K.2 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

8月1日の朝8時。


僕はY県Y市へ向かうため、学生寮を出て最寄り駅へ向かった。


僕の姿はいつもの通学スタイルと同じ、少し大きめのリュックのみ。

事情を知らない友人が見たら、今日も大学へ行くんだろうと勘違いしてもおかしくない程、身軽な恰好だ。


もちろん一か月の住み込み用に準備した荷物はそれなりに多かったが、有難いことに同じ大学寮に住む友人がLサイズのスーツケースを貸してくれたので、一つにまとめて先に発送してあった。

奴には絶対に忘れない様に、お土産を買ってこよう。


東京駅に着くと、まずは新幹線でY県まで一気に移動した。

夏休みだからかほとんどの座席が埋まっていたが、運が良いことに2人掛けの窓際に座る僕の隣は空席で、隣人を気にすることなく菓子パンを食べれたし、耳につけたワイヤレスイヤホンでドヴォルザークの交響曲第9番を聞きながら、食後のひと眠りも出来た。


だが気持ちに余裕があったのはそこまでだった。

新幹線を降りた後はY市行きの在来線に乗ったのだが、立ったまま終点まで行った。

そこから先はローカル線に乗り換えるのだが、次の発車は30分後で、疲れていた体にその待ち時間はかなりシンドかった。


そしてやっと出発した2両編成のこぶりな列車は所々で振り子の様に左右に揺れ、時々襲われる吐き気を紛らわせながら進む事40分。


何とか着いたその駅は、駅員不在のとても小さな駅だった。


(やっと着いた‥‥‥)


僕はヨタヨタとホームに降りると、背負っていたリュックをベンチに置いて、新鮮な空気で思い切り深呼吸した。


すると吐き気が少しおさまった気がしたので、次に凝り固まった体を何とかするため背筋を伸ばして体を左右に軽くひねった。

腰からゴキッ、ゴキッといい音が響く。


続けて両肘を肩まで上げると、大きく後ろに回す。

すると肩からもグキグキと鈍い音が続いたが、3回回すと手を下ろして脱力し、ふぅぅぅっと大きく一息ついて空を見上げた。


列車の到着時間は午後2時54分だ。


いつもなら間違いなく秒で苦痛に変わる陽の光が、冷房で冷え切った僕の体にじんわりと染み込み、体中の細胞が温まっていく感覚が心地良い。


(『旅をしない音楽家は不幸です』ってモーツァルトの言葉があるけど、あれ本当に本人が言ったのかな。まじシンドイんだけど)


そう思いながら日向ぼっこ気分に浸っていると、降りた客たちが線路を渡って反対側のホームへ向かっている姿と、その先に自動改札機が2台並んだだけの改札が目に入る。


「そう言えば、改札はひとつしかないって書いてあったっけ」


あらかじめ到着時間はメールで知らせてあるので、きっと迎えの人はもう来ているだろう。

人の流れに沿って改札を出ないと、心配掛けてしまうかもしれない。


僕はベンチに置いたリュックを背負い直すと先人に続いて線路を渡り、自動改札機を通って改札を出た。


するとそこには、広大なロータリーが広がっていた。


「すご……」


明らかに駅の規模と比例しないその空間は、左にバス、右にタクシー乗り場の看板があり、正面の中央部分には数十台は余裕で駐められそうな一般用の駐車場がある。

そこには数台の自家用車がチョコンと駐まっており、改札を出た何人かがその駐車場へ続く横断歩道を渡っている。


(なるほどね。金沢さんの車もあそこかな。確か黒のミニバンだったっけ)


とりあえず僕も横断歩道へ向かおうと思った時、目の前を通り過ぎた黒い車が、すぐ先の路肩で停まった。


僕はその車のバックドア下にある[も 1-27]と書かれたナンバープレートが目に入った。


そして運転席から降りた女性が、満面の笑みで僕を見て、両手を伸ばして大きく振りながら声を掛けてくる。


「椎名さんですよねー。金沢でーす」


(あ、この車か)


僕は小さく頭を下げると、その車へ向かった。


 ※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※ー※


「長旅で疲れたでしょ。途中どこかでお茶でも飲みましょうか? って言っても東京みたいなオシャレなお店はないんだけど」


運転席に座るその女性はシートベルトをしめながら、助手席側の後部座席にいる僕に向かって声を掛けてくれた。


「いえ、大丈夫です。わざわざお迎えありがとうございます」

「やだ、当たり前じゃない。逆にせっかくの夏休みにこんな田舎までごめんなさいね。あ、送ってくれたスーツケースは先にコーポに運んであるから安心して。じゃぁ行きましょうか」


そう言うと女性は車を発車させ、ロータリーから一般道へ出た。


「椎名さんはY市は初めて? スノボとかするの?」


運転しながらその女性は、明るい声で話し掛けて来る。


「Y市というか、Y県に来るのが初めてです。僕スポーツほとんどやらないので」

「あ、そっか。音楽やってるのにケガとかしたら大変だもんね」

「いえ、そうじゃないんですけど、僕の周りには体育会系の人がいなかったから」

「そうなんだ。まぁそんなもんよね。私だって高校卒業以来ゲレンデ行ってないからこの子も滑れないからね」


この子とは、助手席に座る小さな女の子の事だろう。

だけど彼女はまだ一言も発していないし、何と返したらいいのか分からなかった僕は、とりあえず「そうですか」と相槌を打った。


すると女性は何かを察し、話を続ける。


「というかまずは自己紹介よね。私がメールを送った金沢浩二の娘の真琴まことです。で、この子は私の娘で麻里まり、5歳。ほら麻里、ご挨拶は?」

「……」

「やだもう、ごめんなさいね。この子人見知りがあるのよ。私たちの事は名前で呼んでくれればいいから、私達も航青こうせい君って呼んでいい?」

「はい、もちろんです」


経験上、僕は人見知りの気持が分かる。

人見知りさんには、しつこくない程度の積極的な言葉掛けがまぁ無難だ。


僕は体を少しだけ前に起こすと、助手席に向かって声を掛けた。


「麻里ちゃん、こんにちは。僕は椎名航青しいなこうせいと言います。よろしくね」

「……」


真琴さんがチラッと横を見て、無言の真理ちゃんを気にする。


(今日はここまでかな)


僕は場を切り替えるつもりで、真琴さんに話を振った。


「ところで部屋はどの辺りなんですか?」

「えぇとね、ここからだとあと30分くらいかな」

「え、30分!?」


軽く聞いただけのつもりが、予想外の答えに僕は驚いてしまった。


「そうなのよ。遠くでびっくりでしょ。もう少し行ったら大きな川があるんだけど、それを越えたらすぐだから」

「はい、すいません。勝手に近くだと思い込んでいたので」

「いいのいいの。でもコーポに着いちゃえばあとは徒歩圏内よ。ウチも事務局もスーパーも、みーんなご近所だから安心して」

「はい……」


(近所過ぎてもなんだかなぁ)


僕はシートにもたれ直すと、車窓から外の気色を眺めた。


高い建物が少ないせいか、綺麗な水色の空はやけに広く、ぼやけたように浮かぶ雲の動きもゆったり見える。


僕はまったりとした車内の空気感に、瞼が段々と重くなっていくのを感じた。

そして次に目を開けるとその視界の先には、運転席にいる真琴さんが助手席側を向き、麻里ちゃんのシートベルトを外している姿だった。


「……え? あれ?」

「あ、起きた?」


僕の声に反応した真琴さんと真理ちゃんがこちらを見る。


「す、すいません! 僕寝ちゃってました!?」

「全然いいのよ。丁度着いたとこ。降りれる?」

「は、はい」


僕は、横に置いてあったリュックを持つと車を降りた。

すると目の前に、真っ白な壁に濃いピンク色の手すりが目立つコーポが建っている。


(ピンクって)


手すりの色に釘付けになっていると、真理ちゃんと手をつないだ真琴さんが苦笑いしながら隣にやって来た。


「すごい色でしょ」

「何と言うか、デザイナーズマンション的な感じですね」

「やだ、そんなんじゃなくて中は普通の2Kだから」


すると真理ちゃんが、左の小さな手を上げて壁を指差す。


僕はその指先を目で追うと、壁に括りつけられた、手のひら大のモカ色のカタカタの文字が目に入った。


「コーポアマデウス。え!? ここアマデウスって名前なんですか!?」


真琴さんが苦々しい顔で頷く。


「あぁ、だからピンクなんですね」


と、僕は納得した。


モーツァルトに、アイドルグループのメンバーカラーのような、オフィシャルの色があるとは聞いたことはない。


だけどモーツァルトの色と言えば、ピンクを連想する人はとても多い。


それは歌やモーツァルトの名がつくバラの花びらの色の影響が大きいからだろう。

現に僕は白とピンクの組み合わせとモーツァルトと聞き、植物園で見たバラ「モーツァルト」の花びらの色を思い出した。


そんな中、僕は今さっきロータリーで見たこの車のナンバーが頭を過る。


「もしかして車もですか? 誕生日と同じだ」

「さすが音大生さん。良く知ってるわね」


(まじか!!! )


当てたくせに、僕は驚いた。


モーツァルトの誕生日は1756年の1月27日。

つまりこの車は、誕生日をわざわざ指定してナンバープレートに使った事になる。


これはもう、モーツァルトマニアに違いない。


「すごいですね。[も]まで付いてるなんて、モーツァルト好きには堪らないナンバーじゃないですか」

「そうなのよ。これはたまたまだったんだけど、さすがに怖くなったわ」


話を聞いながら、僕は気分が高まった。


いわゆるモーツァルトマニアと言われる人々は世界中に大勢いて、その熱狂さを雑誌やネットの記事で読んだ事があったが、僕とは別世界の人で会える事なんて無いと思っていたからだ。


それがまさか、こんな所で遭遇出来るとは。

やっぱりモーツァルトの言う通り、旅はするべきだ。


「あの、そのおじい様と会えたりしますか?」


僕は思い切って真琴さんに聞いてみた。


「そうよね、こんな変人、会ってみたいわよねぇ。だけどごめんなさいね、もういないのよ。去年亡くなったの」

「あ、‥‥‥すいません。変なこと言っちゃって」

「でも安心して。父がそれを受け継いでるから」

「え?」

「もうほんとに嫌になっちゃうんだけど、父もモーツァルトが大好きなのよ。ちなみにお手伝いしてもらうオケの名前も父が考えたんだけど、何だと思う?」

「名前、ですか? うーん、‥‥‥ありきたりだけどモーツァルト楽団とか、ヴォルフガングオーケストラとか?」


すると真琴さんは「だったら良かったんだけど」と小さくため息をついて、呟いた。


「アマデスオーケストラよ」

「……え? アマデウスオーケストラ?」

「ううん。ア、マ、デ、ス、オーケストラ。アマデウスとアマチュアを掛けたんだって。なんでこんなコントみたいな名前にしたのかしらねぇ。信じらんない」


僕は、真琴さんの父親が松下教授と親友な訳が分かった気がした。

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