お月見ともだち
綸
第1話
鈴虫がコロコロと鳴き、家の裏の林ではモズがキュルキュルと古い車のエンジンみたいな声で鳴いている。
開け放していたサッシ窓からは冬の訪れを感じさせる風が入り込む。息をすると肺の中まで冷やされるようだ。両手いっぱいの星を撒いたような夜空には見事なほど丸い月が浮かんでいる。
「こんばんは、来ちゃいました」
ふと、そんな声が聞こえたような気がして周囲を見渡すが誰も来てはいない。それはそうだ。こんな時間に来客なんてあるはずがないのだから。
ただ、こんな夜にはどうしても彼女のことを思い出す。歳の差を気にしない軽い口調に、突然夜中に現れたあの不思議な少女。もう会えないことは分かっているが、思い出さずにはいられない。一夜の夢のような色濃くも儚い彼女のことを。
(1)
団子を食べながら月を見上げるのは秋の風習だったろうか。昔から月がよく見える夜には団子を作ってお月見をしている。月を見上げるだけでもそれなりに満足できるが、カレーに福神漬け、風呂にコーヒー牛乳と良く合う組み合わせがあるように月を見たら団子を食べずにはいられないのだ。
今日の夜空は暗い雲がいくつか浮かんでいる。たまに月を遮るそれは、月の光に照らされると真っ黒な巨大な影に見えて不気味さを覚える。昼間の穏やかな姿と比べると、これは何か恐ろしげなことが起きる前触れにすら思える。
「少し寒いな」
季節は夏だというのに、昨日雨が降っていたせいか風が冷たい。作って間もない団子もすっかり冷めてしまって、噛むとぐにぐにとした食感で少し硬い。
生き物の鳴き声みたいな音を立てて吹き付ける風は、まるで目に見えない妖怪が背の伸びた草を揺らしながら颯爽と駆け抜けていく様子を想像させる。
「早めに切り上げておくべきかな」
独り言を呟き、団子を一つとって口に放り込んだところで視界の中に何かの影が見えた。
動物か、私を訪ねに来た知人か。今の時刻は午後八時過ぎ。元より人の訪ねてこない家ではあるが、こんな時間の来客は珍しい。珍しいというよりは不審ですらある。ならば動物かと思い目を凝らしていると、そこに人影があった。
人の背ほどに伸びた草の間に、こちらを見つめる人影がそこにはあった。それは何をするでもなく、私の方を見ているだけで僅かな動きすら見せない。生まれてから今に至るまで幽霊なんて見たことはなかったし、幽霊は存在しないとさえ思っていたのに草むらの中に見えるそれは、まるで人の温かみというものを感じさせない。
正直言うと気が付かなかいフリをしてやり過ごしたかった。ただ、それだと得体の知らない何者かが家の外に居続けることになる。団子を食べるとしても見られ続ける。眠る時には戸締りが完璧か気になるし、窓を叩き割って誰かが入ってきたらどうしようなんて思う。そもそも幽霊ならばどんな目に遭わされてしまうのだろうと怯えなければならない。
気は進まないが、その人影に声をかけることにした。
「誰、何か用?」
完全に怯えてしまっていたせいか、それとも大声を出し慣れていないせいか上擦りながら震える声は滑稽に響いた。
私の声が聞こえたのか人影が揺れた。いや、揺れたというよりオーバーリアクションな芸人の驚いたフリみたいに動いた。その姿勢のまま人影は静止していたが、私が目を逸らさないでいると観念したようにゆっくりと近づいてきた。
本当だったら得体の知れない怪しい人影が近づいてくる恐怖のシチュエーションなのだが、さっきの様子を見た後だと全くそうは思えない。悪さをした猫を見つけた時のような気持ちだ。
人影が草むらを抜け、家の明かりに照らされて姿が見えるようになると、私の中にあった怪しいものへの不信感は完全にたち消えた。
そこにいたのは普通の少女だった。背はあまり高くない十六歳くらいの少女。服装は色落ちしたジーンズに白のTシャツ、鍔の長い帽子という普通の女の子といった外見だ。けれど、幼さを残してはいるが椿の花のような凛とした顔つきは見るものを惹きつける魅力がある。
彼女は薄く横に引き伸ばされた唇を開き、戸惑いがちに声を発した。
「どうも」
「こんばんは」咄嗟に挨拶を返す。
彼女はそれだけ言うと黙ってしまった。横一文字に結ばれた口は、なんだか口を閉じた貝みたいに見える。
私は縁側に腰掛け、彼女は全く動かない仁王立ち。お互い何を話すわけでもなく見つめ合う状況に、痺れを切らしたと言うか耐えきれなくなった。
「その、お団子……食べる?」
ただ頷く彼女に「座りなよ」とだけ言って隣に座らせる。私から一人分程の距離を空けて座ると「いただきます」と呟いてすぐに団子を食べ始めた。
こちらを見ていた理由も目的も分からないが、座ってすぐに団子へと手を伸ばす様子からしてお腹を空かせていたことだけは間違い無さそうだ。もし、お腹を空かせた狐が団子を食べに化けて出てきたのだとしたら、昔話の一話に加えてもらえそうな能天気な話だ。
水を飲むみたいに次々と団子を食べていくので「そんな一気に食べたら喉に詰まらせるよ」と言おうとしたところで彼女が咳き込み出した。
言わんこっちゃ無い、言っては無いが。
「ちょっと待ってね」とだけ言って、家の中から持ってきた新しい湯呑みを渡す。胸を必死に叩き続ける横で丁寧にお茶を注ぎ、七分目ほどで手渡しする。
「熱いから気をつけて飲んでね」
言い切らないうちに少女が飲んで「あっち!」と声を荒げる。今度は途中まで言っているが、やっぱり伝えきれていないので「あーあ」と心の中だけで呆れてみる。口に出しても良かったかもしれない。
「お団子もお茶も逃げてはいかないから、ゆっくり食べなよ」
また子供のように頷くと「ありがと」とだけ言った。
親戚の子供とかがいればやはりこんな感じなのだろうか。元気が有り余っているのに、話しかけると途端におとなしくなって、それでいて図々しい。こういう姿に面倒を見たり構ったりしたくなるのは母性本能で合っているだろうか。子供は居ないから分からない。
少女が団子を食べ終わり、お茶を飲み干したところで聞く。
「ところで君はこんな時間に何をしてたの?」
「散歩……かな?」
誤魔化していることは一目瞭然で聞くまでも無いのだが、見た感じ悪そうな子でも無いのでそれ以上は聞かないでおく。別に真実を問い正さずとも悪さをしたかったわけでなければ構わない。
私たちの間には再び沈黙が訪れた。その合間に月が雲に隠れ辺りが暗くなって、再び顔を覗かせると嘘みたいに明るくなった。私たちの間に会話はなく、お互いに月だけを見つめている時間が過ぎた。時折吹く風は少女の髪を優しく揺らす。月明かりに照らされながら靡くその髪は不気味なほど美しく見えて思わず息を呑んだ。
「ところで」
少女が唐突に声を出すので、つい心臓が飛び出るかと思った。私が見つめていることに気がつかれたかと思って、顔を向けていたくせにあたかも別の方向を向いていたかのようなふりして「なに?」なんて返事する。
「あなたは……」
「藍子でいいよ。私の名前は皆川藍子だから」
「藍子」
その言葉を確かめるように繰り返す。自分がそれを言葉にしていることも、それを知れたという事実も改めて理解をしようと努めている、そんな様子だ。声の中には嬉しさとも取れる温かみとどこか悲哀を含む複雑な響きが宿っていた。
「藍子は、ここで一人で住んでるの?」
「……そうだね、少し前までは両親と暮らしていたんだけど今は一人きり」
私の家はこの地域に暮らす人々の主な住宅地からは離れている。田んぼや畑をいくつも横目に通り過ぎ、林が見えてくるとその隣に私の家がポツンと一軒だけ建っている。
元々こんな立地だったわけではない。昔、といっても私の祖父母の時代だが、その頃にはこちら側の方が栄えていた。けれど時代が移り変わるにつれて開発が進み、気がついたらこちら側には私の家だけが残ってしまった。他の家々は人が居なくなると次第に取り壊され、その後は何になることもなく荒れた土地ばかりが残された。
「近所に公園でもあれば違うんだろうけどね、こうも静かだと少し寂しいよ」
世の中では学校や保育園の子供の声が五月蝿いと感じる人もいるらしいが、私の家ほど静かな場所だとせめて公園くらいは欲しくなる。風の音と鳥や虫の鳴き声ばかり聞いていると、それらが私の孤独を表現して歌っているようにも嗤っているようにも思えて嫌になる。
「誰かと一緒に居たくはならないの?友達とか」
友達、心の中で反復する。居たことがないとは言わないが、それらの間柄の人々とは関わる理由が無くなるとすぐに関係が途切れた。学校を卒業すればそれまで。そんな関係を何度も繰り返してきたので、今の私には友達がいない。
一人でもいればそれなりに楽しかっただろうか。
「……友達は居ないよ。ぼっちってやつかな」
「そうは思えないけど。普通に話せてるし」
「普通に話せてもなんだとしても、居ないものは居ないんだよ」
彼女の話を無理やりに終わらせる。なぜか納得していない表情をしていたが、無視をして話を変える。
「それより、君はどうなの。友達、居るの」
彼女の瞳に影が差した。私から目を逸らし、言葉にしてしまいたい何かを堪えるように口を閉じてしまった。
まずいことを聞いてしまったのかもしれない。
「私だって、一人は嫌だ。けど、友達はみんないなくなっちゃったから」
そう話す彼女の目には涙の粒が溜まって、今にも溢れてしまいそいうだった。何か言葉をかけようと思ったが、彼女のことを何も知らない私に言える言葉なんて一つたりともありはしなかった。何かあったの、なんて無神経なことも聞けそうになかった。
「ごめん、話したくないことを話させた」
「……大丈夫」
何度目か分からない沈黙が二人の間に流れる。夏の夜だというのに静かで、自分の家にいるはずが居心地の悪さすら覚える。
「そうだ、君さえ良ければなんだけど」
前置きしてから話し出す。苦し紛れに出した言葉のように思われるかと心配だが、私自身の本心には違いないので、言う。
「私たち、友達にならない?」
まだ彼女の好きなものさえ知らないけれど、こうして二人でいることに不思議と抵抗感がない。出会い方自体は別に運命的だとかロマンチックだとかいうことはないけれど、どこか私たち二人は似ている気がして友達になれるんじゃないかと思った。
「ともだち?」
「そう、お月見友達。別にお月見限定ってわけじゃないけど」
素直にこんなことを言うのは初めてで、なんだか照れ臭くなって茶化してしまった。不愉快に思われたら嫌だな、なんて思いながら彼女を見ると私が思っていたような表情ではなかった。
「嬉しい」
とても短い一言だったけれど、その簡潔な言葉を通じて彼女の心に触れたような気がした。太陽の温かさや空の優しさを思わせるような、そんな心だ。
(2)
「藍子ちゃん、調子はどう?」
そう言いながら家に入ってきたのは私の叔母である立川悠美だ。まだ両親が家に居たときは正月と墓参りの時にだけ顔を見る親戚でしかなかったが、こうして一人で暮らすようになってからは頻繁に様子を見にくるようになった。叔母さんは来るたびに部屋の掃除とか料理とかをしていく。私から頼み込んだわけではないが、私を思い遣っての行動であることは確かだ。
叔母は部屋の中を見回すと「綺麗になってる」と呟いた。意識せずに出た言葉なのだろう。発してすぐに言葉に気がついて口を手で塞ぐ仕草をした。
たしかに少し前まで家の中は荒れ放題になっていた。荒らしたくて荒らしていたわけではなく、身の回りで起きた出来事のひとつひとつに心が追いつかず、気がつけば生活の殆どが荒れてしまっていた。
「まぁ、調子は悪く無いよ」
叔母の前で久しぶりに声を出したからか、二、三度振り返られた。そんなに驚くことかと思ったが、叔母はさっきとは異なった意味合いで口を両手で覆った。私が話したことをリアクションでは喜ぶものの、はっきりとは言葉にしなかった。理由などは聞かずに「お昼ご飯、作ってきたから」と言って小包をリビングテーブルに置いた。
感謝を伝えるべきなのだろうが、ここまで露骨に反応されると今度は恥ずかしくなって何も言えなくなってしまった。顔が赤くでもなっていたのか、私を見て叔母は微笑んだ。
紫色の風呂敷を解くと中からは可愛らしいウサギのイラストが描かれたお弁当箱が出てきた。透明の蓋からはタコの形をしたウインナーや梅干しが乗せられたご飯が見えていて、なんだか遠足のお弁当みたいに見える。
「もし食べてたら夜にでも食べてちょうだいね」
いつもは悲しげな表情を浮かべて私を見る叔母だったが、今日はずっと嬉しそうにしている。今まで返事をしていなかったのは照れ臭いとかそんな理由ではなかったが、気持ちが沈んでいたとしても誰かの笑顔を見ると言うのは悪いことでは無いと、そう思った。
ただ、叔母の表情を見てこんなにも気持ちが安らぐのは笑顔だけが理由ではないだろう。叔母は私の母の姉であり、二人はとても顔が似ていた。家族が見れば違いが分かるのだが、他人からすると見分けがつかないらしく二人並べてようやく違いが分かるのだと言う。
こうして叔母の表情を見ると母のことを思い出してしまうのだろう。胸を突き刺すような痛みを伴う悲しみもあるけれど、それと同じくらいに心が温まる。
「嬉しいことでも、悲しいことでも、誰かに話したいときはいつでも話してね」
その言葉につい「うん」と言って頷くと、叔母は再び嬉しそうに笑った。
(3)
あれから少女は私の家を何度も訪ねてきた。この静かな家では人の声が珍しいので、彼女の「どうもー」という挨拶はよく響く。顔を見に行くまでもなく誰が来たのかわかる。
私がお月見友達だと言ってしまったからか彼女が来るのは夜がほとんどだった。彼女の服装はいつもジーンズにTシャツというラフな服に帽子が必ず付く。ファッションに興味は無いようで、一見まとまりの見える整った服装でもよくよく見ると使い込まれて年季が入っている。
「どうもー」
部屋の掃除をしていると彼女の挨拶が聞こえた。最近は「はいよー、待っててー」なんて気軽に返事するようになった。ここまでの関係性は親の次に親しいと言ってもいいのではないかと自分でも思う。
ただ、彼女に返事をしながら日が落ちていないことに気がついた。太陽は西の山へ沈み始めたばかりで空にはまだ茜色が満ちている、そんな時間帯だ。別に何と言うことはないが、ただ珍しいななんて考えながら彼女の元へ向かう。向かいながら窓の外に目をやると、遠くの空に分厚い雲が広がっているのが見えた。こちらはまだ晴れているが、灰色の雲の塊が頭上を覆うまではそう時間がかからないように思われる。
縁側に座る彼女を見て、声をかけた。
「今日は早いね。団子と茶を持ってくるから待ってて」
私が台所へ向かおうとすると「私も手伝うよ」と少女が立ち上がって着いてきた。手伝うと言っても団子を作って、お茶を入れるだけなので大変なことは一つもないのだが、親切心から来る申し出は素直に受け取っておくというものだろう。
彼女に「お願いするね」と伝えて二人で台所へ入った。思ったとおり、というか当然のことながら殆どの作業は私一人でこなした。二人で手分けすることなんて殆どないので当然ではあるのだが。
彼女と協力したのは団子の生地をこねて丸めるところだった。少女は小柄で細身の割には大食いで、非常に食い意地が張っている。そんな部分が料理にも出てくるのか、彼女が丸める団子は全ておにぎりほどのサイズをしていた。
「それってどうやって食べるのさ」と私が聞くと彼女は「こう、こうやって」と言いながら齧り付くジェスチャーをして見せた。冗談かと思ったが、表情からしてそういった意図は一切見られなかった。
私たちは雑談をしながら団子を茹で、冷蔵庫で冷やしていたお茶を取り出し、それらを盆に乗せると縁側へ向かった。畳が敷かれた座敷を抜けて板張りの廊下へ出る。普段ならすぐにでも縁側に出るのだが、外の景色が見えた途端に自然に足が止まった。
冊子窓一枚を隔てた外には先ほどまで全く降っていなかった雨が地面を叩きつけるように降っていた。土砂降りだ。
どうやら遠くに見えていた雲の集団がこちらまで来たようで、時間的にはまだ見えていていいはずの太陽も雲にすっかり隠れてしまっている。土が剥き出しの地面は抉れて水たまりができている。空が光ったかと思うと3秒ほどで雷鳴が響いた。こんな天気では外に出るのも危ないな、そう思って少女を見ると耳に手を当てて目を塞いでいた。
「……懐かしいな、私も小さい頃は雷が怖くて両親に泣きついてたっけ。そうすると親が頭をかかえるように抱きしめてくれてさ、すごく安心したのを覚えてる」
「子供扱いしないでよ」
「そういうわけじゃないよ。……もし君がそうして欲しいのなら抱きしめてあげようか?」
「いい、やらなくていい。怖くなんてないし、ちょっと吃驚しただけだから」
少女は顔を赤くしてそっぽを向いてしまう。けれどそんな気の緩みを見逃さなかったのか雷が再び落ちた。さっきよりも近いようで木を割るような轟音が響く。
「ひゃあっ」
あまりにも間抜けな悲鳴に笑ってしまう。私が笑うので少女が怒ってポカポカと身体を叩いてくる。普段の溌剌とした様子とは違って姪っ子を見ているような気分になる。私に姪はいないので想像でしかないのだが。
「そういえば雷というと両親が『雷の鳴る日に外へ出ると鬼に連れていかれるぞ』なんてよく言い聞かせてきたな」
「なにそれ、鬼と雷にどういう関係があるの」
「雷が鳴ってる時に外に出たら危ないからって、そういう意味じゃないかな。だから鬼とは無関係」
「変な言い聞かせ方」少女がつっけんどんに言った。
「まったくね。ま、そのせいで昔は雷が余計に怖かったんだ」
雨は依然、激しく降っている。家の光に照らされて僅かに見える土の地面には綺麗に真ん丸の水たまりが出来ていて、雨粒がぶつかるたび激しく水面が波打つ。雷は離れていったのか、さっきよりも光ってから音が聞こえるまでの時間が長くなっていた。地響きのような音もさっきと比べたらカエルの鳴き声ほどにしか感じない。
「今日は泊まっていったらどう?」
ようやく気持ちを落ち着かせ静かに雨模様を眺めていた彼女だったが、私の提案に驚いてか再び顔を赤く染まらせた。「んなっ、それは」などと言葉にならない呻き声をあげていた。出会った時から分かっていたが、感情がとても表に出やすい。すぐに笑うし、すぐに怒る。見ていて退屈しないから時々からかいたくなる。
「大丈夫、歩いて帰れる」
「さっき雷を怖がってたじゃん。それにこんな雨の中を帰らせるわけにはいかないよ。危ない」
「着替えとか持ってないよ」
「私が昔使っていたものでよければあるよ」
「人の家に泊まるのは初めてだし……」
「気にしなくていいよ。気楽に過ごしてくれて良い」
「あう、でも」
「泊まっていきなよ」
私の強烈な押しに観念したのか「はい……」と弱々しく呟いた。
私たちは居間に戻り、テーブルに団子やお茶を乗せると向かい合って座った。いつもは隣に座っているので顔を真正面に見ることはないが、こうして向かい合って見つめると変に緊張してしまう。私が目を逸らしたことにも気づかず、彼女は団子を早速口に放り込んだ。
なんだか妙な空回りをしてしまい、恥ずかしくなってため息をついた。
「そういえば、君の両親ってどんな人なの?」
「なんで突然?」
「いや、いつも君が夜に来るからさ。よく外出を許してくれるなと思って」
訝しげな表情でこちらを見つめていた彼女だったが、説明をすると「なるほど」と呟いた。そして帽子へ触れると向きを丁寧に直してから「一緒には住んでいないんだよ」と話し出した。
私はまた無神経に聞かない方が良いことに触れてしまったかと思ったが、彼女の表情は暗いものではなく、むしろ楽しげな表情だった。
「ただそうだね。アタシのお父さんもお母さんもご飯をよく食べる、かな。私よりたくさん食べる。ご飯炊いたら窯ごと食べて、おかわりするくらい」
彼女は両親の話をしながら両手で持った団子に齧り付いた。あまりに豪快で衝撃的な光景に驚いたが、それより彼女が楽しげに話しているのを見て胸を撫で下ろした。この前のように泣かせてしまうかと思った。
「だから二人に比べると私は少食だよ。全然食べられない」
さっきは衝撃の光景に凍りついたが、今度は絶句した。絶句して耳を疑った。彼女には少食の言葉を辞書で引くか、本人に少食の意味を再定義してもらう必要がありそうだ。私たちの認識にはちょっとなんて言葉では余りあるほどの隔たりがあるように思える。
彼女の一口は小さいものの、団子十二個ぶんがひとつにまとまったそれをトノサマバッタが田畑を食い尽くすような勢いで食べていく。圧巻だ。
「君が少食だと私はどうなるのかな」
「雀かな」
笑い飛ばしてしまいたかったが、あながち間違いでもないので笑えない。だが一体彼女のこんにゃくみたいに薄い身体のどこにあれほどのエネルギーが吸収されていくのだろうか。吸収されたとして何に変換されているのだろう。不思議な身体だ。
彼女は団子を食べた後、息をふっと一つ吐くと真面目な面持ちで顔を上げた。
「藍子はさ、鬼って怖い?」
さきほどまでの和気とした雰囲気からは一変して真剣な声色だった。
「怖いね、すごく」
それに対して私も真剣に返す。というより、私にとってそれは真剣に返さざるを得ない話題だからだ。
私たちの生活の中で鬼は遠い存在ではない。都会であれば別だが、山に近い田舎においては役場が毎年鬼警戒の放送をしているくらいには身近なものだ。登山家は山に入る時に鬼よけの護符を持っていくし、警察に電話すれば武装した警官が何名も派遣されていく。共生をしているわけではなく、なにかあればすぐに戦闘になる緊張状態にあるのだ。とは言っても鬼も馬鹿ではないし、姿も人に似通っていると言う。近年では人を襲ったという話も耳にしなくなってきているので、十代二十代の若い世代の人たちは鬼を怖くないと思っている人も少なくはない。というかその方が大多数だ。
けれど私にとって鬼は恐ろしい存在だ。そうでないと思っていた頃の自分を憎く思うほどには。
「そっか、それはそうだよね」
そう言った彼女はなぜか寂しげで、つい抱きしめて大丈夫だなんて言葉をかけたくなった。なにが大丈夫なのかも、なぜ彼女が寂しげな顔をしなければならないのかも分からないが、なぜかそんなことを思った。
「前は別に鬼を怖いとは思っていなかったんだよ」
暗い空気感に耐えきれなくなって、つい、頭に浮かんだことをそのまま口に出してしまった。口に出した後にこの話が明るくないことも、この場にそぐわないことにも気がついて止めようと思った。けれど、彼女の瞳は話の続きを無言のままに促していた。その目の真剣さに圧倒されてしまい、ここで止めることもできなくなってしまった。
「鬼ってさ、私たちと同じように生きてるし、考えてる。悪さをしたいというより、私たちとは生き方が違うだけの生物なんだよ。世の中には鬼と共生すべきだ、社会に取り込むべきだと言って活動する人もいるくらいだから、そういう道もあるんじゃないかって考えも昔はした」
まだインターネットも電気もなかった時代では鬼とは危険な存在というのが世間の事実だった。知恵があり、力がある。歴史に名を残すほどの鬼すらいて当時の人々を脅かしたともされている。だけれど、こと現代においては人の方が倍以上に知恵も力も付けた。研究者たちやテレビ局、果ては動画サイトの投稿者すら温厚な鬼にコンタクトを取り、実際に交流する映像すら撮られた。そういうものの影響もあって、鬼を危険視する目は少なくなってはきている。
けれど、それでもまだ鬼は社会に組み込まれてはいない。
「私の両親は鬼に殺されたんだ」
その言葉に少女は絶句した。
驚くのも無理はない。鬼が人を殺したという事件は年に一度聞くか聞かないかだ。身の回りで鬼に誰かを殺されたという人の話はまず聞かない。
たしかに鬼の被害は昔に比べて減ってきている。けれど、確実に人は鬼に殺されているのだ。何年経っても見つからない行方不明者は鬼に喰われているのだと言う人も少なくはない。
それに、だ。鬼の被害が減ったのは単に鬼が人を殺さなくなっただけではなくて、人間が山に入ることが少なくなった。入っても一人ではないし、危険があるとすぐ逃げるようになった。鬼が人を襲い辛くなっている。
「私の父さんは登山が趣味でさ、休みが取れると時々友達を誘って登りに行くんだ。けれど本当に登山が好きなだけの人だからさ、いつもは山に詳しい友人に連れていってもらって山に登るの。けれどその日は結婚記念日でもあったからさ、母さんに良いところ見せたかったんだと思う。朝早くに二人で山に行って、そのまま鬼に殺された。多分護符も持っていなかったんだろうね」
自分の父を馬鹿だとは思う。実際そうだ。世の中があれほど危険だと言っていた鬼に対して何の危機感も持たずに山へ登り、その結果当然のように鬼に殺された。見方によっては自ら死にに行ったも同然だと言われても仕方ない。
けれど、だからと言って鬼が殺して良い理由にはならない。護符を持っていないだけで人を殺すと言うのなら、そんな存在が本当に社会に入れるというのだろうか。会話ができるだけの猛獣と本当に共生が出来るのだろうか。そうは思えない。
「警察に呼ばれて確認をさせられたよ。身元確認って言うんだっけ、ああいうの。顔はさ、かろうじてわかったから『ああそうです、この人は私の父です。母です』なんて言うんだけどさ。顔だけだ、二人が二人自身だと分かるのは。それ以外の部分は……スペアリブの食べ残しみたいなものだったよ」
彼女の表情は暗く、俯いたまま何も言わない。やはり話すべきではなかった。こんな話をしたところで困らせるだけなのはわかっていたし、決して明るくなんてない話で場が和むなんてことありはしないのだから。
「ごめん、嫌な話聞かせちゃったね」
「謝らなくていい。むしろ、謝るのは私の方」
「なんで君が謝るのさ、無理やり話したのは私だよ」
それから彼女は返事もせず黙り込んでしまった。
場の雰囲気を変えたかったはずが、結局こうなってしまった。気まずい沈黙だけが二人の間を流れる。
自分でも何故こんな話をしてしまったのかは分からない。あの日のことを誰かに話したのは初めてだった。話す気もなかったし、話す必要もなかったから口にしなかったはずだった。でも、本当は誰かに話してしまいたかったのかもしれない。話して楽になることではないとわかっていても、誰かに打ち明けてしまいたかったのかもしれない。
けれど、それは私のためだけの行動だった。誰かに聞かせるべき話ではなかった。
窓の外ではまだ雨が降っていて、湿気を含んだ嫌な空気が家の中に入り込んでくる。息を吸えば心だけでなく身体の中までどんよりしてしまいそうだ。
「お風呂なんてどう?今日は肌寒いし、さっぱりすれば気分も晴れそうだし」
彼女はこちらを向いて口を開きかけ、やめた。そしてまた俯いて足元の床を眺める。
「一緒に入ろうか?」
彼女の面持ちが暗いままだったので、少し揶揄ってみた。空気が読めていないことは分かっていたが、このままではよくないとも思った。彼女は顔を上げると慌てたように「一人で入れるから、大丈夫だから」なんて言って顔を背けた。
彼女の反応に少しだけホッとした。
(4)
まず少女が、その次に私が風呂に入った。身体に湯気を立てながら出てくると外の雨は既に止んでいた。澄んだ冷たい風が吹いてきて、火照った身体が冷やされて心地が良い。夜空を見上げると分厚い雲はどこかに行ってしまったようで、夜空に広がる星々と月の彩りが美しい。
「すっかり晴れたね」
雨音の代わりに虫やカエルの鳴き声が響いている。風が木の葉を揺らし乗せていた雨粒を散らす。澄んだ空気が住宅街の明かりを鮮明に映し出す。眺めていると一つ電気が消された。
「団子を食べるのは今頃だったのかもしれないね」
月明かりが大地を照らし、木々から伸びる枝の一本までよく見えるようだった。カエルが一匹前を横切って、水たまりの中を跳ねながら進んだ。隣に座る彼女を見ると、気持ちよさそうに目を閉じていた。風が吹くと美しく伸びた黒髪が靡いて、夏の夜空を飛ぶみたいに広がった。ふと、自分が居るのが地上なんかではなくて、宇宙の銀河に彼女と漂っているような気がした。
「アタシたちが月見友達ってことなら。あなたがいて、月があって、それさえあれば十分じゃない?」
「そう言ってくれると嬉しいよ」
相変わらずこちらを振り向きもしないが、私たちの関係は既に、何かを引き換えにした口実でなければ会えない関係ではないみたいだ。
胸の内がすぐに表へと出てくる彼女だが、私が知らない部分もまだ沢山ある。けれど、私たちは一歩ずつお互いの距離を縮めている。確かにそう思える。
「そういえば、帽子を取った方がもっと気持ちいいんじゃない」
「……これは、まだだめ」
その言葉を残して彼女は家の中に入っていってしまった。
彼女が居なくなると途端に風が冷たく感じられた。もう少しだけ涼もうと思っていたが、盛大なくしゃみが出たのでさっさと家の中に入ることにした。
中に入ると来客用の布団に彼女が入ろうとしていた。部屋の中は常夜灯のオレンジ色に包まれている。
「もう寝るのかい」
「うん」
時刻としては午後9時を回ったばかりであったが、普段は早寝早起きなのか、それとも慣れない環境に緊張して疲れているのか瞼を擦っていた。
「そうか、おやすみ。なにかあれば隣の部屋で寝てるから、いつでも呼んで」
「ありがとう。……おやすみ」
おやすみ、と返して部屋から出て行こうとした。そうしたところで、つい、彼女に伝え忘れていたことを思い出して戻る。
彼女は突然戻ってきた私を上体を起こし見つめていた。
「さっき言い忘れていたことがあったよ」
「さっき?」
「私の両親の話。両親を亡くしてからというものずっと落ち込んでいたんだ。だけど、君と会って話すようになって、沢山笑って。そうしていくうちに、いつの間にか気持ちが楽になっていたんだ。何度もあの日のことを夢に見ていたけど、最近は見なくなった。だからさ、君には感謝してるんだ」
つい最近まで私は家の外に出ることも殆どなかった。他人とも会おうとしていなかった。叔母や親戚が気遣って訪ねてくることはあったが、控えめに言っても素直に対応することは出来ていなかった。食材をいくつか置いて行ってくれたり、食事を用意してくれたりしたけれど食べても喉が通らないことの方が多かった。思い出すことが辛かったのに、思い出さずにはいられなかった。
少女が来た日は、本当に久しぶりにお月見をしていた。気分転換というほど前向きな気持ちでしていたわけじゃなかった。両親が生きていた頃は普段料理のしない父が率先して団子を用意して、家族全員でお月見をしていた。ふと見た月が綺麗だったので、二人のことを思い出して久しぶりにお月見をしていたのだ。
彼女が来て、彼女と話して、彼女と団子を食べて、そんな日々を過ごすうちに私の心は癒え始めていた。
家の中の掃除とか、食事の準備とか。そういった日常のことがいつの間にかできるようになっていた。彼女が何か特別なことをしたわけではない。当然本人にも何かをした自覚はないだろう。それでも、私は彼女に救われたと思っているのだ。
「ごめんね、それだけ伝えたかった。おやすみ」
特に返事は期待していなかったので言い逃げるように部屋を出た。
(5)
朝日が昇り街を照らし出す。水滴を付けた葉が日光を受けて輝いている。濡れた土や目を覚ましたばかりの草の匂いがする。全身を伸ばすように腕、足と部位ごとに伸ばしていくと、私が外に出てきたことにようやく気づいた鳥たちが飛び去っていく。
少女の部屋を覗くとまだ眠っていた。一度は起きたのか日差しを防ぐように頭まで布団を被っている。暑くないのだろうか。
障子を開き切って布団を剥ぎ、敷布団を引っ張って身体を転がし彼女を無理やり起こした。目を覚ますと「なんだよもぅ」なんて言ってくるので「朝だよもう」とだけ返した。
インスタント食品にお湯を注いで作っただけの簡単な朝食を食べ終わると「それじゃ、もう帰るね」と彼女が言い出した。気軽に言葉を交わせる相手が家に来たのは久しぶりで、正直なところまだ別れたくはなかった。とはいえ帰っちゃだめ!なんてことを言えるわけもないので、せめて帰り道の途中までは一緒に居ようと思い「大雨降った後だし、送っていくよ」とそれっぽい口実で彼女を送ることにした。昨日から若干の子供扱いに不満を感じていた彼女は「一人で帰れるのに」なんてぼやいていたが、そういう言葉は聞き流して二人で家を出た。
彼女の帰路は最初の曲がり角から私の予想を外れた。
最初の曲がり角というのは私の家からまっすぐ伸びる道の突き当たり、東西に伸びるT字路がある場所のことだ。東側には住宅街、西側には田畑や山道を抜けて隣町へとそれぞれつながっている。そのどちらかに進むと思っていたのだが、彼女はそのどちらでもない真正面に向かって歩みを進めた。
正面の道は道路というより林道が伸びている。車がかろうじて一台入れるような道で、両端には昔は耕作されていたであろう農地の跡が見られる。私の知る限りではこんな方向に家など建っていなかったが、世の中には想像もしないような場所に住んでいる人もいる。彼女もそういう場所に住んでいるのだろうと自分を納得させた。
足元の地面はぬかるんでいて、歩いているとつい足を取られて転びそうになる。元から殆ど整備されていない道ではあるのだが、昨日の大雨の影響で余計に歩きづらい。
しばらく並んで歩いていると、周囲の景色が変わってきた。人の手があまり入っていない木々が増え、頭上が枝葉で埋まって薄暗い。この先の道は林が広がっているのだと思っていたが、こうして歩いてみると林というよりは森という様相だ。熊でも出そうで少し緊張する。
「君は森に住んでるの?」
「そうだよ、森の一軒家。朝から晩まで薄暗い家だけど、空気が澄んでいて飲み水もあって、不思議と全てが満たされたような気持ちになるそんな家」
「なんだか怪しい新興宗教の施設みたいな言い方だね」
「ほにゃらら様を崇拝せよって?」
「広い地下室があって、そこでは教えに背いたり逃げようとしたりした人を閉じ込めている……そんな施設」
「本当にそうなら怖いね、うちはただのボロ家だよ。爺ちゃんの頃からずっと住んでる」
「歴史あるお家だね。でも君はいっつもこんな道を歩いてきてたんだ」
「慣れると大した道じゃないよ」
「でもほら、熊とか猪が出たら危ないじゃないか」
「蹴り倒せばいい」
「君の細い身体じゃ痛くも痒くもないだろうね。むしろ近づいてきたところをガブっといかれそう」
「そうかな?」
恐ろしきかな野生児、恐れを知らない。
「でもまぁ、そろそろ家の近くだ。石の橋が見えてくるから、そこらまでで大丈夫だよ」
彼女の言う通りその橋はすぐに見えてきた。彼女とその家族くらいしか使っていなさそうな細い川を跨ぐ小さな橋だ。
家の近くまで送るとは言ったものの想像以上の道に、すっかり息が上がってしまっていた。橋を見つけると堪えていた全身の疲労感が一気に襲ってきた。老人のようにふらつく足取りで橋の元へ向かい、手すりに腰掛けようとした。その瞬間だった。
不意に頭上が真っ暗になったと思うと、木がこちらに向かって倒れてきていた。あっ、と思う時にはもう木は目前まで近づいてきていた。何を思う間もなく強い衝撃が身体に走った。
何が起きたのか分からず、自分の身体が痛むのかそうでないのかも分からずにいた。混乱するままに目を開くと自分とは少し離れた場所に木が倒れていて、私と木の間に少女がうつ伏せで倒れていた。それを見て、自分のことを彼女が突き飛ばして助けてくれたのだと気がつき駆け寄る。運良く彼女も木に巻き込まれることはなかったようで、肩を叩くとううん、と声を漏らした。安心しながら見ていると、ふと、その頭にいつもの帽子が無いことに気がついた。多分倒れた衝撃で飛んでいったのだろうと思い、辺りを見回すと彼女の足元に落ちていた。鍔の長い帽子。決して脱ごうとしなかったものなので、脱げたことに気づかれないようにそっと被せようとすると彼女の額に妙なものが見えた。二つのコブみたいな突起だ。丸い突起ではなく、先端が少し尖っている。質感も肌というより爪とか歯とか、そういう硬い物に見える。
「これは……ツノ……?」
私の声で気がついたのか少女が目を開く。それと同時に私が手に持っている帽子を見てすぐに自分の頭に触れた。一瞬で顔が青ざめ「これはっ……」と慌てた声を上げた。
「君はもしかして」
「隠していたわけじゃない」
私の声に被せるように少女が叫んだ。
「隠してたわけじゃないんだ。ただ、言えなくて。騙そうとか、そういうことを考えていたわけじゃないんだ」
突然のことに動揺し見つめていると少女の瞳が怯えたように震える。
「知らなかった。いや、こんなの言い訳かもしれないけど知らなかったんだ。藍子の両親のこと。でも、そうだ、知っていたんだ。他の鬼たちが人間を殺して食べるって、他の人間が、その家族がどれほど悲しむかなんて自分のこととして思えばわかるはずなのに。言い訳にもならない。鬼のくせに、人間と友達になろうだなんて……最低だ。私は、最低だ」
少女は誰に言うでもなく、悲鳴のように叫び続ける。私に言っているようでもあり、自分自身を責めているようでもあった。長い髪を振り乱して、私を視界に捉えるとすぐに目を逸らす。
私は何も言えず、ただ戸惑い続けていた。
少女は鬼だった。
鬼は人を殺して食べる。私の両親にそうしたように。だから私は鬼を憎んでいる。たとえテレビで見たような温厚な鬼だって、人を殺すかもしれない。そう思っていた。けれど目の前の少女は、どうなんだ。
「私の両親だって、昔は人間を食べてた。私の血は、身体は、人を殺して食べたその身体からできてる。私だって人喰いの鬼みたいなものだ」
少女の叫びが、悲鳴が耳の奥で響く。そうだ、人を食べてなくともその身体は人を食べた血肉でできている。だったら私は少女を憎んでいいはずだ。憎まなくては、道理が立たない。
けれど目の前の少女は。短い角を付けただけの、人より少し大食いなだけの、あの少女は。
「ごめん、あなたの前にはもう二度と現れないから。本当にごめんなさい、さようなら」
そう叫んで橋の向こう側へと走り去っていった。
人間よりも遥かに優れたその肉体は二、三度瞬きする間にはもう見えなくなっていた。
彼女の姿も足音も、向日葵のような声もどこかに消え去っていった。残るのは森の不気味なざわめきと遠くで名も知らない鳥が鳴き続ける声だけだった。
(6)
少女が去ってからどれほどが経っただろうか。蝉の鳴く季節は過ぎて、本当に月を見る季節も過ぎて、雪が森への道を塞いで。再び緑が姿を見せる頃になっても彼女は現れなかった。
縁側に居ると、ふと、彼女の声がした気がして振り向くけれど、そこにはいつも誰もいなかった。
私はまた、ひとりになってしまった。
一度、彼女の走り去っていった石橋の向こう側へと渡り、しばらく歩いてみたが人家らしきものは見当たらなかった。それどころか、道は次第に険しくなっていき、まるで私が進むことを拒んでいるようだった。落石が転がり、倒木が道を塞ぎ、湧き水が地面を抉り、殆ど崖のような道が続くこともあった。どこまで行っても果てのない道に断念し、途中で引き返してしまった。
私はどうすればいいのだろうか。何を、と聞かれると頭の中で言葉がうまく組み立てられずに形を失ってしまう。ただ漠然とどうしようとだけ思うのだ。目の前で起きた数々の出来事が自分の中で整理されずにいる。心の中で浮かび上がった言葉が溢れ続けてまとまらない。
「藍子ちゃん、調子はどう?」
いつの間にか叔母さんが来ていた。ソファに座るだけで何の反応も示さない私を心配してか、顔を覗き込んでいる。その目が優しくて、泣きそうになった。
何か返事をしようと思って口を開いたが、適切な言葉が何も浮かばなくてやめた。
「ご飯はしっかり食べてるかしら」
言いながら叔母は台所へと向かった。最初から私の反応は期待していないのだろう。流しに溜められた食器類や調味料程度しか入っていない冷蔵庫を見て「食べてないわね」と呟いた。
「最近は……お団子、作ってないの?」
「……団子」
「粉もまだ残ってるのね。ちゃんとしたものは持ってくるから、ちょっと私と一緒にお団子食べない?」
私の返事も聞かずに叔母さんは微笑みかけると、台所へ行ってしまった。食器を洗う音やお湯が沸く間抜けな音の間に叔母が「よいしょ、よいしょ」と掛け声を出している。そういえば母も料理中に「よいしょ」とか「それ」とか言っていた。なんでそんな声を出すのかと聞いたが「意識してもつい声が出てしまう」とのことだった。叔母さんもそうなのだろうか。
叔母さんが動き回っている様子を手伝いもせずに眺めていると、突然振り返って「できたわよー」と言いながら皿に団子を乗せて歩いてきた。私が少女に作っていたときは団子だけ用意していた。けれど、叔母さんは団子とは別にきな粉やみたらしの入った小皿を用意していた。
三角形の山みたいに積まれた団子を一番上から一つとって口に放り込む。猫の背のように滑らかな舌触りと頬を噛んでいるような歯応え、鼻から抜ける団子の香り。なんとなく和室の方を見ると障子が開かれており外が見えた。刈りもせずに放って置かれた雑草はいつの間にか茶色く枯れており、沢山のススキが頭を垂れている。
「秋なんだ」
間抜けな感想が出た。外を少し歩けば収穫目前の稲穂が見れるのだろうか。もしかしたら、すでに収穫されてるかもしれない。
「そう、秋。そのうち知り合いの農家さんからお米買うから、藍子ちゃんにも持ってくるわね。とっても美味しいのよ、何米だったかは忘れたけれど、知る人ぞ知るブランド米なんだから」
「そんなに美味しいの?」
「うん、毎日おかわりしちゃうくらい」
彼女だったら一体何杯食べてしまうのだろうか。そんなに美味しいもの、炊飯器の窯ひとつ簡単に平らげてしまいそうだ。
私が笑っていると叔母さんも「ようやく笑ったわね」なんて言って笑った。私も久しぶりに笑った気がした。
「次は何かつけて食べてみて。簡単なものだけど、何も無いよりは美味しいわよ」
少しでも口にしたからか途端にお腹が空いて次々と食べていく。このまま何も食べていなくとも平気だと本気で思っていたが、食べ始めると身体が足りないと言って栄養を欲しがる。気がつけばあの日の少女のように目の前の団子を私一人で平らげてしまっていた。叔母さんも食べると言っていたのに、本当に彼女みたいだ。
気がつけば少女のことばかり考えていた。今もそうだが、ここ最近はずっと考えていた。彼女が居なくなってしまった事実と、彼女が鬼だという事実を。
鬼は嫌いだ、というより憎んでいる。この手で殺せるものなら首を絞めてでも、斬ってでも、殴ってでも、何をしてでも殺してしまいたいとすら思う。両親の死を聞いた日のことを思い出すと今だに悲しいし、それと同じほど怒りを覚える。テレビで鬼の話を聞いて、鬼を擁護するような言葉を聞くと「お前たちが鬼の何を知っているんだ。私の両親のように鬼に殺された人のことの、家族を殺された人のことの、いったい何を知って、そんな知ったような口を聞いているんだ」と叫びたくなる。自分でも驚くくらい心の中が怒りで満ちるから、テレビはしばらく点けていない。それほどに私は鬼を憎んでいるし、嫌っている。
けれど、少女のことを思い出していると不思議と笑みが溢れる。交わした言葉を、団子を食べる姿を、月を見上げる横顔を、彼女の走り去る背中を思い出す。思い出すとおかしくて笑ってしまったり、愛おしく思ったり、そしてなぜか胸が痛くなる。けれど彼女は鬼だ。鬼なのだ。あの日に帽子が脱げて見えた額のツノは確かに鬼のそれだった。人には無いものだ。
彼女が鬼だというのなら、私が鬼を憎んでいるというのなら、私は彼女を憎み、嫌い、殺したいとすら思っていないとおかしいのだ。そうでないといけないのだ。そうでなければ私の両親が殺された時に抱いた鬼という種族への怒りはなんだったのだろうか。全て自分を慰めるための嘘だった?怒っているふりをしたいためだけの演技だった?私の怒りすら偽物だったのだろうか。ずっと、そんなことを考えていた。
彼女は鬼だ、鬼なら憎んでいなければおかしいだろう。家族を殺された、その相手の家族だって憎くなるだろう。当たり前だ。当たり前のことだ。一方的に大切なものを奪われたのに、相手は大切なものを守っていて幸せに過ごしているなど許せるわけがない。私の憎んでいる相手を愛して、大切に想うやつがいる。そんなおぞましいことがあり得ていると想像するだけでおかしくなってしまいそうなのだ。それなのに、彼女のことを憎めない。
「ねぇ、叔母さん」
「なぁに」
「憎むほど嫌いなはずの人を好きになってしまうことってあると思う?」
「あるんじゃないかしら」
叔母さんは呆気なく言った。私の質問に対して無関心だとか、興味がないといった様子ではなく至って真剣に、そう言ったのだ。
「でも、そんなことっておかしくない?憎んでいるのに。そんな相手を好きになるなんて、本当は憎んでいなかったって思わない?」
「おかしいに決まってるじゃない。憎むほど嫌いな相手を好きになってしまうんだから、おかしくなるくらいに好きになってしまったのよ」
「好きになる程度の憎しみなんて、本物じゃない」
「本当にそう思う?頭で組み立てただけの理屈じゃなくて、あなたの心で感じた素直な気持ちで。いままでの全部、本心じゃなかったって」
「……でも、おかしいじゃん」
「そうかしら。人の気持ちはそんなに単純じゃないって、至極真っ当な答えに思えるけどね」
叔母さんは席を立って空になった皿を下げて流し台へと持っていった。食器を洗う音を聞きながら彼女のことを考え、さっきの言葉を考える。
「藍子ちゃんは真面目なのよ。何が正しいのかとか、そんなもの本当に大事かしら。自分がどうしたいかで考えればいいじゃない、あなたが会いたい人に二度と会えないって考えたら、そんな風に自分勝手に考えればいいのよ」
「そんなでいいのかな」
「いいのよ、そんなで。そんな考えすらできないと私みたいに後悔するわよ」
叔母さんは寂しげに笑った。その表情の奥で何を思い出しているのか私にはわからない。
「伝えるか迷ってたけれど話すことにするわ」
叔母さんは帰り際にそう前置きしてから私にとある話をしていった。
(7)
藍子と会わなくなってから、しばらくの時が過ぎていた。
彼女の前には二度と顔を出さないと心に決めていたが、空に黒が満ちてくるとどうしてるのか気になってしまって、その度にあの草むらから家を眺めた。自分自身、こんなことをするのはおかしいと思いながらも、頭の中に彼女のことが浮かぶと顔を見に行かずにはいられなくなるのだ。
顔が見れるのは縁側に出て来た時くらいで、殆どの場合は家の電気が点いたり消えたりするのを見ているだけだった。ただ、そんな電気の明滅だけでも、今日も彼女が生きているのだと知れて嬉しくも思った。
家には週に何度か女性が訪れていた。肌にぴっちりと張り付くようなパンツに無地のトップス、柄の付いた青色のスカーフを首に巻いた50代くらいの女性だ。歩き姿や佇まいからは意思の強さを感じさせるが、藍子の前に立つとその顔には母親を思わせる微笑みを浮かべる。母親でないことは分かるが、その関係は母にも近しい親しげな感情を抱かせるものなのだということは容易に想像できた。
藍子はあの日から明らかに元気がなくなっていた。いや、元気がないというより生きる力のようなものを失っていたという方が正しいだろうか。何日間は縁側にも出てこないで家の中に篭ることがあった。ふと窓から見えた顔は異様なまでにやつれており、まともに食事も摂れていない様子だった。家の中に入って何かを食べさせようかと思っていた頃、あの女性が現れた。すぐに変化があったわけではないが、見る限り食事だけでもきちんと摂れていることは外からでも分かった。何様のつもりで心配してるのだろうとは思うが、彼女とは一度も言葉を交わしたことはないが勝手に感謝の念を抱いている。
私はというとあの日から両親や鬼の仲間には会っていない。元から馬が合わない相手ばかりだったから構わないのだが、顔を見ればどうしても人を食べていると言う事実を想像してしまい上手く話せなかった。それは相手を許せない怒りなのか、あるいはそれを止められない自分自身への怒りなのか。正直な所よく分からない。
鬼と言えば最近、この森に見知らぬ鬼が来た。
時々別の場所から住処を求めて鬼が訪れることはあるのだが、大抵の場合はすぐに別の場所へと移っていく。殆どの鬼は集団で暮らすので、私くらいしか住んでいない森に住もうと思う者は少ないのだ。
ただ、この鬼は少し様子が違った。
元からはぐれものだったのか、それとも元の集団でトラブルを起こしたのか、むしろ一人を好む様子で誰も来ないような場所で寝泊まりしていた。私としてはそいつが居ようが居まいが関心はないのだが、もし、そいつが人を好んで襲うような鬼であったとしたら、人に危害を加えるようなやつだったとしたら、そう思って警戒はしていた。
いつも通り家を見ているとあの女性が出ていった。今日も来てたのか、なんて思っていると十分程度してから藍子が出て来た。
藍子が出かけることは珍しかった。というより、私がこうして見るようになってからは一度しか出かけていない。その一度というのは、私と別れたあの日の翌日。森に入って来た時くらいだった。
彼女がどこに出かけようと私の関与するところではないが、その足が向いている方向が住宅街でも隣町でも無いことに気がついて後をつけることにした。
荒れた凸凹の道も気にせず彼女は歩く。時々、大きめの枝が転がっていて躓くこともあるが、それでもなお歩く。彼女の足取りは森に入り、私たちが別れた橋に着いてようやく止まった。
私を探しているのだろうか。彼女は辺りを見回すと「おーい」と叫び始めた。名前を知らないからそう呼びかけるしかないのだろう。彼女が呼びかける度に「私はここだよ」と叫びたくなる気持ちを抑える。私は鬼で、彼女の両親を殺したやつの同類だ。もしかしたらそれは、私の両親であったかもしれないのだ。私には彼女と一緒にいる資格はない。
ふと、彼女の歩く場所からはそう遠くない辺りで何かが動く気配がした。木々がざわめいたとでも言えばいいだろうか、動物にしては大きく、熊にしては悪意に満ちた気配だ。彼女を目で追いながらも、その気配が気になった。姿は見えないのだが、どうにも近づいてきている気がする。
「おーい」彼女が再び声を出す。
それと同時に何かが全速力で彼女に向かって跳躍する。その瞬間確信した。鬼だ。気がつけば飛び出していた。彼女の前に姿を出さないと誓っていたことなど忘れて無我夢中で飛び出した。私より先にその鬼が辿り着き、牙だらけの口を開いて噛みつこうとしているところだった。目を閉じて顔を背けたくなる気持ちを抑え、必死に間に合ってくれと祈る。祈り、飛び出した勢いそのままに鬼へと渾身の蹴りを喰らわせる。
意識外の蹴りに怯み、鬼は立てないでいた。地面を掴むように動かされる両手は土すらうまく掴めないようで滅茶苦茶に動かされている。それを確認してから慌てて彼女へと振り返る。
「大丈夫?!」
慌てて聞く私に対して彼女は賭けにでも勝ったような自信げな口調で言った。
「やっぱり、君なら来てくれると思ってた」
「————っ!」
色々な言葉が口を突いて出そうになるのを堪えて、彼女を抱きかかえて走りだした。
(8)
森を抜けて彼女の家まで来た。普段ならこの程度の距離に息切れ一つしないが、相当焦っていた所為かとても疲れた。
額から汗を流して息を切らす私に対して、彼女は何でもなさそうな表情だった。むしろどこか嬉しそうですらあった。命の危機にあったのだ。私がいなければ、一歩遅ければ死んでいたかも知れないというのに。彼女の呑気な表情に軽い憤りすら覚える。
「それで……なんであんなとこにいたの……?」
彼女は少し考えるように顎に手を当て答えた。
「鬼に襲われたって話を聞いたんだ、あの森で。君でないことは分かってるからさ。私が行けば、君なら来てくれると思ったんだ。正解だったよ」
イタズラっぽく笑いながらこちらを見る。いつもの優しい笑みや温かい口調ではなく、もっと小悪魔的で狡い笑み。
「私がその鬼の可能性だってあるでしょ?やっぱり人を食べたくなる、そんなこと、鬼なら普通にある話だよ」
「まさか。初めて会う人の前で帽子を被ってくるような子が、見ず知らずの人間が鬼に食べられたなんて話に心の底からショックを受ける子が、何より君がそんなこと、ありえないよ」
「じゃあもし、もし私が見捨てたら?鬼に襲われるのを分かってて無視をしたら?そしたらあんた、死んでたかも知れないんだよ」
「でも君は来た。理屈とか、頭で考えてそうなると思ったんじゃなくて、君なら来てくれるって信じてたんだ」
自然と声が震えて、なぜか涙が溢れる。彼女が人差し指を差し出して、私の涙を拭う。
「でも、こんなやり方……卑怯だ……」
「うん、私は卑怯者だよ。卑怯者で臆病者なんだ。ひとりぼっちは耐えられない、臆病者なんだ。だから君と居たい。君が居ないと生きていけない。君が居ない世界で生きていけると思えないんだ」
彼女はそう言うと私は抱きしめる。彼女の胸元が涙で濡れるのが分かる。
「卑怯者……ばか……!」
会ってはいけないと思っていた。私にはその権利がないから。
両親が人を殺したと聞いた時、何も思わなかった。けれど、その結果がどんな事態を引き起こしているかなんて考えもしなかった。私が、あの笑顔を奪ったようなものなんだ。だから、私は決して幸せになどなってはいけない。友達なんて作ってはいけないんだ。
だから彼女と会ってはいけないと、そう思っていた。なのに、この人は卑怯だ。卑怯者だ。
会えば、言葉を交わしてしまえば別れられなくなる。一緒にいたくなる。そんなこと、わかっているのに、わかっていたから余計に会いたくなかったんだ。
彼女は微笑む。あのいつもの優しい、愛おしい微笑みで。本当に、卑怯な人だ。
「ねぇ」彼女が尋ねる。
「君の名前を教えてよ」
お月見ともだち 綸 @Rin-sansan
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