胎動スル穢れ、主従の共闘
夜の「鳴かぬの浜」は、昼間とは全く違う貌(かお)を見せていた。
霧は一層濃く、視界は数メートル先も覚束ない。波の音は遠く、代わりに、ねっとりとした静寂が支配していた。そして、その静寂の中から、確かに聞こえてくるのだ。甲高い、耳障りな……赤子の啼き声が。それは一つではない。幾重にも重なり合い、怨嗟と飢餓感を撒き散らしながら、霧の中を漂っている。
隆之は、浜辺に続く小道を慎重に進んでいた。眼帯を外し、再生された右眼──石榴色の霊視眼を剥き出しにする。世界の色が変わった。霧の中に、澱んだ紫黒のオーラが渦巻いているのが見える。それは、死者の無念や土地の穢れが凝り固まったものだった。そして、そのオーラの中心、浜辺の波打ち際あたりに、一際濃密な、赤黒い瘴気が蠢いていた。
(……これは、尋常ではない)
隆之は内心で呟く。これまでに遭遇した低級な浮遊霊などとは比較にならない、強い怨念と悪意の塊だ。しかも、それは何かを核として、周囲の負のエネルギーを際限なく吸い寄せ、肥大化しているようだった。
『……オイデ……コッチニ……オイデ……』
赤子の啼き声に混じって、脳内に直接響くような声が聞こえ始める。精神への干渉。並の人間ならば、この時点で正気を失うだろう。だが、隆之の精神は、かつての実験と、藍による再生によって、常人ならざる耐性を獲得していた。彼は歯を食いしばり、精神の防壁を固める。
瘴気の中心へと近づくにつれ、赤子の啼き声は狂気を孕んだ絶叫へと変わっていく。霧の中に、ゆらりと人影のようなものが現れた。いや、人影ではない。それは、夥しい数の、嬰児ほどの大きさの、黒い影の集合体だった。それぞれが歪な口を開け、金切り声を上げている。影の中心には、まるで胎児のように丸まった、一際大きな黒い塊が見えた。それが、この怪異の核か。
瞬間、黒い影の群れが、一斉に隆之へと襲いかかってきた!
それは物理的な質量を持たないようでいて、触れた部分から生命力を奪い取るかのような、凍える冷気と精神的な圧迫感をもたらす。
「チッ!」
隆之は舌打ちし、右腕を構えた。皮膚の下で獣毛のような模様が蠢き、指先が鋭い爪へと変形する。
『実験体No.9』としての戦闘能力と、藍から与えられた妖狐の力が融合した、異形の右腕。彼はそれを振るい、襲い来る影を薙ぎ払う。影は悲鳴のような音を立てて霧散するが、すぐに再生し、再び襲いかかってくる。キリがない。
(……核を叩くしかないか)
隆之は霊視眼で、中心の黒い塊を見据える。あれを破壊すれば、この怪異は霧散するかもしれない。だが、無数の影が盾となり、容易には近づけない。
その時。
隆之の背後から、ふわりと温かい光が放たれた。
見れば、いつの間にか藍が彼の傍らに立っていた。彼女の周囲には、燐光を発する狐火がいくつも舞い踊っている。その瞳は、完全に黄金色に輝いていた。
「……邪魔よ」
藍が冷たく言い放つと、狐火が一斉に黒い影の群れへと飛翔した!
狐火は影に触れると、浄化の炎のように燃え上がり、影を次々と焼き消していく。影たちは苦悶の叫びを上げ、恐れるように後退した。
「タカユキ、今!」
「御意!」
道が開けた瞬間、隆之は地を蹴った。超人的な脚力で一気に距離を詰め、瘴気の核である黒い塊へと肉薄する。塊は、まるで危険を察知したかのように、激しく脈動し始めた。
『……クルナ……クルナァァァ!』
塊から、直接的な憎悪と恐怖の念が叩きつけられる。隆之はそれを精神力で弾き返し、獣化した右腕を振り上げた。爪が禍々しい光を放つ。
「……祓え給い、清め給え!」
隆之が、神主としての形ばかりの祝詞を口にしたのか、あるいは単なる気合の掛け声だったのか。渾身の力を込めて、右腕を黒い塊に叩きつけた!
グチャリ、という鈍い音が響いた。
塊は、熟れた果実のように弾け飛び、中から、さらに濃密な、血のような瘴気が噴出した。同時に、赤子の絶叫が、断末魔のように霧の中に木霊した。
『……オノレ……オノレェ……!』
怨嗟の声が響き渡る。それは、海に捨てられた嬰児たちの怨念か。あるいは、この土地に古くから根付く、もっと根源的な「穢れ」そのものの叫びか。霧崎町という土地が、まるで傷口のように、常に異界からの侵食を受け入れている証左なのかもしれない。
瘴気は徐々に霧散し、赤子の啼き声も次第に遠のいていく。嵐が過ぎ去ったかのように、浜辺には再び、波の音だけが戻ってきた。しかし、空気中に漂う、あの粘つくような穢れの気配は、完全には消え去ってはいない。
隆之は、獣化を解いた右腕を下ろし、荒い息をついた。再生された右眼の石榴色の光も、徐々に常の色へと戻っていく。
「……終わった、のか?」
「いいえ」
藍が静かに答える。彼女の周囲の狐火は消え、瞳の金色も薄らいでいたが、その表情は険しいままだった。
「……根源は断ち切れていない。これは、ただの始まりに過ぎないわ。この町は……もっと深い闇を抱えている」
藍は、霧の向こう、町の中心部へと視線を向けた。彼女の霊感は、さらに不吉な気配を感じ取っていた。鳴かぬの浜の怪異は、巨大な氷山の一角に過ぎないのかもしれない。
「戻りましょう、タカユキ。……少し、疲れたわ」
「はい、藍様」
隆之は頷き、眼帯をつけ直した。藍の傍らに寄り添い、来た道を引き返し始める。主従であり、共依存であり、歪んだ家族でもある二人の影は、再び濃くなる霧の中へと静かに消えていった。
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