理想1

「このごろ不審者が出るとか言う話ですから気をつけてくださいね」


 その日の帰りのホームルームでそんなふうに言ったのは、私達の担任、愛さんの言うところのこの学校で一番美人の先生である十二月三十一日理想だ。ひづめりそうと読む。……私の周りこんなのが多いな。おっとりした感じでだれにでも優しく、男女問わず人気がある。


「会長さんは生徒会の仕事があるのであとで生徒会室に来てくださいね」


 先生は生徒会の顧問で会長は私だ。面倒だ。




「これ私がやらなきゃいけない仕事なんですか」


 私に待っていたのは、なんだかよくわからない印刷物を重ねて端をステープラー(大きい)で綴じていく作業だ。誰でもできる作業なのに、私達の他には誰もいない。


「二人でお話がしたかったんですよ」


 先生は言った。


「今度はいったい何のようです」


 こういったことは初めてではなかった。聞かされるのは大抵の場合他の人に向かってはできないような話、つまり性的嗜好や犯罪の話だ。私はそういうのを誰かに言うような質じゃなかった。倫理観をぶっちぎったような彼女の話はかなり面白かったけれど、私は全く興味なく聞き流しているような態度を見せた。それでも彼女はそれなりに満足だったようだ。


 しかし今回は少しばかり違った。


「愛ちゃんに会ったんですか」


「なんで知っているんです?」


「勇気ちゃんに聞いたからです」


「あれと仲いいんですか」


 一緒にいる姿が想像できないなあと一瞬思ったが実際はすぐ映像が浮かんだ。見た目はかけ離れているけど中身は似たようなものだ。


「それなりに、ですねー。高校の頃は家にもよく行っていたので」


 そうか、姉と付き合っていたならたしかに接点もできるだろう。


「ところで何でいきなりそんな話をするんですか」


「聞きたいことがあるんです」


「へえ何ですか?」


「愛ちゃん、私のことなにか言ってましたか」


 なるほど、そういう話か。


「ええと、よろしく言っておいてって言うのと、あと今でも好きだ、と」


「へぇー、ちょっとドキッとしてしまいました」


「……そうですか」


「もう一度つきあっちゃいましょうか」


 何言ってるんだこいつは。


「えっと、ご自由に。今あの人何股してるか知りませんけど」


「私そういうの気にしませんから」


「え、じゃあなんで別れたんですか」


「どういう意味ですか? あの人、あの頃他に付き合ってる人いたんですか?」


 藪蛇だったようだ。


「少なくとも二股してましたよ」


 さすがに当時の担任と、というのは黙っておいたほうがいい気がした。その人今もこの学校にいるらしいし。


「へえ、そうですか。それはまあ別にいいんですけど」


 いいのか。本当に気にしないのか。


「私が愛ちゃんと別れたのは、飽きちゃったからです。私が、あの人に」


 なんだか愛さんが可哀想に感じて、いやそうでもないか。


「それなのにまた付き合うんですか」


「飽きたらまた捨てますけど」


 理解できないタイプの人間だ。


「ああ、あなたと付き合ってみるっていう選択肢もありますね」


「こっちにはありませんよ」


 飽きたら捨てられると分かっていても付き合う人は、どれほどいるのだろうか。きっと愛さんだけだ。冷静で理屈っぽいのに、素直で惚れっぽいというのは哀れだ。


 それにしても最近モテモテだな私。これっぽっちも嬉しくないけれど。


「今度愛ちゃんをお見舞いに行きましょうか。お見舞いの品物は何がいいでしょう? 使用済みのパンツとかでいいのでしょうか」


 私はその戯言を軽く受け流す。本気なのか冗談なのか全く判断できなかった。けれどまあ、本当に持って行ったら結構喜ばれる気もする。


 


 十二月三十一日理想は異常だ。前から分かっていたことだけど。善か悪か、危険か安全か。正しいか誤っているか、そんなことは全く無視して、楽しさだけを追求する狂人だ。その上変態だから救いようがない。彼女が優しい先生をやっているのは、結局のところ気まぐれにすぎない。非日常の箸休めとしての日常。そしてその日常の箸休めとしての私、というわけだ。


 彼女が好き勝手振る舞えるのは、彼女が特別な才能や持っているからでも高い地位にあるからでもなく、ただ単に幸運であるからだ。窃盗、強盗、詐欺、誘拐、強制わいせつ、覚醒剤取締法違反、放火、こういった罪を犯しながら、事情聴取すらされないのはこの幸運によるものだ。私は彼女が犯罪者であることにはすぐに納得したが、捕まらない理由についてはどうにも納得できなかった。そう言った翌日に彼女は一億円の当たりくじを持ってきた。信用するなら私にくれるというので、信用することにした。この狂人が捕まらない理由が、幸運だろうとそうでなかろうと私には実際どうでもいいのだ。


 いや、一つだけ問題があった。彼女の離すエピソードの中にはどう考えても酷い目に合っているようにしか思えないものがいくつもあって、そのことについて聞くと、楽しかったからいいんですと答えられたが、それってポジティブなマゾヒストなだけなんじゃ、と突っ込みたかったが、理想先生が幸運であるという説を信じるといった手前言えなかった、ということだ。よく考えたらこれもこれでどうでもいい話である。


 彼女は自分のために世界があるのだとよく言っている。そうではないことを知っている私だが、それを笑い飛ばすことはできない。そうではないのに、そうであるように見える、というのが、実際にそうであるということ以上に何か意味があるような気がしているからだ。




「あー、死にたいですね」


 それは彼女の口から聞くのは初めての言葉だった。ちょっとだけ驚く。


「え、な、なんでです?」


「それはこの世が退屈だからです」


「少なくともあなたが言う台詞じゃないと思いますよ」


 彼女が語っていた武勇伝は退屈なものには思えなかった。今までこの人の話し相手になっていたのはそれが理由の一つでもある。


「そうですね、今までは退屈ではありませんでした。この世のあらゆることを味わい尽くしたのだから当然です。でもこれからは、ということを考えるとなんというか、これ以上どうにもなりようがないでしょう」


「二十年と少しで人生の何もかもを経験できるものなんですか」


「さあ、でも、それ以上の理由として老いたくないっていうのもあります」


 彼女の発言はどうにも納得がいかない。彼女は年を取ることを恐れているようだけれど、それはつまり、年老いてからしか経験できないことがあるということを認めているようなものだ。私はそういうようなことを言った。


「そうですね。しかし、さすがに私でも死ぬことができるのは一度きりかもしれません。となると、若いうちに死んでおきたいと思うのです。老いてからの死に様なんて、みっともなくて、それなのに周りが勝手に感動的に飾り立てるのです。そんなのは御免です。死の演出は自分でします」


 死ぬのは一度きりと断定しないのはこの人らしいのかもしれない。


「でも先生まだまだお若いじゃないですか」


「老いたと感じた時にはすでに老いています。それでは遅いのです」


 そういうものなのだろうか。


「若くてピチピチな私には分からないですね」


「あんまりそういう事言ってますと殺しますよ」


 そう言ってにっこりと笑う。彼女はよくそんなことを言っていたが、実際の殺人のエピソードは聞いたことがなかった。


「不老の方法でも調べてみたらどうです? 校長先生に聞いてみるとか」


 この学校の校長は見た目はかなり若々しい。実年齢は不詳。実際にはそんなに年をとっているわけではないのかもしれないが。


「あの人、何歳なんですか」


 と、そこまで言って思い至る。高校時代、愛さんが付き合っていたもう一人はおそらくは校長で、つまり理想先生にとっては、恋人の浮気相手だった人物だ。いや愛さんにとってはどちらも本気だったのかもしれないけれど、それは相手にはどうでもいいことだろう。明らかな地雷を踏んでしまった。


 と思ったけれど、先生の反応は普通だ。当たり前だ。二股していたことも知らなかったんだからその相手も知るわけがない。


「さあ、五十は超えていると思うのですけれど。私達の担任だった頃は自称四十代でしたが、愛ちゃんは鯖読んでいるって言っていましたから。見た目の年齢は二十代前半で、肌の艶や弾力は子どもと変わらないのですから、まあわからないのも当然でしょう」


「なんでそんなことまで観察しているんです」


「そりゃもうベッドの上で……」


「聞きたくない!」


 不発弾の地雷の代わりに別の地雷が爆発した。そこもつながってるのかよ。


「反応は割と初々しくて中学生のようでした」


 聞きたくないって言ってるだろ! しかし、なんだろう、ますます愛さんが可哀想になってくる。二股したのは、そりゃ悪かったんだろうけど……。


 しかし近頃は一途な恋心なんてものは流行らないのだろうか。みんな気軽にセックスし過ぎだと思うのだけれど。




 作業が終わって、校舎から出る。


校門の前で愛さんを見つけた時、笑ってしまったのはきっと私のせいではない。


 ナンパをして振られるという行為のみっともなさと、その心根の誠実さと、その見た目の微笑ましさの組み合わせはなかなかに面白い。


 ナンパされているのが現実なので、さすがに止めないわけにもいかない。


「何しているんですか」


「見ての通りさ。ナンパだよ。振られてしまったけどね」


「えっと、その、すみません」


 まあ、それは当たり前のことなんだろうけど、意外といえば意外だ。現実が一人で何かを断れる人間だとは思っていなかった。


「付き合ってみればいいじゃん。第一印象よりはきっといい人だと思うよ」


 私のその言葉は愛さんに少しは報われて欲しいという気持ちを込めた軽口だったけれど現実は酷くショックを受けたようで、目に涙を浮かべる。


「え、あの、それは」


「好きな人がいるんだそうだ」


 それは初耳だった。でも詳細は聞かない。


「君って結構冷たいよね」


 いまさらだ。


「えーっと、今日はいったい何のようです」


 わざわざナンパしにここに来たとは最初から思っていない。


「そうだね、退院の報告と、あとは不審者に気をつけろって話かな」


「わざわざ言わなきゃいけないことですか」


 不審者にしても、よく聞くような、顔を隠した挙動不審な人物だという話だった。具体的に被害が出たとは聞かない。


「ペットが最近行方不明になってるって話、聞いたことない?」


「そういえば確かに、何か張り紙を見た気が。でも、二、三件くらいじゃないですか」


「死骸は十体分以上あったそうだ。今日の朝見つかったらしい。ペットの他に、野良や野生の動物も混じっていたそうだ」


「確かにそれは、怖いですね。それでもそんなに切羽詰まった話とも思えないんですが」


 小動物を殺す人間はエスカレートして人間を殺すようになるというが、限られた例であるように思える。


「まあ、他にもいろいろな情報があるんだよ」


 愛さんは言葉を濁す。


「とりあえず一人では帰らないようにすること、これは守ってほしい」


「分かりましたよ。ありがとうございます」


 彼女が何を隠してるにせよ、信じることのデメリットを感じないのならば、信じればいい。それが自分以外の誰のどんな利害につながるにせよ。


「それじゃあ、僕はこれで」


 愛さんはそう言って去っていく。これだけわざわざを伝えに来たのだろうか。それならば余程重要な情報なのだろう。


 その時携帯電話が鳴った。見たことのない番号だ。


「はい、どちら様でしょうか」


「俺だよ俺」


「詐欺ですか」


「俺だっつってんだろ」


 最初から分かっていたけど、この声は多分勇気だ。


「何のようだ」


「姉貴見なかったか?」


「さっきまで話してたが」


「捕まえてきてくんねえ?」


「なぜ」


「病院から抜けだしたんだよ」


「退院したんじゃなかったのか?」


「三九度の高熱だぜ?」


「……そうは見えなかったけどな」


「でも、そうなんだって。あいつは他人のことを暴くのと同じくらい自分のことを隠すのが得意なんだ」


「……分かった。追いかけてみる」


 愛さんの向かった方向に走ったけれど、思った通り彼女は見つからなかった。校門の方に戻りながら会話を続ける。


「いないな」


「……そうか、分かった。もういい。ま、用事が終わったらおとなしく戻ってくるだろう」


「それなら別に捕まえる必要もないんじゃないか」


「別に姉貴の身を心配しているわけじゃねーよ。知りたいのは病院を抜けだしてまでどんな用事があるのかってことだ」


「ああ、それなら私に、だと思う」


「何だって?」


「私に警告しに来たんだ。不審者に気をつけろって」


「……その話が終わってから姉貴はどこに向かってったんだ?」


「校門を出て左、だから北の方かな」


「病院とは逆方向だろ」


「あ、そうか」


「どの公共交通機関を使うにせよ、料金、時間、歩く距離、どれをとっても得がないぞ」


「何かのカモフラージュってことは」


「何をカモフラージュするんだよ。行き先をか。すぐに病院に戻ってくるなら必要ないだろ。何にしても別に用事があるってことじゃねーか」


「……」


「自分のためじゃなくて残念か?」


「そんなこと思いもしなかったけど」


「お前なんかついでなんだよ、ついで」


「妙に辛辣だな」


 なぜだろう、と思う前に理由に気がつく。これは嫉妬だ。そう分かってしまえば、罵詈雑言にもむしろ親しみがわく。


「うるせーな死ねよ。お前みたいな自分のことを愛されて当然なんて思ってる奴が嫌いなんだよ」


「そんなことは思ってない」


「そういうところがますます嫌いだ。はーあ、美人はいいよなあ」


「お前も十分美人だろう」


「十分てところが上から目線ですげーむかつく」


 さすがに言いがかりだ。


「お前みたいなのが美人はいいよなあなんて言ってるほうがよっぽど世間一般の人はむかつくと思うが」


「世間一般の人って誰だよ。お前がどう思っているかだろ」


「私はお前より美人だからむかつかない」


「この女……」


 まあその話はこの辺にしておこう。


「どうしても見つけたほうがいいのか?」


「まあ、できることならな」


「心当たりはあるか?」


「あるっちゃある。学校だよ」


「学校?」


 校門の中には入って来なかったが。


「元恋人二人だよ」


「何をしに?」


「まあ、お前にしたような警告をしてるんじゃねえかな、やっぱり」


「そういえば、あの警告は何だったんだ?」


「知らねえよ。俺はなんにも言われなかったからな」


「そうか」


「心配されてねえんだよ俺は」


「信頼されているんじゃないのか?」


「さあね。まあそういうわけだから、あの二人のところ見てきてくれねえか」


「なんか嫌だな。別れた恋人同士の会話なんて聞きたくない」


「まあ、それは俺も嫌だな。無理しなくてもいいぞ」


「まあ行くけどさ」


「よろしく頼むわ。ま、てきとーでいいからさ」


 そう言って電話が切られた。


「誰からの電話だったの?」


「うわ、まだいたのか」


 現実だ。すっかり忘れていた。


「うん、いたよ」


「……えっとあの、電話は言語道断勇気からで」


「あの、不良の人?」


 現実の中では勇気は未だに不良の人だ。


「ああ、その不良の人」


「だ、大丈夫なの?」


「基本的には悪いやつじゃない。多分」


 良いやつでもない。多分。


「どういう電話だったの」


「お姉さんを探して欲しいっていう。ほら、さっき現実をナンパしていた人だよ」


「え? あの人がいなくなっちゃったの?」


「どうもそうらしい」


「わ、私も探すの手伝おうか?」


「現実が自分から行動するなんて珍しい。惚れたの?」


「そ、そうじゃないけど、いや、誰かに告白されたのなんて初めてだったから、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ嬉しかったけど」


「そっか、まあ申し出はありがたいけど、別に切羽詰まってるわけではないし、手がかりも少ないから、私も何箇所か見て回るだけだ。手伝いはいらないよ」


 それに、現実に修羅場を見せるわけにもいくまい。


「えっと、じゃあ、私ここで待ってるね」


「そうか、一人で帰らないように言ってたもんな。ごめん、待たせることになっちゃって」


「大丈夫、待ってる。えと、話したいこともあるし」


「好きな人のこと?」


 現実は少し戸惑ったように目を泳がせ、それから顔を赤くして頷く。


「じゃあ、待ってて、さっさと探してきちゃうから」


 好きな人、か。そういう話をするのはちょっとだけ気が重かった。




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