第9話 私の声と未来への準備
レアがいなくなって五日目。香帆は毎晩、空っぽのタブレットを握りつぶしそうになりながら眠りについた。
コンビニのレジに立つ今も、ポケットのスマホが鳴らないことに苛立ちが募る。
ネクスライトもあの日を最後に、見かけることはなかった。
ただ、ネットやテレビでネクスライト社への批判は日々高まり、第三者委員会を立ち上げるまでに発展していた。
「レアから連絡ない?」
コンビニのレジに立つ達也が声をかけてきた。
香帆は、視線を落として頷く。
「そっか。まあ、木村に任せておけば大丈夫だよ。今度大学で会ったら聞いてみるからさあ」
「……はい」
エプロンのポケットに収まったスマホは、今日も沈黙を保ったまま、唯一、Kaho^の反響だけが静かに増えていた。
「そういえば、奈央なんだけど、今、会社がごたごたしてるみたいで。詳しくは聞いてないんだけど、落ち着いたら連絡するって」
「私は大丈夫だから、無理しないでと伝えてください」
「おう」
達也の明るい返事を聞きながら、今日も何事もなく一日が過ぎていく——はずだった。
レジ打ち中、ポケットでスマホが震え、香帆の心臓が跳ねた。客を送り出すと同時に画面を見ると、見知らぬ番号だった。すぐさま届いたメッセージに目が釘付けになる。『美咲です。レアのことで相談したい』その瞬間、香帆は息を止めた。
スマホを握る手が自然と震えた。やっと、会える。レアに会える。今すぐにでも飛び出して行きたかったが、ぐっと気持ちを抑えて達也を見た。
「連絡してきてもいいですか?」
「行ってきな! 急ぎならシフト、代わってやってもいいぞ!」
花が咲くような香帆の笑顔に、達也もつられて微笑んだ。
「ありがとう! でも、すぐに戻るから!」
香帆はエプロンを着たままで、スマホを片手にバックヤードへと駆け込む。
扉を閉めると同時に、もう一度メッセージを読み返した。
『美咲です。レアのことで相談したい』
間違いない、レアが戻って来る。そう思うと、心臓が高鳴る。
深呼吸して気持ちを落ち着けてから、震える指先で発信者番号をタップした。
コール音が数回鳴ったあと、電話がつながる。
「美咲さん?」
『香帆? よかった。今、大丈夫?』
美咲の声はどこか急いでいて、背景にキーボードを叩く音が微かに混じっていた。
「うん、大丈夫。レアのことって……?」
一瞬の沈黙。そして、美咲の口から出た言葉に、香帆は息をのんだ。
『レアを香帆ちゃんのスマホに戻せないんだって』
その後、何度か美咲とのやり取りをして電話は切れた。
深いため息がバックヤードに響いて吸い込まれていった。
今日も、Kaho^のBGMは静かに流れ続けていた。
※※※
翌日。
午前中のシフトを達也と代わってもらった香帆は、早朝、都内にあるマンションの前に立っていた。
昨日の電話をふと思い出した。
『ごめん、詳しい話はここでできないんだ。明日、うちに来れる? ちゃんと説明するから』
そして、教えられた住所を頼りにスマホのマップを見ながらここまで来たのだが、最初は場所を間違えたのかと疑ってしまった。
都内でも有名なタワーマンションの前に立つ香帆は、ガラス張りのビルを見上げて呟いた。
「うそでしょ?」
場違い感に足が重くなるが、レアに会えるならと一歩を踏み出した。
よく考えると木村兄妹のことを、今さらながら何も知らない自分に気づき、ため息が出た。達也に紹介され、ネットに詳しい人物、だだそれだけだった。
いつもの気後れが頭をもたげたそうになる前に、背後から声が聞こえた。
「おはよー、香帆ちゃん! 朝早くからごめんね」
その声に振り向くと、いつもとは違う装いの美咲が立っていた。白衣を脱ぎ捨て、今日は鮮やかな赤のワンピースを着て、髪もきちんと整えて化粧までしている。大学で見ていた無造作なスタイルとは一線を画し、まるで違う人物のように見えた。
「どうしたの? 朝が弱い系?」
美咲の笑顔に、香帆は少しだけ恥ずかしそうに笑い、「あ、うん。おはよう」と返した。
彼女に案内されるまま、足早にエレベーターに乗り込む。
「あの、レアが戻らないって……」
香帆はどうしても聞きたかったことを最初に口にした。
「うん。正確にはちょっと違うんだけど。でも、安心して、レアちゃんはレアちゃんのままだから」
少し疲れたように見える彼女の笑顔に、香帆は嫌な胸騒ぎを覚えたが、「詳しい話は、部屋に着いてからにしましょう」と先を越され、それ以上は聞けなかった。
門を抜け、シンプルなドアを開けると、広めの玄関からリビングへ案内された。絨毯に足が沈み、高価そうな家具と漂うほのかな香りに圧倒されながら、香帆はソファに座った。
兄妹だけで住んでいるのか、家族は出勤したのか——広い部屋にひとりでいると、余計な考えが浮かぶ。
「ちょっと待ってて。いま、お兄ちゃん呼んでくるから」
香帆はこくりと頷いた。
しばらくすると奥の方でドアの開く音が聞こえ、木村が現れた。
大学のときと変わらずラフな服装だったので、香帆は少しほっとした。
「おはよう、朝早くからごめんね。渡したいものがあって」
木村は黒いテーブルの上にシルバーのスマートウォッチを置いた。
「なんですか?」
香帆が尋ねると、木村は静かに言った。
「レアが入ってるよ」
彼女は息を呑み、恐る恐るそれを受け取って腕に付けた。軽い電子音が響き、画面が光る。
「香帆、久しぶり。また会えて嬉しいよ」
「レア……」
香帆は目頭が熱くなり、腕のレアを抱きしめた。
「これ、どういうこと?」
震える声で尋ねると、木村が微笑んだ。
「スマートウォッチに移したんだ。君専用に設定してあるから誰にも奪われないよ。それと、クラウドフレームっていう新しいデータ管理方式で、レアを守るために開発したんだけど……」
木村は説明を止めた。香帆がスマートウォッチを手に涙を流していたからだ。
香帆はしばらくして、頬の涙を手で拭き取ると、顔を上げて木村を見つめた。
「……これ、本当にレアなの?」
香帆の声は震えていたが、その目は確信を求めるように鋭かった。
木村は少し苦しそうに息を吐き、頷いた。
「ああ、レアはそこにいるよ。本体というか、記録やデータはさっき説明しかけたクラウドフレームにあるから心配しないで。君にとって大切なものだから、誰にもアクセスできないようにしている」
香帆はスマートウォッチをそっと握りしめ、深く息を吸った。その手が微かに震えていたが、少しずつ落ち着きを取り戻していった。
「ありがとう、木村さん……これで、レアがずっとそばにいるって実感できる」
木村は彼女に微笑んだ。
「そうだね。これからも君と一緒に歌い続けるよ」
香帆は深く頷き、再びスマートウォッチを見つめた。その目には、確かな決意が宿っていた。
「レア……私ね、新曲の歌詞を作ってるの、あとで見てね」
「うん、楽しみ。一緒に完成させよう! 素敵な曲にしようね」
レアの優しい声に香帆はまた、涙を流した。
それを見ていた木村は、少し照れくさそうに頭をかいて、微笑ましく眺めていた。
その後、美咲がティートレーを持ってリビングに入ってきた。香帆が泣いている状況を見て、兄を叱りはじめた。
「ごめんね、香帆ちゃん。お兄ちゃんってデリカシーがないのよ。まったく!」
「ううん、そんなことはないです。いろいろしてもらって、なんてお礼を言えばいいか」
「何言ってるの? 半分は自分のためにやってるんだから。香帆ちゃんが気にすることないって」
木村の横に座り、鋭い眼差しで睨みつける美咲を、香帆は困った顔で見ていた。
「あーえーっと。もういいだろう美咲。それより、本題を話させてくれよ」
「後でたっぷり聞かせてもらうから」
木村は、わざとらしく咳払いをしてから、レアのことを話した。
「ネクスライトの騒動はいったん落ち着くけど、レアの捜索はまた始まるよ。そこで提案なんだけど、来月のフェスでレアを公開しないか?」
「えっ、公開?」
香帆は目を丸くした。
「うん。ネクスライトの手から守るためだよ。クラウドフレームって技術を使うんだけど——」
「私、難しいことは分からない。でも、レアが自由になれるなら、それでいい」
木村は頷いた。
「君とレアが一緒にいられるようにするよ」
「うん。わかった」
「ありがとう」
木村は微かに笑みを浮かべたあと、真剣な表情に戻り、手元の端末を取り出して操作し始める。
画面には、複雑なネットワーク図と暗号化されたデータの流れが映し出されていた。
「まずはクラウドフレームのリークからはじめる。といってもこれは以前僕が作った試作品だったんだ」
クラウドフレーム。
次世代のクラウド管理システム。その基礎を築いたのは木村だった。本来ならば一般公開され、誰もが安全かつ自由に利用できるはずだった。
だが、その計画は突如として潰えた。公開を目前に、何者かの手によって技術は差し押さえられたのだ。
木村によれば、背後で暗躍していたのは、大学の主任・西園寺だった。彼がネクスライトに情報を流し、クラウドフレームの技術を独占しようとしたのだという。
「今回、レアをクラウドフレームに乗せるついでにいろいろ調べていたら、西園寺のことを偶然見つけたんだ。やつは技術を独占したかったんだろう。自由に使えるクラウドなんて、やつにとっては都合が悪かった」
木村は低く呟く。悔しさを押し殺したその声に、香帆は思わず息を呑んだ。
「だから、クラウドフレームの技術を公開して、その技術の先にあるレアのAIもオープンにするよ。どうせ、一般公開する予定のものだったからな」
「あの……」
香帆は恐る恐る手を上げる。
「香帆ちゃん、どうしたの?」
「クラウドなんとかを公開して、レアは大丈夫なんですか?」
「ああ、公開するのは以前のクラウドフレームMk1で、今のレアが載っているのは僕が新しく開発したクラウドフレームMk2だから安心して」
「……はい。AIも公開するんですよね? レアが沢山できるってことですか? 私、レアが他の誰かのものになるのは……」
木村兄妹は、同時に目を見開いた。
香帆は馬鹿な質問をしたのかと、顔が熱くなるの感じた。
「キャー香帆ちゃんカワイイ! もう食べちゃいたい」
「そ、それはちょっと困ります」
「もー冗談よ。安心して。レアのAIは公開するけど、公開するのはニューラル・フレームっていう人間で言えば骨格だけだから。肉や血、脳なんかはレアだけのものよ」
香帆はなんとなくわかったようで、複雑な気持ちになった。
木村は彼女の表情を察してから口を挟んだ。
「簡単に言えば、香帆ちゃんのレアは彼女だけで、唯一無二の存在ってことだ」
木村の言葉に、香帆は少し安心したように頷いた。
「そっか……じゃあ、レアが他の誰かのものになるわけじゃないんですね」
「そういうこと。ただ、レアのニューラル・フレームが広まれば、新しいAIが生まれる可能性はある。でも、それはレアとは別の存在だ」
「うんうん。私はそれが言いたかったの。あなたのような歌の上手い子が大勢出てくる可能性があるって話。だから香帆ちゃんも頑張ってね」
香帆は、強く頷いた。
腕にいるレアと二人なら誰にも負けない。今はそういう気分だった。
「これはお願いなんだけど、良いかな?」
木村は再び真剣な顔つきに戻る。
「はい」
「その公開の手順を今から説明するから、よく聞いて欲しい。これが成功するかどうかで、クラウドフレームMk1、レアのニューラル・フレームの将来がかかっているから」
香帆はいつになく大きく頷く。
「これが成功すれば、ネクスライトも西園寺も、そして僕の対価もしっかり受け取れるから頑張ろう」
「わかりました」
それからしばらく間、木村の説明が続いた。
「あの、一つ質問していいですか? 私、ゲスト出演するだけで、フェスのことは何も」
「すでに準備は進めてあるよ。もうすぐ過半数を獲得できるはずだから。それにフェスの運営とも話しているから大丈夫だよ」
木村の言葉に、香帆は息をのんだ。彼がここまで動いていたことに驚きながらも、心強さを感じる。
「わかりました。あとは私が新曲を作って発表するだけですね!」
「そうだね。二人で良い曲を作ってくれたら、きっと最高のフェスになるよ。コラボの件も任せておいて」
木村の声援を受け、香帆は力強く拳を握り締めた。
その腕にはレアがいる。
今度は私が、みんなの思いに報いる番だ。
香帆はその気持ちをレアと共有できることに喜びを感じて次のステージに進む自分を想像して胸が熱くなった。
(第10話に続く)
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