かくぶんわはだらけたい
黒田タケフミ
第1話 かくぶんわはだらけたい
かくぶんわはだらけたい。かんがえることさえひらがなでながしてすませたいくらいだらけていきたい。それなのに。それだというのに。その願いは叶わない。郷里である武威姑臧は漢土の果ての果て。だらけて生きるには過酷すぎる。至高のだらけた人生を送るためには中央官僚になってそこそこの地位に就き、だらけても食える位の俸給を貰う必要がある。そうして賈詡(かく)は運(引き)の強さに頼って強力な挙主(コネ)を得て孝廉に察せられて郎と為り、願いかなって中央官僚の階に足を掛けた―――はずだった。
(楽な人生を送りたいのでござるが。)
両手両足を縛られ、同じような仲間と共に雑にそこらに転がされた賈詡は、木々の隙間から覗く九天の上まで見えるかのような澄み渡る空に目線を投じた。
―――どうしてこうなった。
ここは汧県の県城を過ぎて二日ほどの距離。のはず。多分。県城を目指す上で覚えておくべき目印の呉山も今は既に見えない。できることなら二日ほど前に戻りたい。戻れば多分それらの景色の中に見えるだろう。見えていた頃に戻りたい。本当に。
賈詡は西のかた、故郷へ帰る途中だった。仲間たちで固まって数を揃えて道行けばそれほど危険なこともあるまいと、そう考えて皆で向かった行程だった。県城からは途中まで行き先が一緒の商人たちと同行する形となり、より安全になったと一安心したばかりであった。
それがいけなかったのだろう。
県城に所属する人たちの活動する範囲を外れて暫くして賊が現れた。賊は漢人ではなかった。氐(てい)人であった。関西に赴任する郡守、都尉、県令で利権を求めて民や諸種を虐げるものがあれば、それまで漢に服属していた諸種は背いて離れる。関西の習いである。少し前に鮮卑(せんぴ)討伐の軍役が行われたが上手くいかなかったと言う話は聞いていた。中央政府は服属した氐人など諸種を軍役に使うことがある。撤退が逃走に逃走が逃亡に代わるのは軍事行動の常である。そうして先の戦役で逃げ出した氐人かも知れない。漢の言葉を話す氐人は由来が知れる。どちらの氐人なのか分からないが、どちらにせよ賈詡らを縛って転がしているのは氐人である。それに変わりはない。
賈詡はため息をついた。
我が身一つ窮地から引き抜き出すのは難しくない。成功するか、失敗するか、結果が二つだけの賭けに出ればいいだけだ。上手くいけば運が良かった、しくじれば運が悪かった、そんな人生だったと悔やんでお仕舞というだけだ。ただ―――どうにかして仲間の内一人は助けきる必要があった。そもそも賈詡が西へ向かっていたのは、最悪そのただ一人を必ず其処へ届けきるためであった。そのただ一人には余計な口を開かぬように言い含めてある。賭けにしくじれば我が身が危うい。そこに巻き込むわけにいかない。
「そこなお人にお願いがござる。小用を足したいのでござる。」
見張りの氐人が歩み寄り、頷いたので賈詡は両手両足を縛られたまま小器用に立ち上った。
『そちらの頭目と話がしたい』
小用を足し終えるや男は突然自分たち氐人の言葉を話し始めた。驚いた。こいつ俺たちの言葉を話す。警戒しながら男を見る。覇気のない、とぼけた風情の男だ。すると男はもう一度言った。
『俺は今の「太尉段公」の、親戚だ。頭目と話をしたい』
どうしていいか分からず、頭のところへ連れていくことにした。連れていくと頭は何をしにきたと言う。『こいつ、俺たちの言葉を話せる』そう言って男を小突くと男はもう一度言った。
『俺は今の「太尉段公」の親戚だ。俺たちをどうする積りだ』
頭は驚いたようにこちらを見た。頷く。氐人の言葉を話す漢人など希だ。いるとしても物好きの極みか―――わずかに居る地元の商人か―――在地漢軍の将校である。漢軍の将校すべてが氐人の言葉を話せるわけではないが、漢軍の高級将校で地元出身者の中には、情報の収集や指揮下の諸種に軍令を行きわたらせるのに必要と考え、言葉を学んで収める者がいる。目の前の男は捕らえた隊商の中にいたが他の何名かと同じく商人ではないようだった。恐らく行先が同じか近いということで同行していた人間だろう。頭が考えを巡らせているのが分かる。少しして、貰うものを貰って後は後腐れなく始末する積りだと頭は答えた。
本当はどうするか未だ考え中であった。漢人を殺すと面倒なことになる。正確には殺したことが明らかになると面倒なことになる。漢人が漢人を殺すのと諸種が漢人を殺すのと、詮議にかける漢人の熱意が違う。執拗に、どこまでも、漢人は犯人の捜索を続けてくる。
『じゃあ俺の死体は他と分けてくれ。「段公」は必ず俺の死体を贖い求める。死体を持っていけば、たっぷりお礼してくれるだろう』
「下手な氐語は止めろ。漢語でいい。俺たちは全員言葉が分かる」
頭はそう言うと見張り二人を残して全員集めろと言ってきた。そうして全員が集まると頭は男に言った。
「お前段公の親戚だというが嘘ではないだろうな。どういう繋がりの親戚だ?」
段公とは太尉に就いている段熲(だんけい)のことである。太尉は漢朝に三名いる最高官、三公の一人で治安・軍事を掌る。三公の一人であるため敬いをこめ、段公と避名して呼び習わされる。今太尉に就いている段熲は字を紀明といい武威(ぶい)姑臧(こぞう)の人で数年前まで西北の辺境で漢軍と漢に従属する諸種を率い、まつろわぬ戎狄を討伐していた。先代の桓帝の御代、漢の西北地域に派遣される総司令官で先ず名が挙げられたのが、皇甫規、張換、段熲である。うち段熲は歯向かった外夷を尽く滅ぼしつくす狂気の将帥として知られていた。
延熹二年(159年)、桓帝が梁冀を滅ぼす際に生じた政治的騒憂を漢の緩みと見たか、燒當、燒何、當煎、勒姐等八種羌が隴西、金城の城塞を攻め立てて来た。これに赴任したての護羌校尉として対応したのが段熲である。段熲は湟中義從羌を含めた兵万二千騎で湟谷の地から出撃して八種羌を撃破すると追撃を加え、羅亭というところで更に撃破し、戦いを主導した敵の酋豪ら二千級を斬り捨て万餘人を捕虜とした。余りにも鮮烈な西北戦域への登場であった。
これを皮切りに段熲とこの地域の諸種は互いに血で血を洗う闘争を繰り広げる。翌延熹三年(160年)、先の戦いの復仇を目論む羌は燒何の大豪を頭に張掖に攻め込み、屬國の吏民を殺害した。先の戦いの報復である。これに対峙した段熲は一日中戦闘を継続し続け、根負けした羌族が引くのに合わせて追撃をかけた。補給も兵站も無視して追い続けては戦い、戦っては追い続けること四十日余、二千余里を追いに追い、遂に河首積石山で敵を捕らえて会戦し、燒何の大帥を斬り捨て、虜とした五千余人を首だけにした。そして会戦で討ち漏らした燒當種が逃げ込んだ先を追って捜索し、兵を分けて石城羌を撃って二千人ほどを殺した。逃げ込んだ燒當種は九十人、全員降伏した。これが全てではあるまいと段熲は執拗に捜索を続け、白石というところに諸種の羌が屯営を結んでいるのを掴むと軍を進め戦いを強い、虜にした三千人余りを首だけにした。狂気の護羌校尉である。
その畏怖される様は滇那羌の行動に現される。一時、冤罪で獄に下っていた間に調子に乗った滇那羌が武威や張掖、酒泉を攻めたことがあった。しかし段熲が護羌校尉として戦線に復帰するや、全員即座に集落を挙げて出頭して降伏した。なお、降伏せず抵抗を決めた當煎、勒姐種はその冬、万余人を率いてきた段熲に撃破され、酋豪は斬られ、虜となった四千余人が首だけになった。そしてそれだけで済まされず翌年春から秋まで三つの季節に跨って戦いを強いられ続け、ついに勒姐種は一部が降ったほかは散り散りになって消えた。當煎種の方は延熹八年、九年と立ち上がるも段熲に尽く潰され、鸞鳥での会戦に大破され、西羌は悉く平げられたと記されることになった。
西羌という言葉があるということは東羌と言う言葉も当然ある。先零羌はその筆頭であり、征西將軍馬賢が破れてから以後、まともに討つこと叶わず、先に名を挙げた皇甫規にしろ張換にしろ、威圧と招降を呼び掛けるに留まっていた。軍事には多大の出費が伴う。それは金と糧秣と言うだけでなく血の出費、兵の損耗と地域の荒廃も伴う。にも関わらずそれが上手くいくと限らない。誰しも馬賢の二の舞は御免である。そういう訳で先零羌については降っては背き降っては背きとまるで結果が出なかった。降れば下賜があるため降るが貰うものを貰えばまた離れるのである。
桓帝はついに段熲に諮問した。「これまで皇甫規や張換に強兵を与えて任せていたが定めきれないようだ。君を東に移して対策させたとしたらどうだ。」
段熲は東羌平定のための戦略、作戦要綱を説明し、それに必要な戦力とかかるコスト―――五十四億銭もの巨額な戦費を試算して見せた上で、かかる巨額のコストは東羌平定に必要なもので、それを行わず都度都度小出しに叩くのが一番コストがかかる。後は陛下の決断あるのみと答え、桓帝はそれを裁可した。裁可した桓帝はその結果を見ることなくその年の十二月丁丑、德陽前殿に於いて崩御する。年は三十六。桓帝の裁可は臨朝することとなった竇太后によって引き継がれた。
こうして建寧元年(168年)春正月、護羌校尉段熲が先零羌の前に姿を現す。以後丸二年に亘り続く先零羌討滅戦の始まりである。先零羌からすれば今までと違うガチガチの背いた異種は全て滅ぼす必ず滅ぼす決して絶対に生かさないという狂気の総司令官の赴任である。戦いは百八十戦にも及んだ。先零羌は段熲の狂気に摺り潰される。
建寧二年(169年)秋七月、度重なる戦功で破羌将軍に位を上げていた段熲は射虎谷に集まった先零羌を大会戦で打ち砕く。逃走が上手くいかぬよう敵方の逃走経路に丁寧にも事前に障害を伏設した上での会戦であった。そしてその将官級の渠帥の首万九千級を斬り捨て、敵の兵站源ともいえる牛馬から生活物資の尽くを鹵獲した上で、なおも殲滅追討を続け首を斬り続けた。こうして別に派遣されていた謁者の馮禪らの所に降伏して逃げ込んだ四千人を除き、先零羌勢力は滅びた。東羌は悉く平げられたのである。
その段熲が太尉、漢の治安と軍事の最高権力者に今、就いている。
本当にこの男が段公の親戚ならこれが段熲に知れれば終わりである。今この男を始末したところで行方不明の親戚を段熲は必ず探すだろう。それが太尉となった段熲からの請託とあらば段熲の覚えを求めてあらゆる官吏が痕跡を求めるだろう。どこで消息を絶ったかなど直ぐに判明する。そうなればその一帯は虱潰しである。「たっぷりとしたお礼」は逃れられぬ呪いとして身に降りかかる。
「お前段公の親戚だというが嘘ではないだろうな。どういう繋がりだ?」
氐人の強盗団の頭が割と流暢な漢語で話したところで勝率がどうなっているかさえ分からない賭けが勝率の見える賭けに変わった。襲われた時は片言の漢語を話す強盗団だった。段熲を持ち出すのは分の分からない賭けでしかなかった。相手は漢に服属して軍役を受けたことがある。そして段熲に畏怖している。これが段熲に怨み骨髄であるなら既に自分の命はなかった。賭けは成立した。
「拙者は賈詡、字は文和。簡単に言うと段公の外孫でござる。」
そう賈詡が自己紹介すると氐人は事細かに段熲廻りの様々なことを問い質してきた。やはりこの氐人たちは漢軍に従ったことがあるのだ。それも段熲が率いていた軍かその直接の部下の所に居たことがある。そうでなければ得られない情報を元にした質問が続いた。嘘だと見れば即座に殺す積りなのだろう。しかし賈詡は答えられるところには答え、分からないところは「拙者には分からんでござる」で通した。ただ、概ねの質問には答えられた。何せ賈詡は本当に段熲の親族とつながりがあり、彼らから細かい話を聞いていたから。
詮議は終わった。賈詡は解放されることになった。解放に先立ち、賈詡はもう一人の解放を求めた。氐人にはそちらは「外」でない方の孫で、万一を考えて自分が盾として交渉にあたったのだと言うと氐人は賈詡の求めたもう一人も連れてきた。
『じゃあな』
「この厚情には感謝でござる。さらばでござる」
賈詡はもう一人を促し、足早にその場を立ち去る。本当は汧県の県城を目指したいが、そちらに行かれては困るのだろう、氐人は県城方向の行先を塞ぐかのように並んでいた。このまま西方へ向かうしかない。足を進め続け、氐人の姿と気配が消えたあたりでもう一人が話しかけてきた。
「くーさん、一体どうやってあの強盗を説き伏せた?凄い交渉だな」
「段公の外孫だと言い張ったら解放してくれたでござる。それより外従弟殿、彼らの気が変わるのが怖い。急いで次の里へ辿り着いて助けを求めるでござる。」
「その呼び方、俺たち二人しかいないのにわざわざする意味ある?」
「癖をつけておかないとうっかりやらかすのが、拙者は怖いのでござる。」
商人たちは殺されるだろう。彼らが欲しい物資を持っているからだ。しかしこの道程に同行した仲間は出来れば救いたい。間に合うかどうかは今日中に助けを―――漢軍を呼べるかどうかにかかっている。今日中に里に辿り着き事態を訴え里から急使を遣わして部隊を整えて貰い、当日中にこちらに派遣して貰う―――ほぼほぼ無理な望みである。不可能と言っていい。絶望的である。しかし足掻かねば仲間に申し訳ない。二人はこのまま汧水沿いの道を北西に進み、蒲谷郷を目指すことにした。先ずは蒲谷郷に入って身の安全を確保して、近くで一番大きな拠点、略陽へ急使を遣わして其処から部隊を派遣して貰う。
半刻ほど経った頃だろうか。
前方から少々賑やかな気配がして来た。そして間もなく軍としか言いようのない部隊が姿を現した。これが賈詡文和と董卓仲穎の出会いとなった。できるだけ何もせずに上手い飯を食いたい賈詡と、養った分はきっちり働いて貰いたい養い主の、出会いである。
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