「お話しするのは、娘のことからになります」

 ユメはうなずき、ペンを構えた。


「娘は、さくらといいます。二十一歳の大学生です。半年前に、交際していた男と別れました。二十五歳の男で、名前は矢崎やざき裕矢ゆうや。SNSで知り合い、最初のうちは普通に付き合っていたようですが……」

 美絵子の声がわずかに低くなる。

「次第に束縛が強くなり、感情の起伏も激しくなっていきました。娘が口答えすれば、手を上げるようにもなって……。それでも、娘はしばらく黙っていたようです。でも、数ヶ月で限界がきて、別れを切り出しました。矢崎は応じようとせず、『別れたらお前の人生を壊す』と脅してきました」

 ユメは黙って話に耳を傾けながら、ペンを動かしていた。

 視線の端で、美絵子の様子を拾っていく。こみ上げる感情を押しとどめるように、肩が微かに揺れていた。

「矢崎は大学にも現れるようになり、娘は休学しました。家に閉じこもって、外に出るのも怖がっていたんです。警察には通報しました。対応もしてくれました。注意も入りました。もう、あの男の影は消えたと……」

 言いかけた声が一度詰まり、すぐに言い直すように続ける。


「そう、思っていたんです。娘は大学に戻って、また少しずつ友人と出かけるようになりました。花火大会に誘われて、浴衣まで着て……。顔を伏せた写真を、SNSに載せたそうです。それを矢崎が見ていたなんて、私は、まったく気づけませんでした」

 ユメは手元のメモに目を落とし、書き留めた文字の流れを追いながら、耳を傾ける。インクが紙にしみこみ、あとが重なっていく。

「その日、夫が『駅まで送る』と言いました。たぶん、何かを感じていたんでしょう。娘を乗せて、マンションの駐車場から出ようとしたときでした」

 美絵子は息を吸う。

「矢崎が現れ、娘に刃物を向けました。夫がとっさにかばい、代わりに刺されました。矢崎はすぐに逃げましたが、近くで警察に取り押さえられました。けれど、夫はそのまま……病院で亡くなりました」

 ユメの手が止まった。喉がひくりと動きかけるのを感じ、呼吸を整え直す。

 カウンターの向かいで、美絵子がこちらを見ていた。表情に大きな揺れはなかったが、目には強く押しとどめた何かが宿っていた。

「……あの子、自分のせいだと思ってるんです。あの日、浴衣を着て、花火に行こうとしたことが、すべて間違いだったって。それだけじゃない。矢崎と関わったことも含めて、全部、自分が悪かったと。父親を死なせて、世間に晒したって、そう思い込んで。部屋に閉じこもったまま、ずっと出てこないんです」

 ユメは思わず目を伏せた。今、美絵子の目を正面から受け止めることができなかった。

「取材も来ました。近所にも、職場にも……。マスコミやユーチューバーたちが……どうしてあんなに無神経でいられるんでしょうね」


 ふいに、美絵子の鋭い視線が向けられたことに気づく。

「……あなた、ニュース、見ていないんですね。知らないんですか?」

「……はい」

「どうして何も知らないのに、ここに座っていられるんですか。人の顔も見ないで、無関心なんですか。それで死に携わる仕事ができるんですか?」

 責める口調だったが、美絵子の声には揺れがあった。彼女が追いつめられていることは、経験の浅いユメにも伝わってきた。

 ユメは目をそらさずに、美絵子の視線を受け止める。

「こうして蜂須賀さんから直接お話を伺えたことの方が、どんな報道よりも大切だと思っています。丁寧に語ってくださって、ありがとうございます」

 そう言いながら、ユメは引き出しから依頼者用のルールブックを取り出した。


 美絵子の視線が睨むような強さを帯びたまま、小冊子へと移る。手に取った指が背表紙に触れ、ぺらりとめくったページを順に追っていく。

「これが、死因変換の交渉を行うにあたっての決まりです」

 返事はなかった。張りつめた空気がそのまま残る中、美絵子は最後のページまで目を通した。

「応じます。すぐに夫と会わせてください」

「死因の内容は、どう変えたいとお考えですか?」

「交通事故にしてください」

 迷いのない声に、ユメの手がわずかに止まりかけた。その動きを察したように、美絵子が目を細め、問いかけてきた。


「その前に、一つ確認させてください」

「はい……」

「もし死因が変わったら、あの男――矢崎はどうなりますか? 娘の命を奪おうとしたことも、夫を殺したことも、なかったことになるんですか? その結果、何の罪にも問われずに野放しになる可能性があるなら、それは……変換なんて呼んじゃいけない」

 ユメはとっさに、自分専用のルールブックを開いた。依頼者に見せてはならないと定められている冊子だ。

「何を見ているんですか?」

 美絵子が身を乗り出しかけたため、ユメはカウンターの奥へ体を引いた。

「これは……お見せできません。変換師専用の資料です」

「そう。ずいぶん立派なものを持ってるのね」

 皮肉を含んだ声が落ちたが、ユメは反応せず、『変換後の関係者』という項目に目を落とす。
そこに記された条文を確認し、呼吸を整えて答えた。


「亡くなられた方が、加害を受けて命を落とされた場合――その加害者が一方的に行動したものであり、被害者側に非がなかったと判断されるとき、加害者は、変換後の世界においても、その被害者や関係者に一切接触できなくなります」

「つまり、娘は、あの男にもう会わずに済む。そう断言できますか?」

「はい。加害者は、さくらさんに二度と接近することはできません」

「それで? その男は、結局どうなるんです?」

 ユメはページをめくった。

「現在受けている罰が帳消しになるわけではありません。変換後の世界でも、それに見合う結果が与えられます。ただ、その影響が他の誰かに及ぶことはありません。たとえば、さくらさんの代わりに別の人が被害を受ける、といったことは起きません。そうならないように、調になっています」

 ユメは短く間を置いて、付け加えた。

「そのため、加害者には事故や病など、制御できない形で代償が与えられることが多いです。命を落とす場合もありますし、生涯にわたる制限を背負うこともあります」

「それじゃあ、さくらを救えて、矢崎は捌けるじゃない」

 美絵子が初めて笑みを見せた。

 けれど、その理解だけで完結するほど、この仕組みは単純ではなかった。


「……補足があります」

 ユメはそう言って、自分用のルールブックに指を添えた。

「加害者の罪がまだ正式に確定していない場合、変換後の世界で与えられる罰や代償には、慎重な判断が求められます」

 一枚めくったページに目を落としながら、説明を続ける。

「過去には、指示を出していた人間が裁かれず、実行した者だけが責任を問われた例や、複数の人物が関与していたのに、ひとりだけが処罰された例も記録されています。そうした状態で誤った相手に罰を与えれば、それ自体が新たな加害となります。だから原則としては、罪が明確になったあと、あるいは未確定でも今後確実に裁かれると判断された場合にのみ、変換を進めることが望ましいとされています」

 対面に漂っていた気配が変化する。美絵子の目に力が宿り、口元に緊張が走った。

「まるで教科書を読んでいるみたいね。あなた、自分の口で言ってることの意味、ちゃんと理解してる?」

「……はい」

「じゃあ、なぜ即答できないの。指示役? そんなの矢崎自身じゃない。さくらを襲おうとしたのは、紛れもないあいつ自身の意志よ。欲望に駆られて、罪のない人ひとりを殺した。そこに他人の影なんてないでしょ?」

「その可能性が高いことは、私も理解しています」

「は? 高いも何も、答えは決まってるはずよ。なのに、どうしてためらうの?」

 美絵子は一拍置いてから問いかけてきた。


「あなたにも、ご両親がいるでしょう? 家族の誰かが、同じ目に遭ったらって考えたことは?」

「……ご依頼とは関係ありません」

「関係あるわよ。たとえば、あなたのお母さんが見知らぬ男に執着されて、お父さんがそれをかばって命を落とした。でも、その男の罪がまだ確定していないからって、死因を変えられない。残されたお母さんは追い詰められていって、だんだん自分を壊していく。最後には、。そんな状況になっても、あなたは黙っていられるの?」

 そのとき、視界がにじみかけた。鋭い痛みが内側を貫いたようで、呼吸が浅くなる。声が出なかった。

「……何してるの。仕事でしょ」

「すみません……」

「謝る必要はないわ。わかったなら早く進めて」

 返事をしても、体が動かなかった。
ユメは肩をすぼめるようにして視線を落とす。じっとこらえても、気持ちが溢れていく感覚が止まらなかった。


 そのとき、扉の開く音がわずかに届く。

「お客さん、もう少し優しくしてくれないかね。こっちはちゃんと仕事をしてる。あんまり無理を言うと、最近じゃカスハラって言われるよ」

 おだやかな声が広がり、オババがゆっくり入ってきた。カウンターの内側へまわり、ユメの肩に手を置く。

「ユメ、今日はもう上がりな。あとはアタシが引き受けるから」

 その声にうなずいて、ユメは立ち上がった。オババが席につくと、美絵子の態度もわずかに落ち着きを見せる。
 

 ユメは何も言わずに頭を下げ、足音を立てずにその場を離れた。

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