エリックの小話
なだらかな丘の上に立つ屋敷は王都で有名な侯爵家の嫡男が所有者らしい。
そんな噂がその丘のある地域に流れている。
森から抜けた奥まった場所にあるために静かな環境と自然の守りが期待できる素晴らしい立地だ。広大な敷地はこの王直轄地に屋敷を建てられるほどの富裕層でなければ持つことはできない。おまけに王の推薦状がなければ購入できない土地なのである。よほど王の信頼が厚い者らしい、と噂になっている。
その広い屋敷の書斎に彼女はいた。
「塔子、またそんなところで居眠りして」
書斎のソファで本を読みながら寝てしまった彼女にブランケットをかけながらエリックは彼女の手から落ちてしまった本を片付けた。
こうなると目が覚めない彼女を寝台に運ぶべきか少し迷って、結局彼は彼女の足元に侵入して腰掛けた。ブランケットの上から手を置いて彼女の健やかな寝息に上下する胸の温かさを感じて安堵する。
この人が生きている。
その現実が、ただそれだけでこの上なく嬉しい。
彼はその華奢な体を守るようにしてそっと覆い被さってみた。目の前には目を閉じた彼女の顔がある。お互いの吐息がかかるくらいに近い。妙な感動が彼に押し寄せる。
そっと体を離そうとすると、彼女の手が彼の腕を引き留めた。
「エリック」
まだ寝ぼけているのか、一度開けた目を再び閉じた。
「塔子、起きたのか」
優しく問いかけると彼女は首を横に振った。
「エリック、あったかいからそのまま上に乗ってて」
布団がわりを要求された。
昔からこうだ。人の気持ちも知らずに距離が近すぎる。警戒心の欠片もない。でもそれが嬉しい。
このまま首筋に、額に、鼻の頭に、そして唇にキスしてやろうか。
彼らの距離は「親友」から一向に変わらない。もどかしい。
けれどそれでもいいとも思う。穏やかで変わらない時間を一緒に過ごせるのならば。
この人が他の誰かのものになってしまうことだけが耐えられない。
今のところ、ライバル達を牽制してエリックが彼女の隣をキープし続けられている。もし立場が危うくなったらどうするべきか。
エリックは思わず体重をかけて塔子の上に乗っかってしまった。
「ングゥゥ」
妙な呻き声をあげて塔子が力技でエリックともども寝返りを打った。どうしてそうなったのか、エリックを敷き布団代わりに彼女は本格的に大変健やかな寝息を立て始めた。
ソファに寝転んで塔子を腹の上に乗せたまま、エリックは彼女の体が落ちないように支えつつ、塔子の伸びた黒髪を手遊びのように指に絡ませては解いて撫でてみたり。飽きることなく続けている。
それからサラサラの髪を一房とって口付けてみる。寝ている本人は気が付かないから文句を言われることはないだろう。
彼女が安眠している間、彼はそれ以外に身動きしない。騎士として生半可な鍛え方はしていないから苦でもない。
この世界を支えてくれた魔王達に感謝を。
この人と共にまた在れる、その奇跡を与えてくれた。
思えば異世界から召喚した勇者が魔王討伐の旅に出ると聞いた時から気にはなっていたのだ。侯爵家の跡取りである自分がそんな危険な旅に出ることは周囲から反対されるに決まっていたし、訳の分からない異世界からやって来た若者に自分の将来を預けるなんて馬鹿な真似はできないと思っていた。
ところがどうだろうか。歓迎の儀に出席してみたら彼の虜になっていた。
気が付いた時には内定していた騎士を押し除け、自分が名乗りをあげていた。
彼の周りの空気は澄んでいて、離れ難い。
彼が自分の名を呼ぶたびに生まれ変わった気になるから不思議だ。
「君こそが本当はこの世界の女神なんじゃないのか」
小声で問いかけると彼女は彼の胸に頬擦りして、また寝返りを打った。
人の体の上でよく眠れるな、と苦笑しながら彼は胸に抱いた彼女が眠りやすいように態勢を整えた。
エリックは当初、勇者英砥の体にはなかなか触れられなかった。
どこかで恐れ多いという気持ちがあったのだ。
このハルシュフェスタにおいて国王こそが神に連なる殿上人だった。しかし英砥が召喚されてからエリックの中で英砥が神であるかのような錯覚を覚えた。だからこそ勇者の旅に同行しなければと思ったのだった。
付き合っていくうちに彼が自分とそう変わらない少年なのだと知った。幻想を彼に押し付けていた自分が恥ずかしかったが、実はそうではなかったのだ。旅の最中に見せつけられる彼の気高い魂の在り方にどうしても惹かれた。
気高い勇者。高潔なる勇者。神の代弁者。
彼を賛辞する言葉はあちこちで聞かれたが、本当の彼を知るのは旅の仲間だけ。英砥が実は育ちが良すぎてお坊ちゃんなのだと知ったみんなの構いたがりぶりは筆舌にし難い。そのくせ器用で、一を知れば十を知る要領の良さに舌を巻いた。
辛い旅のはずなのに英砥がいたから消耗せずに魔王の元まで辿り着けた。
彼こそが勇者。
そう思う。
けれど塔子はどうか。
英砥の器用ぶりとは真逆の鈍臭さと絶望的な不器用さ。
俺が側にいなければ、と何度思ったことだろう。
それでも塔子は英砥で英砥は塔子だった。二人が同一の存在であることを疑う余地もない。
この愛すべき存在を自分の人生に無かったことには、もうできない。
仄暗い感情が彼を支配する。
このなだらかな丘に建つ屋敷は彼女を繋ぎ止める牢獄。
自由な魂を持つ彼女を捕らえて離さない罠だ。
いつしか彼女が気が付いてももう手遅れだろう。永遠に彼女は自分のもの。
蒼穹の誓いはこうして果たされる。
彼の満足げな微笑みを眠る彼女は知りもしなかった。
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