(6)

瑠璃の意識は、深い水底から浮上する泡の如く、現実へ戻ってくる。瞼の裏に張り付く薄暗い色彩は、やがてぼんやりとした線を描き、見慣れた天井へ変わった。呼吸は浅く、胸の奥底に鉛の塊が沈んでいるようだ。身体を起こそうにも、全身を支配する倦怠感が意思を阻む。

自分が薄い膜一枚隔てた向こうにいるような奇妙な隔絶感が、家に帰ってから続いている。

けれども、その感覚は、例えば、雨が降る窓の向こうを眺める時のような物理的な距離感ではなく、精神の内側に生じた隔たりのように感じる。まるで、彼女自身の意識と肉体が、別々の場所に存在しているかのような、得体の知れない乖離感だ。指先一本動かすのにも、途方もない集中力が必要に思えた。

病院にいた時は、悪夢を見るだけで調子が良かったのに────。

そんなことを考えていると、病院の白いシーツの上で見た悪夢が、不意に脳裏をよぎる。


夢の中で見た、無表情な毬子の顔が忘れようとも忘れられず、瞼の裏に張り付いている。

覚えがあるのに、思い出せない少女の影が、脳裏にちらついている。それらが混ざり合い、ふたたび歪んだ像を結び、瑠璃の心を深い混沌へ誘う。

瞬く間の出来事であったようにおもう。

たがとても長く、終わるとは思えなかった。

病院での記憶も、少女の存在も、意識の表面に浮き上がると、すぐに水面に広がった波紋のように、曖昧な残像を残し消えて行く。まるで使い古されたフィルムのように、鮮明さを失い、ぼやけている。病院の冷たい空気も、消毒液の匂いも、白い天井も、全てその古ぼけた口径の中に閉じ込められていた。

確かなのは、自分がいま、惨劇のあった道路にほど近いマンションにいるという事実だけだ。疲れきった身体をどうにか起こし、瑠璃はぼんやりと部屋を見渡す。散乱した仕事の資料、読みかけの専門書、飲みかけのコーヒーカップ────すべて、数ヶ月前から放置され、全く以前と変わらない。

置き忘れたはずのない場所に、戸棚の奥にしまい込んでいたような小物が置かれている。

開け放っていた窓が、閉じられている。

まちがいさがしにあるような、些細で目立たないが決定的な異物感が、部屋全体に薄くかかっている。

部屋の隅々まで染み渡り、異質な感覚がする。自分の部屋なのか、疑問が湧いてくる。

酷似した他人の部屋ではないかと慌てて部屋番号を確かめるが、確実に自分の部屋だ。


しばらく状況がつかめず、廊下に立ち尽くしていた。ふと、隣に住んでいた靖人のことを思い出す。

一年ほど前はよく話していて、最後に話した日に、「床の染みが」としきりに呟き床を見渡していた。その次の日に靖人は暴れるようになる。

住人の悪評が立たず、管理人室や靖人の部屋の前には人だかりが出来ていた。

夜になっても管理人室からは怒号が聞こえてくる。眠れない日々を過ごしていたが、住民の悪評から一ヶ月ほどだった時、ぱたりと怒号は止み、元とは違う軋んだ静けさが訪れた。

それでいいと思っていた。

だが、今は────。

なぜか不安でピリピリとした張りつめたような静寂が恐ろしく感じる。

そういえば、康人はどこに行ったのだろうか。瑠璃には検討もつかない。

毬子もあれでは助かっているはずがない。紛れもなく死んでいた。あれ以来住人同士の中がよりいっそう希薄になった。まりこが表面上気づきあげていた関係も崩れさっているだろう。

足元に染みが迫ってきているような感覚がして、ふと床を見下ろす。

月辺りまで見渡しても、染みはなく、古ぼけたろうかが広がるだけであった。


それでも張りつめた空気のなかにいるのも辛く、部屋に引き返す。半ば逃げるように部屋に飛び込むと、ドアの前でしばらく立ち尽くしていた。

薄暗い部屋の片隅で、白い影が揺らめく。振り返ると、少女が立っている。水色のワンピースが、淀んだ空気の中で鮮やかに浮かび上がる。白い肌に、感情を読み取れない虚ろな眼差しが痛いほどに瑠璃に刺さる。

彼女はいつの間にか、音ひとつ立てず瑠璃の真横に立っている。目の前に彼女の顔が大きく現れた。

意図せず不意に、喉が上下する。

ゴクリという音が、虚しく部屋に響いている。狭いはずの部屋が、空虚で広く感じた。


まるで壁にはられた絵画のように、ぴたりと静止して動かない。呼吸をしているかすらも定かではない。僅かに震えたり、肩が上下したりもしない。

姿を見ているだけで何度も息を飲んだ。

見ていられなくなり、気づけば目を閉じていた。



瑠璃の記憶の片隅に、彼女の姿が徐々に気づかないほどの速度で忍び寄ってくる。

目を閉じても、やはりそこに日毬はいる。

いつからいたのだろうか。

漠然とした問いかけが、遠くから聞こえる残響のように、空気をふるわせた。

だが、記憶を辿るうちに疑問はすぐに消え、少女の存在は、最初からそこにあった自然なものとして、瑠璃の意識に定着する。

なぜ記憶をたどっていたのかと思うほど、日毬という存在が自分の記憶に最初から組み込まれたかのように────。

しかし、空気のような存在、という言葉は当てはまらない。確かに存在をジリジリと瑠璃に示し、日常への影響が莫大だ。


例えば、新しい家具が部屋に置かれた時、最初は違和感があるはずだ。だが、数日がたてばそれが当たり前の風景となる。

けれど、その家具があることで生活は変わる。


日毬のことも、そんな事を思わせるほど無意識に受容してしまう。


彼女がなぜここにいるのか。

いつから共に暮らしているのか。

そもそも、彼女は誰なのか。

そのような根源的な問いは、瑠璃の脳裏にもはや一切浮かばない。彼女の思考は、その違和感を深掘りすることなく、いるという事実を、無感情に受け入れていた。

疲労が、思考を深く許さないだけなのだろうか。思考そのものが、日毬の存在に深く侵食されているのかもしれない。思考の奥に、薄い霧が立ち込めているような感覚がする。

日毬は傍らで言葉を発しない。ただ、じっと瑠璃を睨んでいる。その無表情な視線は、吸い込むような深い闇を湛え、瑠璃の心に波紋を起こさない。

恐怖、嫌悪、親愛、何もかもが、彼女の意識から遠く隔たった。ただ、無機質な視線が、瑠璃自身の存在を、徐々に希薄にする感覚が、体の奥底に常に沈んでいる。

自分の輪郭が曖昧になり、溶け出してゆくようだ。自分の身体が、少しずつ乗取られるような気がする。

部屋の空気は、以前にも増して重く、澱みきっている。窓の外からは、都市の喧騒が遠く聞こえるが、防音壁の向こう側から響く雑音のようにあまりに微かで思考に侵食することは無い。

瑠璃にはもはや届かないのだ。

彼女の世界は、この部屋の中、日毬との二人きりの空間に、徐々に閉じ込められてゆく。外部とのあらゆる繋がりが、見えない糸で寸断された。スマートフォンは充電が切れたまま、メールの通知も途絶え、社会との接点は失われていた。

数分が経ったか。あるいは、数時間か。

時間の感覚も、家に帰ってからさらに日毬の存在に歪められた。

仕事机は数ヶ月前の状態のまま、放置されている。ここ最近、仕事という概念がなかった。

ふと、日毬の顔を見ながら過去のことを思い出す。


瑠璃は、重い身体を引きずるようにして、仕事の資料が散乱する机へ向かう。パソコンの電源を入れ、薄暗い画面に顔を向けていた。日課のごとく仕事を始めようと、無感情にキーボードを叩き始める。指の動きは鈍く、思考はまとまらない。しかし、手を動かすという行為だけは、彼女の中に残された最後の本能のように機能していた。

その間も、日毬は、部屋の隅に立ったまま、あるいは、いつの間にか瑠璃のすぐ後ろに立ち、その様子をじっと視ている。

視線が毒のように瑠璃の心の隅々にまで浸透する。そして、急速に瑠璃の思考を麻痺させ、感情を削ぎ落としてゆく。

いつしか、仕事もしなくなった。

あの時も、日毬はいたのか。

先程忘れた思考の並に、再び押し流される。日毬はいつからいたのだろう。問うても問うても分からない。

瑠璃の意識から、日毬の存在は、再び曖昧なものへと変わる。そこに「いる」事実は確かだが、その「意味」を深く考えることはなくなった。いや、もう考えることはできないのかもしれない。

彼女の心は、すでに、仕事の数字とデータ以外の全てを拒絶し、感情が削ぎ落とされてゆくように変容している。かつて彼女を駆り立てた仕事への情熱も、人間関係への希求も、もはや彼女の中には存在しない。ただ、無機音もなく、瑠璃は変容してゆくが、泰人の時とは違い、誰にも気づかれない。

日毬はもう、復讐に情熱を抱けない。死を見せつけるという計画が狂ってしまった。

彼女が死んでも、誰にも恐怖を与えられない。


日毬の絶望と、瑠璃の絶望が絡み合い部屋を雁字搦めにおおっていた。

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