ。

玄関に置かれた本に目をやると、一冊だけ不自然に傾いていた。

見覚えのある本だった。もともとは日本語で書かれていたそのタイトルは、何故かペンで塗りつぶされ、その上からぎこちない中国語が書き加えられていた。

私は中国人だ。その歪な中国語に、嫌な胸騒ぎがした。

なぜ、わざわざ中国語で書いたのか?

あれは、私に向けた“何か”ではないのか?

――その可能性が脳裏をよぎった瞬間、私はもうこの部屋に一秒たりともいたくないと感じた。

翌日、彼の料理を食べるなど、想像するだけで恐ろしい。

私は急いでネットで事件について調べたが、犯人はまだ捕まっていないという。

日本には監視カメラが少ない――そういう問題ではない。

これは、もっと別の、目に見えない恐怖の始まりなのかもしれない。

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