勇気1
「あのね、さっきあなたの妹が、不良の人に連れて行かれるのを見たんだけど……」
その日の昼休み、そう教えてくれたのは私の友達の六月一日うりはり現実うつつだった。私には友達がたくさんいたが彼女には私しか友達がいなかった。それ故に心優しいということになっている私は彼女とつるむ場面が増えていた。普段はそれがあまり嬉しいことではなかったが、この時ばかりは彼女に感謝した。
「どこに向かったの」
「玄関の方。多分外だと思う」
「不良の人って具体的には誰だったか分かる?」
「ええと、あの髪が白くて背が高い人」
「ありがとう」
私は弁当の空き箱をしまい、玄関に向かう。靴を履き外に出る。さてどこに行ったものだろうか。まずはこういう時にはお約束の校舎裏。いなかった。
六月一日のいう不良の人というのはまず間違いなく言語道断のことだ。言語道断と書いててくらだと読む。その奇怪な苗字と、外見的特徴、そして気が狂ったとしか思えないような行動のせいで非常に有名だった。あまり関わり合いになりたくない人物ではあったが、生徒会長という立場上、この大変な問題児を無視できず、結果的に彼女については色々と知ることになってしまった。妹と同じクラスで、授業態度が悪いが、頭が悪い訳ではないと先生たちは言っていた。確か水泳部だった。中学の頃自由形なのにバタフライで全国へ行ったとかいう話はなかなか有名だった。
とんでもない人物だったが、いつももっととんでもない人物と一緒にいる私にとってはおどろくべきことではなかった。しかしそういう人間のことはどうにも好きになれないことが多かった。
とりあえず水泳部の部室に向かうことにした。プールのすぐとなりにそれはあった。
女子更衣室の扉を開けると塩素の匂いが鼻をついた。プール授業の期間はすでに終わっていたが、水泳部は未だにプールを使っているらしかった。
薄暗い更衣室、ロッカーが立ち並ぶ中に一人の女子が立っている。白く短い髪、黒い肌。瞳は赤く、目尻は無気力そう垂れている。背は高く二メートルに届きそう。いや、猫背だから背筋を伸ばせば確実に超えているだろう。ついでに胸も大きかった。その横に誰か倒れている。それが妹だった。見える部分に怪我はない。さすがにそこまで馬鹿ではないらしかった。
「何をしているんだ」
私が言う。
「そりゃこっちの台詞だよ。生徒会長がこんなところに何のようだ? あ、予算増額してくれるってんなら大歓迎だぜ。最近厳しいからなあ」
その女子生徒が軽口をたたく。間違いない。言語道断だ。下の名前はたしか勇気とか言ったはずだ。
「私の妹に何をしている、と聞いたんだ」
私がもう一度言うと、言語道断はため息をついて応える。
「冗談の通じねえ人だ。何をしているかだって? 別に大したことじゃねえ。ちょっと頼み事があるだけさ、あんたの妹にな」
「頼み事……?」
その言葉に私は途轍もない不安を覚える。
「なあ、会長さんよ、なんでこいつはなんにもしねえんだ? なんでもできるはずなのに」
「何を言っているんだ、お前は」
とぼけてみたもののそれはきっと無駄だった。こいつはほぼ間違いなく知っている。
「なんでもってのは間違いだったか? 何か条件が必要だったか? それとも金がほしいのか? いくら出せば願い事を聞いてくれる?」
「……なんでお前がそんなことを知っている」
「いや、むしろなんでお前が知らねえんだ? 俺がそれを知ってるってことを。子供の頃はよく遊んだじゃねえか」
…………そうだ、思い出した。小学校低学年の頃、今とは違って、なんでもできる妹のことが自慢で、友だちと一緒にたわいない願い事をして遊んでいた。高学年に上がってから、そのまずさに気づいて、皆の記憶からそのことを消し去ったはずだった。ただ、その前に転校して行ってしまった彼女のことをその時私はすっかり失念してしまっていた。「てくらだ」。読みだけでも珍しい苗字ではあったが、その頃の漢字を知らない私達にとっては特別に記憶に残るものでもなかった。
「薄情なもんだな、俺の家にもよく来てたってのに」
「そうだったな。だけど、あの頃とは何もかも違ってしまっている」
あの頃は私も、こいつも、今よりずっと無邪気で可愛かったはずだ。こいつの髪も目も、まだ黒かった。どうしてこんなことになっている? 妹の淀んだ目だけがその頃と変わらない。
「十年近くも経てばそりゃ変わるさ。俺の心も体も。姉貴の容態も」
「姉貴?」
そうだ、そういえばたしかに彼女には姉がいたはずだ。彼女の家に行った時に何度か会った覚えがある。その頃は中学生で、私達に対しても優しかったが、病弱でよく寝込んでいた。それにしても不穏な言葉だ。容態なんて。
「お姉さんがどうかしたのか? ご病気でもなさっているのか?」
「ご病気、ご病気ねえ……。いや、違うさ。さっき、ご病気ではなくなったよ」
彼女は妙な言い回しをした。
「……? どういう意味だ?」
「死んだってこと」
「なっ、そんな……」
あまりにもあっさりと吐き出された言葉に、さすがに私も驚いた。
「こんなところでこんなことをしている場合じゃないだろう!」
「している場合さ。こいつなら死人でも蘇らせる事ができるんだろう?」
そう言ってつま先で妹の頭を小突く。それだけで、一瞬血液が沸騰しそうになるが、何とか抑える。
「それは……」
もちろん可能だった。だが、それはしてはいけないことだった。その理由を挙げることはいくらでもできるが、しかし彼女が納得するとも思えない。その理由は社会や、あるいは世界などというものにとっては極めて重要なものだが、切羽詰まった一人の人間に対しては何の意味も持たないものだからだ。いや、そもそもそんなことは承知している可能性もあった。
「姉貴が入院している時、こいつに何度も頼んだよ。姉貴の病気を治してくれ、何とかして助けてやってくれって。だがこいつは聞き届けるどころか、何の反応も示さなかった」
「なんで私には相談しなかった? 私なら妹に言うことを聞かせられる」
「じゃあ、もしお前に相談してたらそれをしてくれたのか? こいつに、俺の姉貴を治すように言ってくれたのか?」
私は首を横に振る。
「でも何か他の方法を考えられたかもしれない」
「そういうところが嫌いなんだよ。手段があるくせに勿体つける」
「そういう訳じゃない。だが誰もが自分の願いを好き勝手に叶えてしまったら世界が立ち行かなくなる」
「正論だねえ。全くもって正論だ。だがそれを自分の願いを好き勝手に叶えて来た側の人間が言うんだから説得力なんてまるでない」
そう言われると胸が痛い。
「それは、昔の話だろう」
「確かにそうかもしれない。だがな、どんな決意をしたところで、願いをなんでも叶えられる力があるんなら、いずれそれを使っちまう時が来るさ。お前は人間なんだからな」
それを完全に否定することは私にはできなかった。両親や、親しい友達が危機に陥った時のことを考えると、絶対にそれを使わないと言えるほど私の心は強くはなかった。
「……済まない」
私には謝ることしかできなかった。
「謝る必要はねえよ。誰だってそんなもんさ。……なあ、俺はそんなお前らのためについさっき実に画期的な仕組みを考えついたんだ」
「何?」
「お前らが自分たちのために力を使った分だけ、他の人達のために力を使ってやるんだ。そうすれば無制限に力を使う事にはならないし、お前らの自分たちだけが特権的な力を持っているってことと、そのくせその力で助けられる人を助けないってことに対する罪悪感も少しは減るだろうよ」
その提案は一理あるように見えて、結局のところ、世界に対する問題に関しては何の解決にもならないものだ。しかし、その提案は私の心を慰められるという点で、実に魅力的なものであった。それでも私はそれに同意することはできなかった。
「……それはできない。誰にだって叶えたい願いはある。その中から選んで願いを叶えるのは、不公平だし、傲慢だ」
「変なところで真面目なやつだねえ。誰だって取捨選択をしているし、されている」
取捨選択は悪ではない。たしかにその通りだ。だがその対象が人間になった場合はどうだ? 捨てられる方の人間のきもちは。私は何も答えられない。
「……少し待ってくれ」
何とか絞り出したのはそれだけの言葉だった。
「……まあいいさ、今度願いを叶えるときにまで考えておいてくれ」
「そうそう来ないだろう、そんな機会は」
「いやすぐに来るさ。今すぐに」
言語道断はつぶやくとしゃがみこんで横で寝ている私の妹に向かって手を振り下ろした。その手には銀の光が見えた。
私は言語道断をおもいっきり蹴りつけた。その頬に私のつま先が当たり、彼女はロッカーにぶつかった。金属の扉が凹む。彼女の手から血で汚れた刃がこぼれ落ちた。言語道断はすぐに体勢を立て直し、私に向かってくる。彼女は拳を握り、振りかぶる。私は防御のために顔の前まで腕を上げた。しかし何時まで経っても殴られる衝撃と痛みはなく、その代わりに生ぬるい液体が私の腕にかかる。驚いてうでを下げると目の前の光景がよく見える。そこには言語道断の顔はなく、代わりに血の噴水があった。言語道断の体もまもなく崩れ落ちて一足先に床とご対面していた彼女の頭にぶつかった。言語道断は確認するまでもなく死んでいて、そしてそれは間違いなく妹の仕業だ。
「なんで殺した!」
私は妹に向かって叫んだ。妹は心臓のある辺りから血を流しながら立ち上がり答える。
「お姉ちゃんが殴られそうだったから」
自分が殺されたことに対しては何も思っていないらしかった。そのくせ私に危害が加えられそうになった途端、すぐにその力を行使する。いくらでも取り返しがつくという意識のせいか、その行動はときに苛烈だ。
「くそっ、とりあえず生き返れ。そして、こいつの死体を消せ。私たちが今日こいつと一緒にいたという記録と記憶を私以外の皆から消せ。その他の細かいことは後で考える!」
私たちは水泳部の部室から出て何事もなかったかのように校舎に戻り、午後の授業を受け、そして放課後家に帰った。
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