空と海のセレナーデ

あいちあい

K.1 バリトンボイスの勧誘

明日から夏休みという7月下旬のとある午後。


僕は西洋音楽史の松下教授から突然呼び出され、教授の部屋のソファーに座っていた。


「良かったです。まだ椎名しいな君が学校に残ってて」


教授は嬉しそうにそう言いながら冷蔵庫から取り出したペットボトルの麦茶を僕の前に置くと、(どうぞ)と右手を差し出しながら対面のソファーにドシンと座った。


「ありがとうございます」


帰り際で校門付近にいた僕は、ここに来るのに10分以上歩いていたので、汗もそれなりにかき喉も乾いていた。

だからミネラルたっぷりの冷えた麦茶はとてもありがたく、遠慮なくゴクゴク飲むとフゥゥと一息つき、やっと少し落ち着いた。


目の前にニコニコ顔で座る松下教授は、60歳を過ぎているが元オペラ歌手で体格はかなり良く、その姿はオペラ歌手と知らなければ小柄なお相撲さんに見える。


だからなのかここの応接セットのソファーは一人掛けはなく、対面して置かれている2脚はどちらも3人掛けだ。


僕の周りに大柄な人がいなかった事もあり、入学当初は何となく体調を心配た事もあったが、Youtubeにあった現役時代の映像を見て考え方を改めた。

あの大迫力の素晴らしいバリトンボイスはこの体格あっての物で、声楽家は体が楽器という事をまざまざと実感したからだ。

もう3年以上も前の事だが、その時の衝撃はまだ鮮明に覚えている。


僕が落ち着いたのを察した松下教授は、話を始めた。


「君は夏休みの予定はもう決まっているんですか?」

「いえ、まだ具体的には。つい最近まで就活中だったので」

「業界最大手の総合商社から内定が出たそうですね。4か国語がイケる君にぴったりの仕事です。頑張って下さいね」

「ありがとうございます。でもドイツ語とイタリア語は仕事で通用するかどうか」

「大丈夫ですよ。まだ卒業までに半年あるからその間に徹底的に学べばいい。おっと話がそれてしまいましたが、実は君にアルバイトを紹介したくてね、お呼びだてしたんです」

「アルバイト? ですか?」


教授はテーブルの上に1枚の紙を置くと、指先でズイッと僕の方へやった。


「僕の学生時代の親友からさっき届いたばかりのメールです。どうぞ、読んでみて下さい」


僕はその紙を手に取ると、ざっと目を通した。


差出人は金沢浩二かなざわこうじという男性で、そこには、定年後は事務局長としてアマオケのお手伝いをしていたが入院する事になり、今はクラシックの知識が皆無の娘が手伝っているが立ち行かなくて困っている。だから夏休み期間だけでいいので学生さんにバイトに来てもらえないか、という相談事が書かれていた。


「えっと、これが何か?」

「どう? 面白そうでしょ?」


(面白い? どこが?)


これは本音だ。

全く興味が湧かない文面だった。


「うーん。……ちょっとよく分からないです」

「そう? すごく面白いと思いますよ。このバイト」

「……」


僕はテーブルの上に紙を置くと、無言で教授の方へズイッと押し戻した。

すると教授も無言で僕の方へ押し戻してくる。


(まじか……)


嫌な予感がした僕は、ひとまずとぼける事にした。


「でも僕はオーケストラは経験が無いし。そうだ、山森さんはどうですか。彼女はオケでバイトもしてるし、コンサートもしょっちゅう行くほどオーケストラが好きじゃないですか」

「いやいや、彼女はダメですね。女性だし、就職先も決まっていませんから」


就職先と言われ、なぜ教授が僕に声を掛けたのかピンときた。

25名いる学理科の同級生の中で、就職先が決まっているのは僕だけだ。

さらに言えば、他の学部も入れた何百人もいる同学年の中でも、僕が知る限り就職先が決まった学生はほんの数人しかいない。


これは音楽大学あるあるで、はっきり言ってほとんどの学生は就職先はフワッとしまま卒業していく。

というか就活すらしない人がほとんどで、一般大学の学生に混じって必死に就活をしていたのは、学年でも僕だけだったのではないかと思うくらいだ。


これは断固として断らないと、僕が行く羽目になる。


「せっかくですが学生最後の夏休みだし、思い存分クラシック音楽を満喫したいので他の人を当たって下さい」


松下教授の顔に満面の笑みがこぼれた。


「素晴らしい! 尚更君にぴったりですよ! オーケストラはクラシック音楽の最高峰、その中でもアマオケは純粋に音楽が好きな人だけが集まっている素晴らしい組織だから、君の望むよう、思い存分クラシック音楽を満喫で出来ますよ!」

「は? いやいやそうじゃなくて。例えば遠くへ行くとか、まとめて休める学生にしか出来ない事をやりたいんです」


すると松下教授はソファーの背にもたれ、腕を組んで大きく頷いた。


「そうですよね、全く同感です。だから避暑も兼ねて楽しんで来て下さい」

「……避暑?」 


僕はもう一度紙を手に取ると、メール文面に目を戻した。

その文末の署名覧には、Y県Y市と書かれている。


「Y県!? って有名なスキー場がいくつもある、あのY県ですか?」

「そうです。東京の夏は殺人的に暑いから、可能なら僕が行きたいくらいですよ。あ、もし彼女と長期間離れられないなら、広めの部屋を頼んであげるから連れて行けばいい。きっと喜ばれますよ」

「……彼女は大丈夫なんですけど、え? 部屋って?」

「東京から通える距離じゃないですからね、もちろん住み込みです」

「住み込み!? あ、だから男の方がいいんですか」


松下教授がドヤ顔になる。


「そうです。だからこれは椎名航青しいなこうせい君にしか頼めないアルバイトです。学理科首席の君なら間違いなくこなせます。安心して行って来て下さい」

「……」


やばい、ダメだ、断るんだ。

西洋音楽史の単位はもう大丈夫なんだから、勇気を出せ。

脳みそではそう思っているのに、それがうまく言葉に出てこない。

僕は眉間に皺を寄せながら、松下教授を見た。


すると教授は膝に手を置くと、グイッと体を前のめりにして顔を近づけてくる。


「ところで椎名君はドイツに行った事がありますか?」

「ドイツ? いえ、ありませんけど」

「それはもったいない。であればぜひ卒業旅行はドイツに行って来て下さい。クラシック音楽の父・バッハの生誕地。音楽家であれば一度は訪れたい聖地巡礼の最高峰。それに冬のドイツは最高ですよ」

「それはそうかもしれませんけど、でも僕は別に音楽家を目指してないし就職先も一般企業です。だからドイツはいつか行ける時にでも」


すると松下教授は、座った姿勢のままでアリアを歌うかのように両手を大きく広げると、腹筋と横隔膜を駆使したのが分かるような素晴らしいバリトンボイスで声を上げた。


Neinナイン!!」


それは英語で言う「NO!」という意味のドイツ語で、広くはないこの部屋の壁に反響し、その音圧が肌にビシビシと当たってくる。


「断言しましょう! このバイトは卒業後は一般企業に就職する椎名航青君への音楽の神様からのプレゼントです。さぁY県Y市へ向かうのです。素晴らしい出逢いが君を待っていますから!」


僕はもう何も言えなかった。


そして教授は手を降ろすとニコっと微笑み、僕を見た。


「先方に連絡しておきますので、詳細は後ほどメールしますね。住み込みバイトはお金を使わずに済むだろうしきっと貯金も出来ますよ。楽しんで来て下さい」

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