第四章:夜を裂く気配

夜を裂く気配


食堂の裏路地。月明かりが石畳を薄く照らし、夜風がスパイスと煙の残り香を運んでくる。昼間の喧騒が嘘のような静寂の中、猫は音もなく歩を進めていた。星印の毛並みが月光に浮かび上がり、その姿は夜の闇に溶け込みながらも存在感を放っていた。


『満腹、よし。昼寝もよし。さて、次は——』


石畳の隙間には昼の熱気がわずかに残り、どこかに人の気配が漂う。遠くで誰かが酒をあおる声、食器の触れ合う音も、今はもう消え失せていた。


夜の街は、まるで別世界。闇がすべてを包み込み、猫の瞳だけが鋭く光る。静寂の中に微かに漂う"獲物"の気配。肉の焼ける香りとともに、カサリ、と小さな音が路地裏から響いた。


高い屋根の上。猫は月を背に、王者のごとく座していた。眼下には石畳の通りが続き、路地の奥には鉄桶の影が夜の深さを物語っている。


『……あれは——』


瞳が鋭く細められる。


瞬間、猫の筋肉が一斉に緊張し、地を蹴った。月明かりを切り裂くその動きは、夜風さえも二つに分ける鋭さで、時の流れが止まったかのような静寂の中で、猫の体は完璧な弧を描いた。影と光の境界線を滑るように舞い、地面に音もなく着地する。


耳が鋭く立ち上がる。カサ——カサカサ——ガタン。鉄桶がわずかに揺れ、赤く濁った目をしたネズミが桶の下から顔を覗かせた。普通のネズミよりも一回り大きく、毛並みは汚れ、明らかに病気を患っている。


『下賤のネズミ風情が……我が領地で暴れるとは』


猫は身を低くし、影に溶け込む。石畳の冷たさが肉球を通して体中に広がり、夜風が毛並みを撫でる根元から毛先まで、すべての神経が集中し始めた。四肢に宿る力は、狩りの本能を宿した野生の記憶。尻尾が静かに左右に揺れ、瞳が獲物を射抜く。


ネズミは猫の殺気を察知し、小刻みに震え始めた。鼻先を震わせ、逃げ道を探すように左右を見回す。その動きは明らかに恐怖に支配されている。


『恐れを知ったか』


猫の瞳が細められ、一瞬の隙を待つ。ネズミが逆方向へと走り出す——その瞬間。


「——跳ぶ!」


風を裂く鋭い音とともに、猫が一直線に飛び出した。だが、このネズミは只者ではなかった。病気を患いながらも、生存本能が研ぎ澄まされ、猫の一撃を紙一重で回避する。機敏に桶の下を潜り抜け、空き瓶を倒し、通気口へと逃げ場を求める。


猫の冷静な瞳に、わずかに興味の色が宿った。


『ほう……なかなかやる』


空気を切り裂くように身をひねり、壁を蹴って再び空へ舞い上がる。鉄製のゴミ箱を跳躍し、積み上げられた木箱を踏み台にして、またも宙に舞う。その動きは無駄がなく、計算し尽くされていた。


ネズミは必死に逃げ惑うが、猫との距離は確実に縮まっている。小さな隙間へ潜り込もうとした、その刹那。


——ザシュッ!


風を切る鋭い音。猫の前足が閃光のように鋭い爪を閃かせ、ネズミの進路を遮断するように地を叩いた。石畳に火花が散る。ネズミは慌てて方向転換するが、既に猫の罠にかかっていた。


「詰み、だ」


石段の影から猫のシルエットが浮かび上がる。月光を背に受けたその姿は、まるで夜そのものが形を得たかのような神秘性を帯びていた。跳躍、回転、狙いを定め、そして獲物へと真っ直ぐに——


——ドスッ。


一撃で仕留められたネズミは、もはや動くことはなかった。完璧な狩りだった。


『ふん、これが王の狩りだ』


しばし獲物を掲げるように立ち尽くしたその姿には、野生の誇りと静寂な威厳が宿っていた。月明かりがそのシルエットを長く伸ばし、夜の静寂に溶け込んでいく。


その時、裏口から野太い声が響いた。


「こらあああああッ! またかよネズミめぇぇぇ……!」


エプロン姿の食堂の店主——五十路を過ぎた頑固そうな男が、慌てて裏路地に飛び出してくる。手には殺鼠剤の袋を握りしめ、汗だくになっている。


「もう三ヶ月も……三ヶ月もあのネズミに悩まされて……」


店主の呟きが夜風に混じる。猫は咥えたネズミを見せつけるように、ゆっくりと振り返った。


「……お、おお? お前……それ、やったのか?」


店主の目が大きく見開かれる。手に持った殺鼠剤の袋が、ガサリと地面に落ちた。


『当然だ。我が縄張りに不届き者は不要』


猫の誇り高い目線が、そう語っているかのようだった。


「すげぇ……! 何度罠を仕掛けても、毒餌を置いても、業者を呼んでも逃げられたネズミだったんだぞ、そいつ! あのネズミのせいで食材は荒らされるし、お客さんには迷惑かけるし……もう店を畳むことも考えてたんだ……」


店主の声が震える。三十年間この食堂を守り続けてきた男の、心の底からの安堵だった。


「本当に……本当にありがとう……」


店主は恐る恐る猫の頭をそっと撫でる。猫はその手を受け入れ、わずかに目を細めた。人間への信頼というより、功績に対する正当な評価として、その敬意を受け取る。


『まあ、悪くない』


そして店主はふと真剣な顔つきで言った。


「よし、お前には"夜の剣王(ナイトブレード)"の称号をやろう! この街では、特別な働きをした動物に称号を与える古い習わしがあるんだ。お前のような見事な狩りを見せる猫は、まさにその名に相応しい!」


猫は一度鼻を鳴らし、『良かろう』とばかりに頷いた。その姿は誇り高く、まるで王者の戴冠式を思わせた。内心では、この称号が自分の実力を的確に表現していることに満足していた。


『"夜の剣王"……悪くない響きだ』


「礼だ。ちょっと焦げてるが、今夜の特売品さ!」


店主は魚の尾頭つきの残りを差し出した。香ばしい匂いが夜風に乗って広がり、猫の鼻腔をくすぐる。


猫はゆっくりと魚に近づき、まずは匂いを確かめる。焼き加減、脂の乗り具合、鮮度——すべてを瞬時に判断した。


『ふむ、人間にしては悪くない調理だ』


頭の部分を丁寧に噛みしめる。焼けた皮がパリッと音を立て、身はふっくらと柔らかい。脂がじゅわりと広がり、舌の上で溶けていく。骨の一つ一つを器用に外し、身を余すことなく味わう。焦げ目の香ばしさと、魚本来の旨味が口いっぱいに広がった。


『……ふむ、これは美味である。狩りの後の褒美としては上等だ』


夜の静けさの中、猫は王者の風格を保ちながら、ゆったりと晩餐を楽しんだ。店主への感謝というより、自分の功績に対する当然の報酬として、この美味な魚を受け取っていた。


店主はその様子を見て、感激に目を潤ませながら頭を下げた。


「"夜の剣王"様、これからもよろしく頼むぜ! 何かあったら、いつでも魚を用意しておくからな!」


猫は食事を終えると、尾を高く掲げて立ち上がった。月明かりの下、石畳を優雅に歩き出す。その背中には、新たな称号を得た王者の風格と、揺るぎない誇りが宿っていた。


『まあ、悪くない夜だった』


夜の帳が、また静かに街を包む。遠くで風が木々を揺らし、どこかで犬が遠吠えをあげる。だが、この路地の平穏は、"夜の剣王"の勝利によって守られていた。


こうして新たな称号を得た猫は、またひとつの冒険を背に、次なる"高み"へと歩み出すのであった。夜の王として、この街の平穏を見守りながら。

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