紫。
@violet_0824
終わりの始まり。
例えばあの時、生まれていなければ。
例えばあの時、母親に反抗していなければ。
例えばあの時、もっと素直になれていたなら。
例えばあの時、あの人と出会わなければ。
例えばあの時、もっと心が強かったなら。
これはあの時ああしてたら、こうしてれば、と思わずにはいられない、たらればばっかりの弱くて狡い私の沢山の後悔と選択の話。
遺書のようなもの。
私が生まれたのは関東ではあるけど片田舎で、周りには山と川と田んぼしかない。
スーパーまでは徒歩で20分、駅までは徒歩で1時間近くかかるようなそんな住みづらい土地だった。
幼少期の遊び場は専ら川か公園、少し成長すると数駅先のショッピングモール。
5つ年上の姉は夜中に抜け出して原付に乗って色んな所に行っていたみたいだけれど、小学生の私にはその小さい町の中が全てだった。
物心着く前に父親は出て行っていて、私の家族は祖父と祖母と母と姉で構成されてた。
ギャンブル好きで借金もして、小さい私を疲れているからと投げ飛ばす、家から追い出されたどうしようもない父親。
「あんたは幼いうちに捨てられて可哀想に」
それが祖母の口癖だった。
子育ては洗脳だと、呪いだと、心から思う。
仕事で忙しい母に代わって面倒を見てくれていた祖母から、毎日毎日繰り返される『可哀想』という言葉で少なくとも私は自分は捨てられた可哀想な子なのだと、周りの子達とは違うのだと、そう思ってしまった。
「息の仕方が分からない」
幼い私は姉にそう言ったという。
昔から病んだ子供だったと姉は笑う。
祖母のその言葉は大人になった今でも、私に呪いのように絡みついている。
小学校高学年の時、祖父母と住んだ家を出る事になった。
理由は祖父母と母の不仲。
そこから母と姉と3人の暮らしが始まった。
母は典型的な男に依存するタイプで、当時いた彼氏が頻繁に家に遊びに来ていたけど私は理由の分からない嫌悪感から仲良く出来なかった。
今考えてみれば単純で、大人の男の人に慣れていなかったからというのと母の女の一面を見たくなかったからなのかもしれないなと思う。
その男とは長くは続かなかった。
理由は分からないけど、夜中に泣いている母の声とそれを慰める姉の声を何度も聞いた。
次の彼氏は何故か初めから嫌悪感がなかった。
母より10近く歳下で父というより兄という方が近かったからかもしれない。
けれど、母との喧嘩は前の男の時よりも多かった。
幾度となく泣いている母を見たし、大抵喧嘩をした後はお酒を飲む量が増えていた。
けれど、結局少し時間が経つと元通りになっていて、その内にあぁまたかくらいにしか思わなくなる。
母は先述の通り依存型だったので、私と姉の長期休みの時は1週間近く都内に住む彼氏の家に行ってしまって不在の時もあった。
姉はそれをいいことにワルイお友達と夜中まで遊んでそのままうちで騒いでいたりした。
私はというと、母に渡されたお金でご飯を買って食べてテレビを見たりゲームをしたり割と好きに過ごしていた。
慣れてくる一方、でもどこか寂しいその気持ちを今でも覚えている。
そんな小学校時代を過ごし、中学からは母親の再婚に合わせ都内に引っ越すことになった。
別に嫌ではなかったし、新生活に割と乗り気だったと思う。
中学では0からのスタートで、最後まであまり馴染めはしなかったけど未だに年1で必ず会う大事な友達もできた。
問題は高校からだ。
その頃ヴィジュアル系バンドにハマっていた私は、それ繋がりで出来た友達のミカちゃんの影響で歌舞伎町に入り浸るようになる。
ミカちゃんは1つ歳上で、私はその子の事が大好きだった。
「○○ちゃんといる時が1番楽だし1番楽しい!」
そう言って可愛く笑うミカちゃんに私はきっと依存していたんだと思う。
年齢を偽っていつも一緒に行っていたバーも別にハマりはしなかった。
ただ、ミカちゃんと居られるのが、お酒を飲むのが大人になれた気がして楽しかった。
反抗期真っ只中だった私はほぼ家に帰らなくなった。
ミカちゃんの家か、適当な男の家。
家に帰りたくなくて、泊めてもらうために好きじゃない男ともヤった。
東横キッズなんて言葉その頃はまだなかったけど今考えると私達と同じだなあなんて思う。
男と付き合っては別れてを繰り返していた。
毎回依存して捨てられるの繰り返し。
どんどん何かが擦り減っていくのを感じてた。
そうこうしてるうちに依存先が男に変わった事でミカちゃんとも徐々に疎遠になった。
母とは変わらず喧嘩してばかりだったけど、奔放だった姉が私を心配して帰って来てくれるようになったから大人しく私も家に帰るようになった。
お互いがお互いを必要としていたから。
でも、しばらくして姉が就職で家を出てから私の心の平穏は無くなった。
変わらず母とは言い合いばかりだったし、義父とも思春期のせいか折り合いがどんどん悪くなる。
寂しさから姉と同じ煙草を吸い始め、その時働いていたメイドカフェの子の影響で始めてしまったリストカットを幾度となく繰り返す。
痛みは生きてる実感を感じられたし、段々と痛みさえ感じなくなっていった。
ほぼ癖のようなものになっていたんだと思う。
それと並行してどんどん増えていくピアス。
市販薬オーバードーズも数えきれないくらいした。
電車で30分程かかるバイト先を出た瞬間に1瓶全てを飲みこんでから帰ると家に着く頃にはふわふわとして余計な事を考えずに家にいられた。
問題は数時間後。
猛烈な吐き気が襲ってくる。
吐いても吐いても薬の味しかしない。
それでも、薬が抜け切れていない状態でも学校にだけは無理矢理行っていた。
行きの自転車は相当危険だったと思う。
何度もフェンスにぶつかったり転んだりした。
事故を起こしていても不思議ではなかった。
学校に着いたら着いたで寝ているだけ。
そこまでしてでも親に不審がられないように必死だった。
でも、ずっとずっと、苦しい事に気づいて欲しかった。
矛盾してるよね。
高校3年生の時、今までで1番好きだと思える人に出会った。
働いていたメイドカフェのお客さん。
10歳年上の人だった。
私が一目惚れをして半年かけて付き合ってもらった。
片思いを含めて付き合っていた期間も、人生で1番幸せな恋愛だったと思う。
10年近く経った今でも思う。
彼のおかげで将来のことをきちんと考えられたし、進学することを決めることも出来た。
でも私が、『私なんか』『本当は好きじゃないんでしょ』そんな言葉を繰り返している内に相手が疲れてしまった。
今だったらその気持ちが分かる。
『年齢的な付き合うことへの考え方の違い、結婚ということを考えた時に難しいと思った。○○の為にも私なんかって言わない方がいい。』
これが振られた時に言われた言葉だった。
年齢なんて最初から分かってたでしょ?全部言い訳じゃん。
当時はそう思っていたし、振られたその日知らない女の子と歩いてるのに遭遇してしまった時はもう立ち直れないと思った。
それでも、励ましてくれた友達と姉のお陰でなんとか生き長らえられたんだ。
生きている今だから言える、この人と付き合えて私は良かった。
卒業間近の時、義父にリストカットがバレた。
すぐに母にも伝えられて、『みっともない』『何が不満なの』『死にたいの』そんな言葉ばかり投げかけられた。
絶望、としか言いようがなかった。
心配もされないのか、と。
義父が止めに入るくらいだった。
「じゃあ辛いって言ったら助けてくれた?心配してくれた?関心なくて気づきもしなかったんだからほっといてよ。」
私はそれしか言えない。
それが全てだったから。
2年近く気づきもしなかった癖に今更騒がないで欲しかった。
そこからは何も言われることはなかった。
どこか腫れ物に触るように接されるようにはなったけど。
私はこの傷を恥じたことは1度もないよ。
世間からどう見られようと、私が生きようとした証だから。
その後専門学校に行かせてもらって、熱中するものが出来たことでリストカットは自然としなくなった。
資格を取りまくってなりたかった職にもつけた。
頑張りが認められた気がして嬉しかった。
でも、それが終わりの始まりだったなんて全く気づかなかったんだ。
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