【中世黒魔術百合短編小説】黄金の薔薇と永遠の契り番外編「水の都のワルツ ―錬金女学院生たちの初めての外出―」(約18,000字)

藍埜佑(あいのたすく)

【中世黒魔術百合短編小説】黄金の薔薇と永遠の契り番外編「水の都のワルツ ―錬金女学院生たちの初めての外出―」

### 朝の準備


 一六二八年五月、ヴェネツィアは既に初夏の陽気に包まれていた。サンタ・ルーナ錬金女学院の石造りの壁を朝日が柔らかく照らし始めた頃、ソフィア・モロシーニは既に目を覚ましていた。今日は特別な日——カペッロ校長から特別外出許可を得た初めての休日だった。


 昨夜は興奮のあまりほとんど眠れなかった。壁に掛けられた小さな鏡の前に立ち、ソフィアは自分の顔を見つめた。琥珀色の瞳には期待と少しの不安が浮かんでいる。黒髪を丁寧に櫛で梳き、母が作ってくれた特製のラベンダーオイルを少しだけ髪先につけた。


「ソフィア、準備はできた?」


 扉をノックする声は、幼馴染のアレッサンドラ・コンタリーニだった。ソフィアが扉を開けると、そこには既に完璧に着飾ったアレッサンドラが立っていた。彼女は赤褐色の巻き毛を上品に結い上げ、深い青色の上質なドレスを身につけていた。胸元には家の紋章が刻まれた小さな銀のブローチが輝いている。


「おはよう、アレッサンドラ」


 ソフィアは微笑んだ。


「早起きね。でも、そんなに正装しなくてもいいんじゃない? 私たち、ただ街を散策するだけよ」


「そんなことないわ」


 アレッサンドラは部屋に入りながら、自信に満ちた声で言った。


「ヴェネツィアの貴族の娘として、公の場に出るときは常に完璧な装いをするべきなの。特に今日はベアトリーチェと一緒だもの……」


 彼女は最後の言葉を少し小さな声で付け加えた。ソフィアは友人の頬が薄紅色に染まるのを見逃さなかった。


「わかったわ。じゃあ私ももう少し気合いを入れなきゃね」


 ソフィアはクローゼットに向かい、深緑色のドレスを取り出した。それは学院の制服よりも上等な生地で作られており、襟元と袖口には繊細な金の刺繍が施されていた。


「それ、素敵ね!」


 アレッサンドラは感嘆の声を上げた。


「お父様がヴェネツィア・カーニバルの前に送ってくれたの」


 ソフィアは答えながらドレスを身につけ始めた。モロシーニ家は代々の商人で、特に東方との貿易で財を成した名家だった。父は娘の教育のために惜しみなく出費する一方で、彼女の美しさを引き立てる衣装にも気を配っていた。


 ドレスを着終えると、ソフィアは首に水晶のペンダントを下げた。それは透き通った水晶の中に金色の繊細な糸が封じ込められたもので、母から譲り受けた大切な品だった。


「あとは……ああ、そうだわ」


 彼女は小さな箱から、薄い半透明のヴェールを取り出した。当時のヴェネツィアでは、貴族の女性が公の場に出る際には顔を隠すヴェールを身につけるのが慣わしだった。特に若い未婚の女性にとって、これは必須のマナーだった。


「完璧ね」


 アレッサンドラは満足げに頷いた。彼女も同様に薄い青色のヴェールを手に持っていた。


「ベアトリーチェとエレナは?」


 ソフィアが尋ねると、アレッサンドラは扉の方を向いた。


「二人とも中庭で待ち合わせることになっているわ。もう時間だから行きましょう」


 二人は部屋を出て、学院の廊下を進んだ。朝の静けさの中、彼女たちの足音だけが石造りの廊下に優雅に響いていた。窓からは朝日に輝くラグーナの美しい景色が見え、遠くにはサン・マルコ広場の鐘楼がかすかに確認できた。


 中庭に出ると、水盤を囲む七つの柱の前にベアトリーチェとエレナが立っていた。ベアトリーチェ・グリマーニは薄いピンク色のドレスを着て、茶色の巻き毛を緩やかにまとめていた。彼女の首には珊瑚のネックレスがあり、その赤い色が彼女の若々しい肌に映えていた。


 一方のエレナ・ファリエーロは、優雅な淡い水色のドレスを着ていた。彼女の金髪は後ろで一つに結ばれ、前髪だけが顔を優しく縁取っていた。首には銀の三日月のペンダントが控えめに光っていた。


「おはよう、二人とも」


 ベアトリーチェが明るく手を振った。彼女の茶色の大きな瞳は朝の光を浴びて輝いていた。


「おはよう」


 エレナはより控えめに挨拶した。しかし、ソフィアを見る彼女の眼差しには特別な温かさがあった。


「準備はいい?」


 アレッサンドラが尋ねた。


「ええ、すべて整ったわ」


 エレナは小さな刺繍入りの布袋を示した。


「カペッロ校長から許可証を受け取ったし、帰りの時間も約束したわ」


「それから」


 ベアトリーチェがにこやかに付け加えた。


「父が送ってくれた小舟が学院の桟橋で待っているの。私たちを街まで連れて行ってくれるわ」


 グリマーニ家はヴェネツィア議会でも力を持つ家系で、ベアトリーチェの父親は市の重要な役職に就いていた。彼が娘のために専用の小舟を用意したことは、決して珍しいことではなかった。


「では行きましょう」


 ソフィアは静かに言った。彼女の心は期待で胸が高鳴っていた。サンタ・ルーナ錬金女学院はヴェネツィア本島から少し離れた場所にあり、生徒たちは通常、厳しい規則の下で敷地内にとどまっていた。今日は本島への特別外出が許された稀な日だったのだ。


 四人の少女たちは中庭を横切り、学院の裏手にある小さな桟橋へと向かった。早朝の光がラグーナの穏やかな水面を金色に染め、小さな波が桟橋の脚を優しく撫でていた。


 桟橋には二人の漕ぎ手がいる豪華な小舟が待っていた。それはグリマーニ家の紋章が描かれた深緑色の小舟で、内部には赤いビロードのクッションが敷かれていた。


「ご令嬢方、おはようございます」


 年配の漕ぎ手が丁寧に帽子を取って挨拶した。彼はベアトリーチェの家に長く仕えている忠実な召使いだった。


「おはよう、マルコ」


 ベアトリーチェは微笑んで応えた。


「今日はよろしくお願いね」


「承知いたしました。どうぞお乗りください」


 マルコともう一人の若い漕ぎ手が手を差し伸べ、四人の少女たちが優雅に小舟に乗り込むのを手伝った。彼女たちはそれぞれヴェールを顔にかけ、小舟の中央に並んで座った。


 漕ぎ手たちが櫂を水に入れると、小舟はゆっくりと桟橋を離れ、ヴェネツィアの本島へと向かって滑り出した。風は穏やかで、ラグーナの水は鏡のように静かだった。遠くには既に街への行き来をする商船や漁船の姿が見え、水上都市ヴェネツィアの朝が始まっていた。


 アレッサンドラとベアトリーチェは船の右側に、ソフィアとエレナは左側に座っていた。エレナはそっとソフィアの手を取り、人目につかないように握った。


「今日は素敵な一日になりそうね」


 彼女は小さな声で言った。ソフィアは微笑み返し、エレナの手を優しく握り返した。


「ええ、きっと」


 四人の少女たちを乗せた小舟は、朝の光に包まれたラグーナをゆっくりと進んでいった。彼女たちの前には、水の都ヴェネツィアの一日が待っていた。


### 朝の大運河


 小舟がヴェネツィア本島に近づくにつれ、街の姿がより鮮明に見えてきた。朝日に照らされた建物の赤レンガや大理石の壁が水面に美しく反射し、運河の水は金色と橙色のモザイクのようだった。


「見て! サン・マルコの鐘楼があんなに近くに見えるわ」


 ベアトリーチェが興奮して指さした。確かに、ヴェネツィアのシンボルとも言える百メートルを超える高さの鐘楼が、朝もやの中にその雄姿を現していた。


「今日は朝市も出ているはずよ」


 アレッサンドラが言った。


「新鮮な果物や野菜、それにレースや布地も売られているわ」


「それから、サン・マルコ広場のカフェも訪れたいわね」


 エレナが付け加えた。


「あそこでは上質なチョコレートとコーヒーが飲めるって聞いたわ」


 17世紀のヴェネツィアは、東方との貿易によって様々な贅沢品が流入していた。特にチョコレートとコーヒーは、まだヨーロッパの多くの地域では珍しい高級品だったが、ヴェネツィアでは裕福な階級の間で人気を博していた。


「素敵ね!」


 ソフィアは目を輝かせた。


「それから、リアルト橋でのショッピングも忘れないでね。あそこには最高の香水とガラス製品があるわ」


 リアルト橋はヴェネツィア最大の商業地区で、世界中から集められた豪華な商品が並ぶ場所だった。特にヴェネツィアのガラス工芸は世界的に有名で、ムラノ島で作られる繊細なガラス製品は高値で取引されていた。


 小舟はやがて大運河に入った。ヴェネツィアの中心を蛇行するように流れる大運河は、まさに水の大通りと呼ぶにふさわしい賑わいを見せていた。両岸には豪華な宮殿や邸宅が建ち並び、様々な小舟や船が行き交っていた。


 商品を積んだ大きな船、食料や日用品を運ぶ小さな舟、裕福な市民の移動に使われる装飾された舟、そして観光客や旅行者を運ぶゴンドラなど、水上の交通は活気に満ちていた。


「あれを見て!」


 ベアトリーチェが大運河の向こう岸を指さした。そこには美しい大理石の宮殿があり、その前には数艘の華やかな舟が停泊していた。


「コンタリーニ・ファザン宮殿よ」


 アレッサンドラが説明した。


「今日は何か特別な集まりがあるみたいね」


「そうね、今日はフォスカリ家の長男が東方から帰国する日だったはず」


 ベアトリーチェが言った。彼女は父親から政治的な情報をよく聞いていた。


「大きな歓迎会が開かれるわ」


 ヴェネツィアの貴族社会は密接に結びついており、主要な家族間の出来事は重要な社交イベントとなっていた。フォスカリ家のような大きな勢力を持つ家の子息の帰国は、特に注目される出来事だったのだ。


 小舟は大運河をゆっくりと進み、やがてサン・マルコ広場に最も近い桟橋に到着した。マルコと若い漕ぎ手が舟を安定させると、四人の少女たちは優雅に上陸した。


「マルコ、お迎えは正午過ぎにリアルト橋の東側の桟橋でお願いします」


 ベアトリーチェは指示を出した。


「承知いたしました、ご令嬢」


 マルコは丁寧に頭を下げた。


「どうかお気をつけて。何かございましたら、すぐにグリマーニ邸にご連絡ください」


「ありがとう、マルコ」


 四人はヴェールをしっかりと整え、桟橋から石造りの通りへと足を踏み出した。


 朝のヴェネツィアの空気は、海の香りと焼きたてのパンの香りが混ざり合い、どこか甘美だった。狭い路地から広場へと続く石畳の道は、既に活気に満ちていた。商人たちは店を開き始め、召使いたちは日用品の買い物に出かけ、漁師たちは朝獲れた魚を市場に運んでいた。


「まずはどこへ行きましょう?」


 アレッサンドラが尋ねた。


「サン・マルコ広場へ行きましょう」


 エレナが提案した。


「朝のミサが終わったところで、ちょうど良い時間だわ」


 皆が頷き、四人はサン・マルコ広場へと向かう小道を進み始めた。彼女たちはヴェールで顔を隠してはいたが、その上品な装いと気品ある歩き方は多くの視線を集めていた。


 ヴェネツィアの市民たちは様々な階級の人々が混在していた。裕福な商人や貴族、熟練した職人、一般労働者、そして多数の外国人商人や旅行者たちが、この狭い島の上で共存していた。四人の少女たちは、その多様な群衆の中を優雅に進んでいった。


「あの服を見て!」


 アレッサンドラがある女性の衣装を小声で指摘した。


「フランスから来た最新の流行ね。あのレースの使い方が素敵だわ」


 ヴェネツィアは常にヨーロッパの流行の最前線にあり、特に服飾においては革新的なデザインが好まれていた。アレッサンドラは流行に敏感で、常に最新の情報を得ることに熱心だった。


 狭い路地を抜けると、突然視界が開け、彼女たちの前に広大なサン・マルコ広場が広がった。朝の光を浴びた広場は神々しいまでの美しさで、サン・マルコ寺院の黄金のモザイクがまばゆく輝いていた。


「なんて美しいのでしょう……」


 ソフィアは思わず息を呑んだ。学院からはめったに出られない彼女たちにとって、サン・マルコ広場の壮麗さは圧倒的だった。


 広場には既に多くの人が集まり始めていた。優雅に散歩する貴族、商談をする商人たち、寺院から出てきた信心深い市民たち、そして珍しいものを売る行商人たちが、この空間を彩っていた。


「あそこにカフェがあるわ」


 エレナが広場の一角にある小さな店を指差した。


「朝食にチョコレートをいただきましょう」


 四人は頷き、広場を横切ってカフェへと向かった。当時のカフェは現代のものとは異なり、コーヒーやチョコレート、そして様々な甘味を提供する社交の場だった。特にヴェネツィアのカフェは、知識人や芸術家たちが集まる文化的な中心地でもあった。


 カフェに入ると、優雅に装飾された内装が彼女たちを迎えた。壁には貴族の紋章や東方の風景を描いた絵が飾られ、テーブルは上質な木材で作られていた。


 給仕人が丁寧に彼女たちを迎え、窓際の良い席へと案内した。四人は二人ずつ向かい合って座り、ヴェールをわずかに上げた——完全に取り外すことはせず、飲食可能な程度に調整した。これもまた当時の礼儀作法だった。


「何をお召し上がりになりますか、ご令嬢方」


 給仕人が丁寧に尋ねた。


「チョコレートをください」


 ベアトリーチェが率先して注文した。


「それと、焼きたてのフォカッチャも」


 他の三人も同じものを注文し、給仕人は深々と頭を下げて去っていった。


「ねえ、隣のテーブルを見て」


 アレッサンドラが小声で言った。


「あの紳士、詩人のマリーノよ! 父がよく彼の詩集を読んでいるわ」


 隣のテーブルでは、豪華な衣装を身につけた中年の男性が若い弟子たちに囲まれ、熱心に何かを語っていた。彼はバロック時代の有名な詩人で、その華麗な文体で知られていた。


「素敵ね」


 ベアトリーチェは目を輝かせた。


「ヴェネツィアには文学や芸術の素晴らしい伝統があるわ。マリーノだけでなく、ゴルドーニやカサノヴァも、この街から生まれたのよ」


 ソフィアとエレナも興味深げに見つめた。彼女たちは学院で文学や芸術史も学んでいたが、実際に著名な詩人を目の前にすることは稀だった。


 しばらくして、給仕人が注文したものを運んできた。チョコレートは当時、飲み物として提供され、香辛料が加えられた苦味のある味わいだった。フォカッチャは温かく、オリーブオイルの香りが食欲をそそった。


「美味しい!」


 ベアトリーチェは一口飲んだ後、感嘆の声を上げた。


「学院のチョコレートとは全然違うわ」


 みんな頷き、朝の軽食を楽しみながら窓の外のサン・マルコ広場の風景を眺めた。広場では様々な人々が行き交い、時折鐘楼の鐘が鳴り響いていた。


 チョコレートとフォカッチャを楽しんだ後、四人は再び広場へと出た。朝の光はより強くなり、広場全体が明るく輝いていた。


「次はどこに行きましょうか?」


 ソフィアが尋ねた。


「朝市に行ってみましょう」


 エレナが提案した。


「新鮮な花や果物を見るのが好きなの」


 皆が同意し、四人はリアルト橋方面へと歩き出した。再び狭い路地に入り、運河に沿って歩いていくと、様々な店や工房が目に入った。宝石職人、仕立て屋、パン屋、肉屋、そして様々な輸入品を扱う商店が軒を連ねていた。


 特にヴェネツィア固有の工芸品を扱う店の前では、四人はしばしば足を止めて見入った。繊細なレース、カラフルなガラス製品、精巧な仮面など、ヴェネツィアの職人技は世界に誇るものだった。


「あのレースの襟飾りが素敵ね」


 アレッサンドラがある店の飾り窓を指さした。そこには、信じられないほど細かい模様が施されたレースの襟飾りが展示されていた。


「ブラーノ島のレースね」


 ベアトリーチェが説明した。


「あの島の女性たちは何世代にもわたってレース編みの技術を継承しているの。一つの作品を完成させるのに何ヶ月もかかることもあるわ」


 ヴェネツィアの周辺の島々は、それぞれ独自の工芸品で知られていた。ブラーノ島のレース、ムラノ島のガラス、そしてトルチェロ島の刺繍など、それぞれが高い評価を受けていた。


 彼女たちは路地を進み、やがて活気あふれる朝市に到着した。リアルト橋の近くに位置するこの市場は、新鮮な食材や花、布地、そして様々な日用品で賑わっていた。魚市場では、朝獲れたアドリア海の魚が大量に並べられ、野菜市場では色とりどりの季節の野菜や果物が山積みになっていた。


 花屋の店先には、チューリップ、バラ、カーネーション、そして様々な春の花が並んでいた。エレナは特に花に興味を示し、一束の小さな白いジャスミンを購入した。


「これ、あなたに」


 彼女はソフィアに花を差し出した。ジャスミンの甘い香りが二人の間に広がった。


「ありがとう」


 ソフィアは微笑み、その小さな花束を受け取った。彼女はそっと一輪を取り、エレナの金髪に挿した。


「とても似合うわ」


 一方、アレッサンドラとベアトリーチェは布地の店で立ち止まっていた。そこには、東方から輸入された絹や、ヴェネツィア特有の織り方で作られた豪華な布地が並んでいた。


「この青い絹、あなたの瞳の色にぴったりよ」


 ベアトリーチェがアレッサンドラに言った。彼女は一片の布地を取り、アレッサンドラの顔の横に当ててみせた。


「本当?」


 アレッサンドラは少し照れながらも嬉しそうに問い返した。


「ええ、素敵よ。次の学院の祝祭日に着る服にぴったりだわ」


 ベアトリーチェは店主に布地の値段を尋ね、交渉した後、それを購入した。


「これはプレゼントよ」


 彼女はアレッサンドラに布地を手渡した。


「ベアトリーチェ……ありがとう」


 アレッサンドラは感謝の気持ちを込めて彼女の手を握った。


 市場を楽しんだ後、四人はリアルト橋へと向かった。ヴェネツィアを代表する橋の一つであるリアルト橋は、大運河にかかる壮大な石造りの橋で、その上には多くの店が並んでいた。


 橋を渡りながら、彼女たちは大運河の素晴らしい景色を眺めることができた。朝の忙しい水上交通、両岸に建ち並ぶ色とりどりの宮殿や邸宅、そして遠くに見えるサン・マルコの鐘楼——すべてが絵のように美しかった。


「まるで夢の中にいるみたい」


 ソフィアは感動して言った。


「学院の窓からはいつも遠くに見えるだけだったけど、実際にここに立つと、全然違って感じるわ」


「そうね」


 エレナは頷いた。


「ヴェネツィアは『アドリア海の女王』と呼ばれる理由が分かるわ。この美しさは言葉では表せないものね」


 橋の上での会話を楽しみながら、彼女たちはリアルト橋の反対側へと歩を進めた。午前の太陽が高く昇り、街全体がより明るく、より活気に満ちてきていた。


### 午後の探索


 リアルト橋を渡った後、四人の少女たちは商店街を抜けて、少し静かな地区へと足を延ばした。この地区はドルソドゥーロと呼ばれ、一般市民や職人たちが多く住む地域だった。華やかなサン・マルコ広場やリアルト橋周辺とは異なり、ここではより素朴で日常的なヴェネツィアの生活を垣間見ることができた。


「ここは観光客も少ないし、少し休憩できそうね」


 アレッサンドラが静かな小広場を指さした。広場の中央には小さな井戸があり、周囲にはいくつかの木製のベンチが置かれていた。広場を囲むように建つ家々の窓からは、洗濯物が色とりどりの旗のように干されていた。


 四人は井戸の近くのベンチに腰を下ろした。ここなら他の観光客や商人たちの視線から少し離れることができた。彼女たちはヴェールを少し緩め、朝の疲れを癒すひとときを持った。


「朝市での買い物、楽しかったわ」


 ベアトリーチェは微笑みながら言った。彼女の手には朝市で購入した小さな包みがいくつか握られていた。


「ええ、学院では決して見られないものばかりだったわ」


 ソフィアも頷いた。


「ねえ、お腹が空いてきたわ」


 アレッサンドラが言った。確かに、朝のカフェでのチョコレートとフォカッチャから時間が経っていた。


「近くに良いトラットリアがあるはずよ」


 エレナが言った。彼女は学院に入る前、叔母のイザベラとヴェネツィアで短期間過ごしたことがあり、街の様子をある程度知っていた。


「オスタリア・アル・スクエーロという店があるわ。そこでは新鮮なシーフードと地元のワインが美味しいと聞いたことがあるの」


 皆が同意し、エレナの案内で彼女たちは小広場を後にした。狭い路地を少し歩くと、小さな運河に面した質素な外観の店に到着した。店の名前「オスタリア・アル・スクエーロ」は控えめな木の看板に描かれていた。


 店内は木の梁が剥き出しになった天井と、シンプルな木製のテーブルと椅子で構成されており、地元の労働者や職人たちで賑わっていた。しかし、そのシンプルな雰囲気とは対照的に、空気中には新鮮な海の幸とハーブの香ばしい香りが漂っていた。


 店主は四人の少女たちの上品な服装を見て少し驚いた様子だったが、丁寧に迎え入れ、窓際の良い席に案内した。窓からは小さな運河と向かいの建物の色あせた壁画が見え、普段は見ることのできないヴェネツィアの生活感が漂っていた。


「いらっしゃいませ、ご令嬢方」


 店主は微笑みながら言った。彼は五十代ほどの男性で、手入れの行き届いた口ひげと、長年の料理人生活で鍛えられた強い腕を持っていた。


「今日のおすすめは、カラマリ・フリッティとリゾット・アル・ネーロ・ディ・セッピアです。どれも朝獲れたばかりの魚介類を使っています」


 四人は店主の勧めに従い、カラマリ・フリッティ(イカのフライ)、リゾット・アル・ネーロ・ディ・セッピア(イカ墨のリゾット)、そしてサルデッレ・イン・サオール(イワシのマリネ)を注文した。飲み物には地元で作られた軽い白ワインを選んだ。当時のヴェネツィアでは、若い女性たちも食事の際には薄めたワインを飲むことが一般的だった。


「こういう場所で食事をするのは初めてね」


 アレッサンドラが小声で言った。彼女は裕福な家庭で育ち、通常は格式の高いレストランか家庭の食事しか知らなかった。


「でも、なんだか興奮するわ。本物のヴェネツィアを味わっている感じがするの」


「そうね」


 ベアトリーチェも頷いた。


「父がいつも言っていたわ。真のヴェネツィアを知るには、庶民の食事と文化を理解しなければならないって」


 料理が運ばれてくると、四人は目を見張った。カラマリ・フリッティは黄金色に揚げられ、外はカリッと中はやわらかく、レモンを絞るとその香りが立ち上った。リゾット・アル・ネーロ・ディ・セッピアは真っ黒な色をしていたが、その味は豊かで深みがあった。サルデッレ・イン・サオールは玉ねぎとレーズンで酸味と甘みのバランスが絶妙だった。


「美味しい!」


 ソフィアは感動して言った。


「学院の食事も悪くないけれど、これは全然違うわ」


 食事を楽しみながら、四人は窓の外の風景を眺めた。小さな運河には時々小舟が通り、その操縦者と店内の常連客たちが親しげに言葉を交わしていた。街の日常的な一面を垣間見ることができ、それは彼女たちにとって新鮮な体験だった。


 食事を終えると、店主は特別にデザートとしてフリットレ・ヴェネツィアーネを振る舞った。これはカーニバルの時期に特に人気のあるドーナツのような揚げ菓子で、粉砂糖をまぶした甘い味わいだった。


「ご令嬢方のようなお客様が私の店に来てくださるのは珍しいことです」


 店主は嬉しそうに言った。


「どうぞまた来てください」


 四人は心からの感謝を伝え、食事の代金を支払った。アレッサンドラは特に気に入ったようで、店主に追加のチップを渡した。


 店を出ると、午後の陽光がヴェネツィアの建物に温かな色合いを与えていた。四人は満足感に包まれながら、次の目的地へと歩き出した。


「次はどこに行きましょうか?」


 ソフィアが尋ねた。


「サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ教会はどうかしら」


 エレナが提案した。


「ティツィアーノやベッリーニの傑作が見られるわ」


 四人は頷き、フラーリ教会へと向かった。彼女たちはドルソドゥーロの狭い路地を抜け、いくつかの小さな橋を渡り、やがて教会の前に到着した。


 フラーリ教会は14世紀から15世紀にかけて建てられたゴシック様式の壮大な教会で、その赤レンガの外観は周囲の建物から際立っていた。内部に入ると、巨大な空間が彼女たちを迎え、天井の高さと複雑な構造に四人は息を呑んだ。


 教会内には多くの礼拝堂があり、それぞれが著名な芸術家による絵画や彫刻で飾られていた。特にティツィアーノの「聖母被昇天」は圧巻で、その大きさと色彩の豊かさに四人は言葉を失った。


「なんて美しいのでしょう……」


 ソフィアは畏敬の念を込めて囁いた。絵画の中の聖母マリアは天使たちに囲まれ、光に包まれながら天へと昇っていく姿で描かれていた。その表情には神聖な喜びが表現されていた。


「ティツィアーノは色彩の魔術師と呼ばれているわ」


 エレナが解説した。


「彼の使う赤と金色は特に有名で、この作品でもそれが良く表れているわね」


 彼女たちは教会内をゆっくりと歩き、それぞれの礼拝堂と芸術作品を鑑賞した。ベネチアン・ゴシックの建築様式と、ルネサンス期の絵画が調和した空間に、四人は時間の流れを忘れるほど魅了された。


 教会を出ると、午後の日差しがやや和らぎ始めていた。彼女たちは次にサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会(ヴェネツィア方言でサン・ザニポロと呼ばれる)へと向かった。この教会はヴェネツィアの総督たちの多くが埋葬されている場所として知られていた。


 サン・ザニポロ教会もまた壮大なゴシック様式の建物で、その内部には総督たちの豪華な墓碑が並んでいた。彼女たちは各墓碑の彫刻の細部や、それぞれの総督の功績を記した銘板を興味深く読んだ。


「これがヴェネツィアの歴史そのものね」


 アレッサンドラが感慨深く言った。


「何世紀にもわたる栄光と権力が、この石の中に眠っているのよ」


 教会内部での静かな時間の後、四人は再び外へ出た。夕方の光が街を柔らかく包み始め、建物の影が少しずつ長くなっていた。


「もう少し買い物をしたいわ」


 ベアトリーチェが言った。


「特に香水とガラス製品を」


 皆が同意し、彼女たちはショッピングに適した地区、メルチェリエへと向かった。メルチェリエはサン・マルコ広場とリアルト橋を結ぶ商業地区で、様々な高級品店が並んでいた。


 彼女たちはまず、老舗の香水店「プロフーミ・ディ・ヴェネツィア」を訪れた。店内には数百もの小さなガラス瓶が並び、それぞれに異なる香りが詰められていた。バラ、ジャスミン、シトラス、ムスク、アンバーなど、様々な原料から作られた香水が並んでいた。


「こちらは特に人気のある『アクア・デッラ・レジーナ』です」


 店主の女性が説明した。


「女王の水」という意味のこの香水は、柑橘系とスパイスがバランス良く調和し、上品な香りを放っていた。


 四人はそれぞれ好みの香水を選んだ。ソフィアはジャスミンとバニラの優しい香りを、エレナはベルガモットとラベンダーのさわやかな香りを選んだ。アレッサンドラはローズとピーチのエレガントな組み合わせを、ベアトリーチェはイランイランと白檀の官能的な香りを選んだ。


 香水を購入した後、彼女たちはムラノガラスの専門店へと足を向けた。ムラノ島で作られる色鮮やかなガラス製品は世界的に有名で、ヴェネツィアを訪れる観光客の必須の土産物だった。


 店内には様々な形と色のガラス製品が並んでいた。繊細なワイングラス、カラフルな花瓶、小さな動物や花の形をした置物、そして複雑な模様が施されたミッレフィオーリ(千の花)と呼ばれる技法のペーパーウェイトなど、目を楽しませるものばかりだった。


「これを見て」


 エレナは美しい青と金色の小さなガラスの鳥を手に取った。


「なんて繊細な細工でしょう」


 四人はそれぞれ気に入った小さなガラス製品を購入した。ソフィアは水晶のように透明な小さな薔薇、エレナは先ほど見た青と金色の鳥、アレッサンドラは赤と黒の模様が美しいペーパーウェイト、ベアトリーチェは紫色のミニチュアのワイングラスセットを選んだ。


「学院の友人たちへのお土産も買わなくちゃ」


 ベアトリーチェが言い、四人はさらにいくつかの小さなガラスのアクセサリーを追加で購入した。


 買い物を楽しんだ後、彼女たちは小さなカンポ(広場)で一休みすることにした。そこには小さなゲラテリア(ジェラート店)があり、四人は冷たいジェラートを買ってベンチに座った。


 当時のジェラートは現代のものほど種類は多くなかったが、それでも様々なフレーバーが楽しめた。ソフィアとエレナはレモンとミントの爽やかな味を、アレッサンドラとベアトリーチェはいちごとバニラの甘い組み合わせを選んだ。


「今日は本当に素敵な一日だったわ」


 ソフィアは満足げに言った。彼女の隣でエレナが静かに頷いた。二人は肩が触れ合うほど近くに座り、その親密さは言葉以上に彼女たちの関係を物語っていた。


「そうね」


 アレッサンドラも同意した。彼女はベアトリーチェの手を取り、優しく握った。


「こんな風に四人で出かけられるなんて、夢のようね」


 夕暮れが近づき、街には黄金色の柔らかな光が広がっていた。ヴェネツィアの建物はその光を反射し、まるで全体が輝いているかのようだった。教会の鐘が鳴り、それが街全体に響き渡った。


「そろそろ戻る時間かしら」


 ベアトリーチェが言った。彼女はリアルト橋で待ち合わせをしていた小舟の時間を確認した。


「あと一時間ほどあるわ」


 最後に訪れたのは、サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会だった。この壮大なバロック様式の教会は大運河の入口に立ち、その白い丸屋根は街のスカイラインの中でも特に印象的だった。教会は1630年のペスト流行後の感謝の印として建てられたもので、その美しさは多くの芸術家に霊感を与えてきた。


 教会の内部は円形になっており、中央の広々とした空間は八角形の構造を持っていた。壁には様々な芸術作品が飾られ、特にティントレットとティツィアーノの作品は訪問者の目を引いた。


 四人は静かに教会内を歩き、その荘厳な雰囲気に浸った。夕暮れの光が色付きのガラス窓を通して内部に差し込み、神秘的な雰囲気を作り出していた。


「なんて平和な場所なのでしょう」


 ソフィアは小声で言った。


 教会を出ると、彼女たちは大運河を眺められる場所で少し立ち止まった。夕暮れの光に染まった運河の風景は絵画のように美しく、様々な船が行き交う様子が水面に映り込んでいた。


「帰りたくないわ」


 エレナが静かに言った。


「私も」


 ソフィアは同意した。


「でも、またいつか来られるわ」


「約束する?」


 エレナはソフィアの目をじっと見つめた。


「ええ、約束するわ」


 ソフィアは微笑みながら答えた。


「次は私たちだけで」


 アレッサンドラとベアトリーチェも同様の約束を交わし、四人は名残惜しそうに大運河の景色を後にした。リアルト橋へと向かう道中、彼女たちは今日見たもの、感じたもの、学んだことについて熱心に話し合った。


 リアルト橋の東側の桟橋に到着すると、マルコと若い漕ぎ手がすでに小舟で待っていた。


「ご令嬢方、お待ちしておりました」


 マルコは丁寧に挨拶した。


「楽しい一日でしたか?」


「ええ、素晴らしかったわ」


 ベアトリーチェは満面の笑顔で答えた。


 四人は購入した品物を小舟に載せ、自分たちも乗り込んだ。漕ぎ手たちが櫂を水に入れると、小舟はゆっくりと大運河から外へ、サンタ・ルーナ錬金女学院へ向けて動き始めた。


 夕暮れのヴェネツィアは、また違った美しさを見せていた。建物のシルエットが水面に長く伸び、街の灯りが一つ一つ灯り始めていた。遠くではアヴェ・マリアの鐘が鳴り、一日の終わりを告げていた。


### 帰り道と学院での夜


 小舟はゆっくりとラグーナを進んでいった。向かい風がわずかにあり、漕ぎ手たちは力強く櫂を操作していた。四人の少女たちは小舟の中央に並んで座り、夕暮れのヴェネツィアの風景を静かに眺めていた。


 街の灯りが水面に反射して、まるで星空が広がったかのような光景を作り出していた。遠くの教会やパラッツォ(宮殿)が夕陽を浴びて赤く染まり、その姿は幻想的だった。


 小舟の中では四人がそれぞれ今日の体験について静かに話し合っていた。彼女たちの声は水面を渡る風と波の音に時折かき消されながらも、心の通い合いを感じさせるものだった。


「私が一番印象に残ったのは、フラーリ教会のティツィアーノの絵ね」


 エレナが言った。


「あの色彩の豊かさは、ぜひ学院の絵画の勉強に活かしたいわ」


「私はトラットリアでの食事が忘れられないわ」


 ベアトリーチェが微笑んだ。


「あの場所で味わった地元の料理は、本当のヴェネツィアを感じさせてくれたもの」


「私は朝市が素敵だったわ」


 アレッサンドラは言った。


「あの活気と、様々な商品の豊かさ。特に布地と宝石の店は目を見張るものばかりだったわ」


「私にとっては、全てが特別だったわ」


 ソフィアは静かに言った。彼女の顔にはヴェールがかかっていたが、声には感動が溢れていた。


「でも特に、この旅を皆と共有できたことが一番の思い出ね」


 その言葉に、他の三人も心から同意した。彼女たちは互いの手を取り合い、この特別な日への感謝の気持ちを無言のうちに分かち合った。


 やがて、ラグーナの霧の中からサンタ・ルーナ錬金女学院の輪郭が見えてきた。学院の建物は月明かりを受けて、神秘的な雰囲気を放っていた。窓からは薄明かりが漏れ、生徒たちがすでに夕食を終え、就寝の準備を始めていることを示していた。


 小舟が学院の桟橋に近づくと、灯りを持った人影が見えた。それはイザベラ・プリウリ先生だった。彼女は黒いドレスを身にまとい、首には特徴的な三日月のペンダントが光っていた。


「お帰りなさい、皆さん」


 イザベラは温かく迎えた。


「楽しい一日だったかしら?」


「ええ、本当に素晴らしかったわ」


 ソフィアは答えた。


「ヴェネツィアの美しさを実際に体験できて、とても感動しました」


 四人は桟橋に上陸し、マルコと若い漕ぎ手に感謝の言葉を伝えた。特にベアトリーチェは、父親への感謝も伝えるように頼んだ。


「明日のために休息をとりなさい」


 イザベラは言った。


「ただ、カペッロ校長が皆さんの帰還について報告を求めていらっしゃるわ。簡単に今日の出来事をお話しいただけますか?」


 四人は頷き、イザベラと共に学院の中庭へと向かった。夜の静けさの中、彼女たちの足音が石畳に静かに響いた。空には満天の星が輝き、それはヴェネツィアの水面に映る光と同じように美しかった。


 中庭を横切ると、校長室への廊下が見えてきた。カペッロ校長は遅い時間にもかかわらず、彼女たちの帰りを待って起きていたのだろう。校長室のドアをノックすると、中から「どうぞ」という穏やかな声が聞こえた。


 ヴィットリア・カペッロ校長は机の前に座っていた。彼女の顔には年齢を感じさせるしわがあったものの、その眼差しには知性と慈愛が宿っていた。


「おかえりなさい、皆さん」


 彼女は微笑みながら言った。


「街での時間は有意義だったかしら?」


「はい、校長先生」


 四人は順番に今日の体験を簡潔に説明した。サン・マルコ広場でのチョコレート、朝市での買い物、トラットリアでの昼食、教会での芸術作品鑑賞、そして夕暮れの大運河の美しさについて。


 カペッロ校長は満足げに頷きながら聞いていた。


「素晴らしい」


 彼女は最後に言った。


「学院での学びも大切ですが、実際の世界を見ることもまた重要な教育です。今日の体験は、皆さんの心の中で長く生き続けることでしょう」


 彼女は少し考えるように沈黙した後、続けた。


「このような外出の機会を、今後も定期的に設けることを検討しましょう。正しい教育とは、書物の中だけにあるのではなく、実際の世界との対話の中にもあるのですから」


 この言葉に、四人の顔は喜びで輝いた。カペッロ校長の進歩的な考え方は、当時の教育界では珍しいものだった。特に女子教育においては、外部との接触を最小限に抑えることが一般的だったからだ。


「さあ、もう遅い時間です。明日の授業に備えて休息をとりなさい」


 カペッロ校長は親切に彼女たちを部屋から送り出した。


 廊下では、イザベラが待っていた。


「校長先生の言葉通り、休息をとるべきね」


 彼女は言った。


「でも、まだ少し時間があるわ。もし望むなら、東の塔の実験室で今日買ってきたものを整理するといいわ。私も少しお手伝いするから」


 四人は喜んで同意し、イザベラと共に東の塔へと向かった。この塔の実験室は、イザベラが特別な錬金術の授業を行う場所で、彼女たちにとって特別な意味を持っていた。


 実験室に入ると、イザベラはランプに火を灯した。部屋は暖かな光に包まれ、壁に並ぶ様々なフラスコや書物が浮かび上がった。


「さあ、今日の戦利品を見せてください」


 イザベラは微笑みながら言った。


 四人は購入した品物をテーブルの上に並べた。香水、ガラス製品、布地、それに加えてちょっとした土産物や食べ物。イザベラは特に香水に興味を示した。


「これらの香水は錬金術にも応用できるわ」


 彼女は説明した。


「香りは魂に直接働きかけ、特定の状態や感情を引き出すことができるの。古代エジプトの神官たちも、神聖な儀式において香りを重要視していたのよ」


 イザベラは小さなガラス瓶を取り出し、そこに四人が購入した香水を少しずつ混ぜ始めた。彼女の手つきは熟練しており、まるで芸術作品を創り出すかのようだった。


「これを『四人の絆』と呼びましょう」


 彼女は完成した混合香水を四人に見せた。瓶の中の液体は琥珀色で、光に透かすと虹色の輝きを放った。その香りは四人がそれぞれ選んだ香水の特徴を持ちながらも、不思議な調和を持っていた。ジャスミン、ベルガモット、ローズ、イランイランが混ざり合い、まるで四人の個性が一つになったかのようだった。


「これは分け合いましょう」


 イザベラは小さな四つのフィアル(小瓶)に混合香水を等分に注ぎ、それぞれに銀の糸で封をした。


「特別な日や、何か大切なことがある時に使うといいわ。この香りが四人の絆を思い起こさせてくれるでしょう」


 彼女はそれぞれにフィアルを手渡した。


「そして、もう一つ」


 イザベラは作業台の引き出しから、四つの小さな銀の容器を取り出した。それぞれが精巧な円形をしており、表面には学院の象徴である七つの惑星の記号が刻まれていた。


「今日買ってきたガラスの小物を、この中に保管するといいわ。これは特別な合金で作られていて、中に入れたものを保護するの。特に繊細なガラス製品には最適よ」


 四人はイザベラの贈り物に感謝し、それぞれが購入したガラスの小物を銀の容器に大切に収めた。


「先生、今日は本当にありがとうございました」


 ソフィアは心からの感謝を込めて言った。


「この機会をくださったカペッロ校長だけでなく、先生の特別な贈り物までいただいて」


「いいのよ」


 イザベラは優しく微笑んだ。


「あなたたちが成長する姿を見るのは、教師として何よりの喜びだもの。さあ、もう遅いわ。自分たちの部屋に戻って、しっかり休みなさい」


 四人はイザベラに挨拶をし、実験室を後にした。廊下で、彼女たちは一瞬ためらった。まだ別れるのは惜しいという気持ちが、それぞれの表情に浮かんでいた。


「ねえ」


 ベアトリーチェが小声で言った。


「私の部屋で少しお茶をしない? 今日のことをもう少し話したいの」


 他の三人も喜んで同意し、彼女たちはベアトリーチェの部屋へと向かった。


 ベアトリーチェの部屋は学院の西側にあり、窓からはラグーナと遠くのヴェネツィアの灯りが見えた。彼女の部屋は他の生徒より少し広く、グリマーニ家の地位を反映して、より上質な家具で整えられていた。


 ベアトリーチェは小さな銀のポットでハーブティーを用意した。彼女は部屋に常備していた上質なカモミールとミントを混ぜ、香りの良いお茶をいれた。四人は窓際の小さなテーブルを囲んで座り、今日の思い出を語り合った。


「最高の一日だったわ」


 アレッサンドラはカップを両手で包むように持ちながら言った。


「明日からまた学院の日常に戻るのが少し寂しいけれど」


「でも、私たちはまた行けるのよ」


 ベアトリーチェは希望を込めて言った。


「カペッロ校長も賛成してくれたもの」


「そうね」


 ソフィアも頷いた。彼女の目は窓の外の星空を見つめていた。


「次回は何を見たいかしら」


「アルセナーレを見学してみたいわ」


 エレナが提案した。アルセナーレはヴェネツィアの造船所で、その巨大な施設と効率的な生産システムは当時のヨーロッパで最も進んだ工業複合施設だった。


「それとムラノ島も訪れたいわね」


 アレッサンドラが付け加えた。


「ガラス工房を実際に見学できたら素敵よね」


 彼女たちは次の外出計画について語り合い、夢見るような時間を過ごした。窓の外では月が高く昇り、その光がラグーナの水面を銀色に染めていた。


 時が経つにつれ、四人の会話は少しずつ静かになっていった。一日の興奮と疲れが徐々に彼女たちを襲い始めていた。


「そろそろ私たちも部屋に戻るべきね」


 ソフィアはやわらかく言った。


「明日の授業がありますから」


 四人は立ち上がり、お互いに抱擁を交わした。それは単なる別れの挨拶ではなく、今日共有した特別な体験への感謝と、深まった友情の証だった。


 アレッサンドラとベアトリーチェは最後に二人きりの時間を求めた。ベアトリーチェがアレッサンドラの手を取り、彼女を引き止めたのだ。


「少しだけ一緒にいてもらえる?」


 彼女はそっと尋ねた。アレッサンドラは頬を赤らめながら頷いた。


 ソフィアとエレナは二人に優しく微笑みかけ、部屋を後にした。廊下に出ると、二人は手を取り合った。言葉なしでも、彼女たちは互いの気持ちを理解していた。


「私の部屋まで送るわ」


 エレナは静かに言った。彼女の声には優しさと、何か特別な感情が込められていた。


 二人は月明かりだけが照らす廊下を静かに歩いた。学院は深い静寂に包まれ、彼女たちの軽い足音だけが時折聞こえるだけだった。


 ソフィアの部屋の前で、二人は立ち止まった。エレナはソフィアの手を両手で包み、その温もりを感じた。


「今日は特別な日だったわ」


 エレナは静かに言った。彼女の琥珀色の瞳が月明かりの中で輝いていた。


「あなたと過ごせて幸せだった」


「私も」


 ソフィアは微笑んだ。彼女の心は温かな感情で満たされていた。


 エレナはゆっくりとソフィアに近づき、そっと彼女の頬にキスをした。そのキスは短く、しかし彼女たちの間に流れる感情の深さを物語っていた。


「おやすみなさい、ソフィア」


 エレナは囁くように言った。


「おやすみ、エレナ」


 ソフィアも同じように囁き返した。


 ソフィアが自分の部屋に入ると、窓から差し込む月の光が、部屋を銀色に染めていた。彼女は窓辺に立ち、今日見たヴェネツィアの風景を思い出した。サン・マルコ広場の輝き、リアルト橋の賑わい、静かな教会の荘厳さ、そして何より、大切な友人たちと過ごした時間の素晴らしさ。


 彼女はイザベラから贈られた小さなフィアルを取り出し、その香りを静かに嗅いだ。四人の個性が混ざり合った香りは、今日の思い出を鮮やかに呼び起こした。


 彼女はドレスを脱ぎ、ナイトドレスに着替えながら、今日の一日を心の中でもう一度辿った。そして、ベッドに横になると、疲れた体と興奮した心が少しずつ落ち着いていくのを感じた。


 窓から見える月と星を最後に見つめながら、ソフィアはゆっくりと目を閉じた。彼女の唇には、まだエレナのキスの感触が残っていた。


 夢の中で、彼女は再びヴェネツィアの運河を小舟で巡っていた。しかし今度は、エレナだけが彼女の隣にいた。二人は手を取り合い、水の都の永遠の美しさに包まれていた。


 アレッサンドラとベアトリーチェは、ベアトリーチェの部屋で静かに向かい合って座っていた。二人の間に置かれたキャンドルの炎が、彼女たちの表情を柔らかく照らしていた。


「今日はあなたが隣にいてくれて、特別な一日になったわ」


 ベアトリーチェは静かに言った。彼女の茶色の巻き毛が、キャンドルの光に照らされて輝いていた。


「私も同じ気持ちよ」


 アレッサンドラは応えた。彼女の目には深い感情が浮かんでいた。


「あなたのおかげで、ヴェネツィアがもっと美しく見えたわ」


 ベアトリーチェは少し勇気を出して、アレッサンドラの手を取った。


「学院にいる間、あと何度か外出できるかしら」


「きっとできるわ」


 アレッサンドラは彼女の手を優しく握り返した。


「そして、いつか私たちだけでも行けるわ」


 ベアトリーチェの目が輝いた。


「それが待ち遠しいわ」


 二人は静かに微笑み合い、その間に言葉では表現できない何かが流れた。彼女たちの友情は、今日の経験を通してより深く、より特別なものへと変わりつつあった。


 アレッサンドラが自分の部屋に戻る時、ベアトリーチェは部屋のドアまで彼女を送り、静かにおやすみのキスを交わした。それは友情と愛情の間のどこかにある、繊細で美しい感情の表れだった。


 四人のうち最後に眠りについたのはエレナだった。彼女は自分の部屋で、窓から見えるラグーナと月を長い間見つめていた。今日の出来事、特にソフィアとの時間を心の中で大切に抱きしめながら。


 やがて彼女も柔らかなベッドに身を委ね、今日見た美しい光景と、感じた温かな感情に包まれながら、静かに目を閉じた。


 サンタ・ルーナ錬金女学院は深い静けさに包まれ、四人の少女たちは、それぞれの心に水の都での一日の思い出を抱きながら、穏やかな眠りについた。


 月の光がラグーナの水面に映り、それは彼女たちの美しい思い出のように、静かに揺れていた。


 明日からは再び学院での日常が始まる。しかし今日の経験は、彼女たちの心に永遠に刻まれることだろう。そして、この特別な絆は、これからの彼女たちの人生において、大切な宝物となっていくのだった。


(了)

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【中世黒魔術百合短編小説】黄金の薔薇と永遠の契り番外編「水の都のワルツ ―錬金女学院生たちの初めての外出―」(約18,000字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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