第15話 小さなきっかけ

金曜日の夜、オフィスの照明が一本、チカチカと不規則に瞬いていた。


退勤間際の静かなフロア。

藤原は、後輩の西田から頼まれた資料チェックをしていた。


「すみません、急にお願いしちゃって……来週のクライアント向け提案、初めてメインでやることになってて」


西田の声には、不安と期待が入り混じっている。


数ヶ月前の自分にはなかった“真っすぐさ”だった。


「大丈夫。……内容、よく考えられてるよ。あとは、伝え方だな」


「伝え方、ですか?」


「誰に向けて、何を感じてほしいか。たぶん、それだけで変わると思う」


ふと、自分が言った言葉に、自分でハッとする。


“伝えたいものがあるかどうか”

そう、昔の自分は——それを考えていたはずだった。


クライアントの課題、サービスの可能性、言葉の重み。

結果よりも、伝える中身を大事にしていた時期が、たしかにあった。


「……先輩って、すごいですよね」


ふいに西田がつぶやく。


「朝倉さんみたいに目立つ人がいるからあまり気づかれないけど……。藤原さんが事前に調整してくれてたおかげで、打ち合わせスムーズだったって、この前クライアントが言ってました」


「……あ、そう」


素直に受け止めきれず、少し笑ってごまかす。


「ありがとうございます、ほんとに」


西田は深く頭を下げて、フロアを出て行った。


藤原はしばらく、自席でぼんやりとモニターを眺めた。


——自分にだって、意味はあったのかもしれない。


妄想の中では、いつも“何者でもない自分”を嘆いていた。

でも、誰かの仕事が少しでもうまくいくように、誰かが安心して挑戦できるように、気づかれない部分を整えるのは——誰かの“物語”を支える、もうひとつの生き方かもしれない。


帰り道、スマホを開いたが、掲示板にはアクセスしなかった。


かわりに、通知がひとつ。


「朝倉 涼:お疲れさまです。来週のプレゼン、同行することになりました。よろしくお願いします」


短いメッセージに、無駄のない敬語。


以前なら、これを見ただけで構えていた。


(今度は、こっちが“伝える番”か)


そっとスマホをポケットに戻す。


冷えた風が頬をなでた。


街の明かりが、少しだけ柔らかく見えた。

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