死は生の中に


 四月の雨は、決まって優しかった。 


 細い粒が、街を濡らし、音もなく屋根に落ちる。その音は、どこか懐かしく、誰かの囁きにも似ていた。


 俺は今日、彼女の部屋を片付けていた。


 もう一ヶ月が経ったのに、部屋の中は彼女が最後に出かけたままの姿で残されている。ハンガーには春物のコートが掛けられ、机の上には開いたままのノート。ペンのインクはまだ乾いていないかのようで、すぐにでも彼女が帰ってきて続きを書き出すような錯覚に陥る。


 「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」


 ふと目にしたノートの一文。彼女が好きだった小説の一節だ。たしか――村上春樹のやつだ。彼女は俺よりずっと読書家で、俺が理解しきれないような言葉を簡単に口にした。


 その一文の横には、彼女の字でこう書かれていた。


 「それなら、私は安心して死ねる。」


 その文字を見て、俺は一瞬、呼吸を止めた。


 ……そうだ。あの時、気づくべきだった。彼女の「死にたい」は「生きたい」と同じくらい切実だったのだ。


 「なんで、そんなに静かなんだよ」


 誰もいない部屋に向かって、思わず声が漏れた。返事はない。代わりに雨が窓を叩いた。



---


 彼女が自ら命を絶ったあの日、俺は電車の中にいた。あの時、電話に出ていれば。いや、もっと前に気づいていれば。


 「死ぬなんて、思ってなかったんだよな」


 葬式で、彼女の母親が言った言葉が耳から離れない。きっと誰も、彼女がそこまで追い詰められていたとは思わなかったんだ。


 けれど俺は、あのノートを見て、ようやく理解した。


 彼女は死を憎んでいたわけじゃない。むしろ、それすら受け入れようとしていた。生の続きに、死があるならば、そこに希望だってあると、そう信じたかったんじゃないか。



---


 部屋の本棚には、びっしりと本が詰まっている。その一冊一冊に、彼女の指紋と時間が刻まれている気がした。


 何気なく引き抜いた本の中に、手紙が挟まっていた。


 俺宛の封筒。開ける手が震える。



---


 「あなたがこれを読んでいる頃、私はもうここにはいません。」


 予想していた文面だったはずなのに、胸が痛かった。


 「私は弱い人間です。でも、あなたと出会えたこと、愛したことは、私の中で最も強い記憶です。」


 文字は滲んでいた。多分、それは彼女が書いたときに泣いたせいだろう。あるいは、俺の涙かもしれない。


 「“死は生の一部”なら、私はあなたの中で、生き続けられるでしょうか。」


 問いかけるように、彼女は最後の一行を書いていた。


 俺は、ゆっくりと目を閉じた。


 彼女の声が、ふと、頭の中に響いた。


 「ねえ、もし私がいなくなったら、どうする?」


 「いなくなるわけないだろ」


 あのときの会話。冗談だと思っていた。でも、きっと彼女は本気だったのかもしれない。



---


 ノートも、手紙も、本も、全部、箱に詰めた。捨てるつもりはない。彼女の“生”の証だから。


 死は、生の一部として存在している。


 ならば俺は、その一部を背負って、生きていこう。


 生きることで、彼女を忘れない。


 それが、今の俺にできる、唯一の償いだった。


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