第五章:炎と金槌と、王の首輪(後)

後編:魔法の首輪と王の誓い


工房の隅へと歩み寄り、複雑に絡み合った匂いを嗅ぎ分ける。埃の乾いた匂い、金属の冷たい香り、そして作業台に染み付いた古い油の匂い。鼻腔を刺激する鉄錆の味が舌先に残る。木製の床板は足裏に心地よく温かく、長年の使用で滑らかに磨かれていた。片隅に折り重なった羽織物の上で、猫は身体を丸めていた。


石造りの壁に取り付けられた小さな窓から、夜空の星々がほのかに見え隠れしている。鍛冶屋街の一角にあるこの小さな工房は、外見こそ質素だが、内部は豊かな道具と素材で溢れていた。壁には様々な鉄具や金槌が整然と並び、作業台には宝石や金属の切れ端が散りばめられている。炉の熱気が頬を撫で、時折弾ける火花が空気を焦がす匂いを運んでくる。


カンカン、カンカン——


心地よいリズムを刻む金槌の音。金属が金属を打つ、澄んだ響き。

その音色に誘われるように、猫は身体を伸ばした。

木の床を静かに歩み、ドワーフの足元に近づく。


炉の炎が揺らめき、ドワーフの頑強な横顔を赤く照らしていた。その瞳には、何かを作り出す深い喜びがきらめいている。汗ばんだ額に火の粉が舞い散り、それでも彼の集中は途切れない。


「ふふん……見ておれよ」


ドワーフは分厚い革のエプロンをつけた胸元に手を入れると、小さな袋を取り出した。袋の口を開き、一つの宝石を慎重に作業台の上に置く。その瞬間、工房の空気が変わった。


深い青色のサファイア。


夜空を映したような濃紺の色合い。光を受けると、その内側から青い炎が燃え上がるかのように輝いていた。猫の瞳と同じ深みを持つ青色は、小さな海を閉じ込めたよう。サファイアの表面は丁寧に磨き上げられ、八面体のカットが施されている。一つ一つの面が、炉の火を反射して煌めきを放つ。そして何より——宝石の奥深くで揺らめく光は、まるで猫の額に輝く星の模様と呼応するかのように、同じリズムで瞬いていた。


「こいつはな、特別な石じゃ」


ドワーフは粗い指先でサファイアを優しく撫でながら語りかけた。冷たい宝石の表面が、彼の体温を吸い取っていく。


「遠い北の山で採れた、魔法の加護が宿る石。星の導きを受けし者を守る、そんな言い伝えがあるんじゃ」


猫の瞳孔が広がった。サファイアの中に何かを見るかのように、じっと観察する。額の星が微かに温かくなったような気がした。


ドワーフは作業台の引き出しから銀の薄い板を取り出した。慎重に加工し始める様子に、猫は興味津々で前足を作業台に乗せた。冷たい金属の感触が肉球に伝わる。


「危ないぞ。少し下がっておれ」


ハンマーの音が静かに響く中、太い指先が信じられないほど繊細な動きで銀を打ち、曲げ、形を整えていく。金属が叩かれるたびに、甲高い音色が工房に響き渡る。やがて、猫の首に合わせた丸い輪が姿を現した。


作業に没頭するドワーフの表情が、ふと和らいだ。


「昔な……」


ドワーフは作業の手を休めることなく、懐かしそうな表情で話し始めた。


「わしにも、相棒がおったんじゃ」


銀の輪を熱し、柔らかくなったところに繊細な模様を刻んでいく。


「小さな猫でな。毛色はお主とは違ったが……よくこの工房で昼寝をしておった。お主と同じように、堂々としておってな」


渦巻く雲や、星々のような点々が、銀の表面に浮かび上がった。一つ一つの星が、まるで夜空の星座を写し取ったかのよう。


「あの子はな……最期まで誇り高かった。王のように、な」


ドワーフの声が少し震えた。しかし手の動きは止まらない。


「お主を見ていると、あの子を思い出すわい。同じ気品、同じ輝き……まるで生まれながらの王じゃ」


懐かしそうに語るドワーフの横顔を、猫はじっと見つめていた。長い白髭と深いしわが刻まれた表情には、長い年月を生きてきた証が宿る。瞳の奥には、どこか寂しげな思い出の影が揺れていたが、同時に温かな愛情も込められていた。


猫は静かに観察を続けた。ドワーフの手の動きには、物語があるように思えた。一つ一つの動作に、失った相棒への想いが込められている。


時が流れ、炉の火がより一層明るく燃え上がる頃、首輪は形を成していった。ドワーフは最後の仕上げとして、銀の輪の中央に小さな台座を作り、そこにサファイアを丁寧にはめ込んだ。宝石が銀に触れる、かすかな金属音。


カチリ、と微かな音がした。


細い銀の爪が宝石をしっかりと抱き留める。その瞬間、青い光が工房内に広がった。サファイアから放たれる光は、まるで月光のように柔らかく、同時に星の輝きのように鋭かった。


「ほれ、できたぞ」


ドワーフが掲げた首輪は、単なる装飾品とは思えないほどの威厳を放っていた。銀は月光のように柔らかく光り、表面に刻まれた模様は波のように流れるよう。星座を模した彫刻が、まるで生きているかのように煌めいている。中央に鎮座するサファイアは、まるで生命を宿したかのように、内側から青い光を発していた。


猫は首を傾げ、その美しさに目を奪われる。これは確かに、王にふさわしい品だった。


「まだ終わりではないぞ」


ドワーフは首輪を裏返し、内側に小さな彫刻刀で慎重に何かを刻み始めた。刀先が銀を削る、細やかな音が響く。


「魔法の加護付きじゃ。王たる者に必要な、三つの力を込める」


彼は一つ目のルーン文字を刻む。繊細な線が銀の表面に浮かび上がった。


「傷を癒し、苦痛を和らげる力——」


二つ目のルーンが続く。より複雑な形状で、見る者の心を落ち着かせるような曲線を描いている。


「帰るべき場所を忘れぬよう、道を示す力——」


最後のルーンに取りかかりながら、声を低くして続けた。


「そして何より、危険から身を守る、守護の力——」


三つのルーン文字が揃うと、それぞれが微かに光を放った。温かな金色の光が、サファイアの青い輝きと調和している。


「『癒し』、『帰還』、『守護』——」


ドワーフは満足げに首輪を見つめた。


「実はな……これは王様に献上するつもりで作り始めたんじゃ。しかし」


彼は猫を見つめ、微笑んだ。


「本当の王は、ここにおったようじゃな」


猫は、首輪をじっと見つめ続けた。その美しさと力に、本能が呼び覚まされたかのよう。胸の奥で、何かが共鳴している。


ドワーフはゆっくりと猫に近づき、そっと首輪を手に取った。


「許してくれるかの? 真の王よ」


彼は敬意を込めて問いかけ、猫の首に首輪を近づけた。


猫は一瞬身構えたが、ドワーフの真摯な眼差しに心を開き、首を差し出した。銀の輪が毛皮に触れる。ひんやりとした金属の感触が、次第に体温で温まっていく。サファイアが胸元で輝き始める。


首輪が猫の首にぴったりと収まると、心地よい温もりが全身に広がった。刻まれたルーン文字が一瞬光り、まるで猫の魂と繋がったかのような感覚を覚える。額の星の模様も、呼応するように温かく輝いた。


「……完璧じゃ」


ドワーフは満足げに頷いた。


「まさしく、真の王の誕生じゃな」


『当然だ』


猫は誇らしげに背筋を伸ばした。この瞬間、より一層王らしさを感じていた。首輪の重みは心地よく、サファイアの冷たさが胸元に清涼感を与えている。そして何より、三つのルーンから流れる力が、身体の奥深くで脈動しているのを感じた。


猫はドワーフの言葉の意味を完全には理解していなかった。しかし、この贈り物の価値と愛情は、魂の奥底で感じ取っていた。


お礼の気持ちを表すように——


猫はゆっくりとドワーフの足元に近づき、分厚い革のブーツにスリスリと頬を擦りつけた。粗い革の質感が頬に伝わる。そして膝に飛び乗り、粗い手に頭をこすりつける。


「おお……?」


ドワーフは少し驚きながらも、その大きな手で猫の背を優しく撫でた。ごつごつした指先が、毛皮を通して優しさを伝えてくる。


「これは、これは……こちらこそ、ありがたいのう」


猫は喉を鳴らし、このぶっきらぼうだが心優しい職人への感謝を示した。二人は静かな交流を楽しんだ。工房に響くのは、炉の燃える音と、猫の満足げな喉音だけ。


やがて、猫は立ち上がった。旅を続ける時間だ。新たな力を得た今、さらなる高みが待っている。


「また、いつでも来るとええ」


ドワーフは最後に猫の頭を撫で、そっと床に下ろした。


「わしは、ここで待っておるからな。真の王よ」


工房の重い扉を押し開けると、夜の鍛冶屋街が広がっていた。石畳に響く自分の足音が、なぜかより威厳に満ちて聞こえる。遠くからは金槌の音が響き、石畳は星明かりに銀色に輝いている。夜気は頬に冷たく当たったが、胸元のサファイアが不思議な温もりを放ち、猫を包み込んでいた。まるで小さな太陽を身に着けているかのよう。


遠くには市場の明かりがほのかに見える。夜風には焼きたてのパンの香りが漂い、猫の空腹を誘った。しかし今は別の目的地があるのだ。より高い場所、より広い世界が待っている。


猫は自分の首に輝くサファイアの首輪を誇らしく思いながら、ゆっくりと石畳の路地を歩き出した。足音一つ一つに、新たな自信が込められている。


サファイアが星明かりを受けて青く輝き、その光は前方の道を照らす。まるで道しるべのように、まるで王の進むべき道を示すように。首輪に刻まれた星座の模様も、夜空の星々と呼応するかのように瞬いている。


闇の中、青く光る首輪は、小さな星が地上を歩いているかのよう。辺りの猫たちも、その威厳ある姿を一目見ようと、路地の影から顔を覗かせている。


「あれは…」

「王様だ…」

「本当の王が現れた…」


囁き声が夜風に乗って流れる。それは畏敬の念に満ちた声だった。


こうして王様気取りの猫は、真の王への第一歩を踏み出し、またひとつの大切な出会いを胸に秘めた。鍛冶の煙と火花の先へと、堂々とした足取りで歩み出す。次なる"高み"を目指して——その歩みは、もはや迷いなく確信に満ちていた。

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