第九章 叫びの共鳴────────
(1)
部屋の壁が、脈打つ心臓のように震えた。内側から響く不気味な軋みが、瑠璃の耳奥を這う。
壁の表面に、目に見えない波紋が広がり、そこに無数の顔が浮かび上がっては消える。毬子の絶望に歪んだ表情や、紅葉の虚ろな目だけ、靖人と瑤の苦痛に満ちた顔が、びっしりと壁を支配する。
それらすべての顔が、瑠璃の部屋を取り囲むように、壁から浮き出し、彼女を凝視する。
目。目。目。目。
見ている。みている。みている。
視線が部屋全体を交差し、その中心に瑠璃はいる。視線が彼女の心を突き刺し、ぐちゃぐちゃに壊してゆく。
それぞれの顔から放たれる視線が、針のように鋭い。
凍てつくような冷気が、閉じられた部屋のどこからか吹き込み、肌を粟立たせる。
ただの空気の動きとは思えないほど、悪意的に彼女を縛り上げてゆく。
かちかちかち、とはの音が合わずに震える。息が白く凍り、彼女にふきつけてくる。
死体の匂いや、何かが腐敗したような匂いが混ざり合い、瑠璃の鼻腔を容赦なく襲う。
動けない。
何もなしに固定されたように部屋の中央で固まっている。視線が上下左右天地関係なく貼りめぐされる。彼女の部屋だけが孤立したような感覚がする。
息をしようとしても喉奥で、乾いた空気が詰まる。声にならない悲鳴が、喉の途中で渦巻いた。
全身の毛穴が開き、冷たい汗が噴き出す。たらりと額を伝い、さらに寒気が襲う。
脳髄の奥が、氷の刃物で深く抉られるように痛い。痛い。痛い。
頭蓋骨の内側にくい込み、ぐりぐりと回される。痛くて顔を歪めるが、痛みは無情に増大してゆく。
肩を、冷たい指が這う。
ふーっと息が吹き掛けられ、背後に気配を感じる。今にも触れそうな近さで、瑠璃の後ろに立っている。振り向けない。振り向きたくもない。
視界の端が、歪み始める。まるで、古びたレンズを通したように、部屋の輪郭が不安定に揺らめき、色彩は濁った水彩画のように滲んでいった。
叫び声が部屋を満たす。一瞬自分が叫んだのかと思ったが、喉にまくができたように声は出ない。どこからか、出処も分からず、今も叫びが支配している。自分も叫びたいのに声が出ず、恐怖は密封されている。
外では別世界のように鳴り響いていた都市の雑踏の音も、一瞬にして消えていた。
遠くで響くサイレンの音も、車のクラクションも、すべてがその叫び声の前には息を潜める。
まるで水深深く潜った際に感じる水圧のように、音の圧が瑠璃の全身を押し潰そうとしている。
空気を震わせるだけでなく、脳までプルプルと波打っている。
叫び声は、一度だけでなく、何度も、何度も、途切れることなく響き渡る。そのたびに、瑠璃の部屋の壁は激しく震え、そこに浮かぶ顔の表情は、より一層苦痛に満ちたものへ変わってゆく。顔の口元が大きく開かれ、声なき悲鳴が瑠璃に迫ってくる。壁が、いまにも崩れ落ちそうなほどに軋んでいる。
みし、みし、と言う音だけは叫びの中でも鮮明だ。
壁のひび割れが、さらに深く、大きく広がり、その向こうから黒い闇が覗いているような錯覚に陥った。部屋全体の温度がさらに、急速に低下してゆくのが肌で感じられる。
瑠璃の心臓が、耳元で激しく脈打ち、全身を縮み上がらせる。ドクン、ドクンと、不規則なリズムで鼓動が全身に響き渡る。
鼓動も、部屋が軋む音も、叫び声と重なり合い、やがて一つに溶け合った。
体毛が逆立ち、鳥肌が立つ。皮膚の下で、無数の針がチクチクと突き刺さるような感覚がする。胃が捻れ、吐き気がこみ上げる。
喉が張り裂けるような衝動に駆られ、叫び声をあげそうになる。だが、声は喉の奥で詰まり、空気の抜けるような低い音が漏れてくる。
理性の鎖が、一本また一本と、無情に断ち切られてゆく音が聞こえたような気がする。
瑠璃の意識もとうとう耐えられず、少しづつ薄れてゆく。視界が歪み、部屋の輪郭が曖昧になる。壁に浮かぶ顔の数が増え、その全てが口を開き、犇めきあっている。
口の中でも何かが蠢き、吐き気が込上げる。部屋そのものが、巨大な口を開けて、瑠璃を飲み込もうとしているかのように感じる。
壁自体が、醜い顔のように歪み、嘲笑っている。床板の軋みが、やがて呻きに変わる。
日毬の嗤い声がどこからか聞こえてくる。
壁に浮かぶひまりの顔が立体感をまし、すーっと浮かび上がった。
ひた、ひた、ひた、ひた
じりじりと瑠璃の方に忍び寄ってくる。震えは来るが身動ぎすら出来ない。日毬の声が、すべての叫び声を支配し、不気味な音響を奏で始める。不協和音でありながら、妙な調和を保ち、耳を劈くような大音声で響いている。まるで、千匹の蛇が絡み合い、彼女の思考を縛り上げてゆくように、蠢きながら縛り付ける。
感覚はすでに彼女の支配下にない。
全身の筋肉が痙攣し、口元から泡がこぼれる。意識の断片が、脳内で散乱し、かき集めることができない。彼女の視界は、もはや色を失い、白と黒のモノクロームの世界が広がる。過去の記憶が、走馬灯のように脳裏を駆け巡るが、それらもまた、色褪せた写真のように、すぐに消え失せる。
楽しかった思い出も、取り戻せない幸せも、すべてが砂のように指の間からこぼれ落ちていった。
部屋の壁に浮かぶ顔が、いまや日毬の顔一色に染まる。無数の日毬の顔が、瑠璃を見下ろし、冷酷な笑みを浮かべている。
日毬の嘲笑が、叫び声の共鳴に紛れて、瑠璃の意識の奥深くへと染み渡る。もはや、瑠璃に逃れる術はないのだろう。身体は地面に縫い付けられ、精神は日毬が埋めつくしている。
瑠璃の心は、日毬が作り出した絶望の波に飲み込まれ、深い闇の中へと引きずり込まれてゆく。彼女は、もはや自らの意思で抗うこともできなかった。ただ、その絶望の中で、日毬の笑い声が、永遠に響き渡るだけであった。
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