第8話 逆転と決意
全面ガラス張りのカフェに陣取った二人の会話の中心は、いつの間にか「Kaho^」のことになっていた。
窓の外から差し込む午後の光が、テーブルに柔らかな影を落としている。
「ちょっと、何このサイン。あなたの署名みたいじゃない。有名人なんだからサインくらい考えなよ」
「……はい」
美咲にねだられて、香帆はノートにサインをした。でも、どうすればいいのか分からず、結局「藤崎香帆」と書いただけだった。
ペンを置くと、窓の外に目をやった。遠くの駐車場に黒い車が見えた気がして、胸が小さく締め付けられた。
「まあいいわ。あなたはそれどこじゃないもんね。後のことは任せておいて。ネクスライトはねちっこい企業だから、お兄ちゃんと上手くやっておくわ」
「はい。お願いします」
香帆が頭を下げてそろそろ出ていこうとした時だった。
「よお、待たせたな」
黒髪を後ろでゆるく束ねた長身の男が手を振りながら近づいてきた。
テーブルの近くに来て、その男が木村だと分かった。
二度目の対面だが、これまで椅子に座っていたため、こんなにも背が高いことに気づかなかった。
木村が席に着くなり、美咲が開口一番に口を開いた。
「お兄ちゃん、どうだった?」
「ああ、ネクスライトのエージェントだったよ。俺の部屋を好き勝手に荒らしていったよ。サーバも三台持っていったし、西園寺も頭を下げまくって、あいつらの言いなりになってる」
「やっぱり、ネクスライトの奴らだったんだ」
香帆はレアが入ったスマホを握って「レア、大丈夫かな」と小さく呟いた。窓の外で、黒い車の影が一瞬動いた気がした。
「どうやら、うちの大学に多額の寄付をしてるらしい。西園寺もそのおこぼれをもらっているらしいな。まったく、ゴミだぜあいつは。ネクスライトに頼るなんて」
「それって、西園寺もあいつらとグルってこと?」
「さあどうだろう。研究資金欲しさがメインだと思うけど、警戒はした方がいい。まだ裏がありそうだからな。これ以上大学で研究するのはやめよう」
木村の言葉に、香帆は一瞬息を止めた。カフェの明るさが急に遠く感じられ、彼女は意を決して口を開いた。
「レアは……どうなるんですか? このまま一緒にいられないんですか?」
声が掠れて、スマホを持つ手がわずかに震えた。
「ちょっと、お兄ちゃん。香帆ちゃんが心配してるじゃない。曖昧なことばっかり言わないで!」
香帆は小さく頷き、美咲の言葉にすがるように木村を見た。
木村は一瞬何のことか理解できず二人の間を交互に見つめた。
「いつの間にそんなに仲良くなったんだ?」
「それよりお兄ちゃん、私たちで香帆ちゃんとレアを守るわよ! いいわね!」
美咲の決意に押され、木村もその場の空気に流されるように、少しだけ真剣な表情を見せた。
「分かったよ、でも無茶はするな。俺たちが関わることで、逆に危険が増すかもしれないんだからな」
香帆は二人のやり取りを静かに聞いていたが、胸のなかで不安が膨らんでいった。
奈央や達也みたいに自分から動けない自分が情けなくて、美咲や木村がどんなに強気な言葉を交わしても、無力感が襲ってきた。
「……ごめんなさい。私、何もできなくて、頼るばっかりで」
香帆はうつむき、震える声で言った。
「気にするな。もともとネクスライトは嫌いだったし、君のAIにも興味があったから。それに、美咲も君のことを気に入っているみたいだし、乗りかかった船だ。最後まで付き合うよ」
「うん。私、ずっとKaho^のファンだから」
香帆はレアと出会ってから、多くの仲間に助けられてきた。
今回も、また助けられた。
今まで自分ひとりで抱えてきた不安や恐れは、少しずつ他の人と分かち合うことで和らいできた。
しかし、心の奥底に残る不安は消えない。
それでも、今は前を向かなければならない。
香帆は深く息を吸い込んで決意を固めた。
――もう、迷っている暇はない。これからが本当の戦い、覚悟を決めなきゃ。
その言葉が香帆の中で何度も繰り返され、手にしたスマホの画面に映るレアの顔をじっと見つめた。
レアは、いつも自分を支えてくれていた。彼女の存在が、今の自分を強くしてくれる。
彼女と共に戦う覚悟を決めた香帆は、ゆっくりとスマホを握りしめた。
※※※
大学からの帰り道、香帆はバイト先のコンビニへ向かっていた。
カフェを出てから一時間ほど、今日の出来事は、奈央にはメールで簡単な説明を送り、達也には直接話すつもりでいた。
木村のことを知るきっかけを作ってくれたのは達也だったので、そのことへの感謝も伝えたかった。
疲れていたけど、達也に会って少し安心したかった。
「レア、どう思う?」
「うん、いいよ。香帆の気持ちが現れてると思う」
Bluethoothイヤホンをつけ、新曲の歌詞についてレアと話をしながら歩いてきた。
角を曲がって、顔を上げたときだった。
コンビニの駐車場に、この辺りでは見かけない黒塗りの車が一台止まっていた。
新商品のノボリが静かに揺れるなか、香帆の足が止まる。心臓がドキドキと早くなった。
「うそ、もう来たの?」
驚きから声が漏れ出た。
「香帆、どうしたの?」
「大学で見た車に似てるから、もしかしてネクスライトかなって」
レアは小さく頷くと、「わかった。私が確認してみる。プレートナンバーと車種はメモリーにあるから、スマホを車に向けながら通り過ぎてみて」と言った。
「大丈夫? 怪しまれない?」
「それは香帆次第かな? 私はスマホのなかだから怪しまれないよ」
珍しく冗談を言うレアに、香帆の肩の力が少し抜けた。
彼女はそれらしくスマホのカメラを車に向けながら、コンビニの前を通り過ぎる。横目でちらっと見た店内は、いつもより静かで、スーツ姿の人影は見えなかった。車には黒のスモークが張ってあり、中は確認できない。
「どうだった?」
「うん。大学に止まってた車のナンバープレートと同じだったよ」
「ホントに? もう来たってこと?」
「間違いないよ。画像解析で車の温度を確認したら、数分前に駐車したみたい。大学からなら十分間に合う時間だよ」
「わかった。レア、家に帰ろう」
香帆は振り返ることなくただ前だけを見つめて足を速めた。
木村が「GPSである程度まで場所の特定はされている」と話していたことが、脳裏に浮かんだ。
「家まで来ているかな?」
香帆の不安そうな声に、レアが答える。
「追跡プログラムが作動したのはコンビニエンスストアだから、香帆の家までは特定されてないと思うよ」
「よかった……」
胸の奥から安堵のため息が漏れた。
家が近づくと、台所の窓から灯りがこぼれているのが見えた。母が帰ってきている。
香帆は、これほどまでに母の存在を大きく感じたことはなかった。今夜は母に会えてよかったと初めて思った。
その夜、一日の気疲れからか、香帆はいつもより早めに眠りについた。
彼女のベッドの横では、レアが木村からの指示を受け、怪しく光を放っていた。
※※※
翌朝、母に起こされて香帆は目を覚ました。昨夜は早く寝たはずなのに、まだ眠り足りない気がした。
「お母さん、今日は遅くなるから、晩御飯はひとりで食べて」
「はーい」
香帆は眠そうな目をこすりながら返事をし、母を見送った。
テーブルに置かれていたパンを手に取り、少しかじりながらテレビをつける。
画面にはアナウンサーが深刻な表情で原稿を読み上げていた。字幕には物々しい言葉が並び、映し出される映像もどこか重苦しい。
香帆はぼんやりとそれを眺めながら、パンをもう一口かじった。
「ねえ、レア。今日なんだけど」
と、そこまで言ってふと気づいた。いつもなら朝一番にレアの声で目を覚ますはずなのに、今日はそれが聞こえてこない。
ベッドの横に歩み寄り、冷えたスマホを手に取る。「レア? どうしたの?」と声をかけた。
いつもと様子が違う。画面は暗いままで、まるで死んでいるかのように反応がない。
「ちょっと……レア、返事してよ……レア」
声が上ずり、気づけば泣き声のように響いていた。香帆はスマホを何度も軽く叩き、レアとの日々を思い出した。
すると、画面が一瞬明るくなり、美咲の顔が映し出された。香帆はもう少しでスマホを床に落としてしまうところだった。
「ど、どういうこと?」
「ああ、香帆ちゃん。おはよー。今ね、ちょっとレアちゃんを借りているの。今日中には完了するから、終わったら連絡するね」
「待って! 借りるってなに? レアはどこにいるの?」
「大丈夫、心配しないで。レアちゃんはこっちで元気にやってるから。それに大事な計画のために彼女が必要なの。じゃあ、またね」
美咲はそう言って一方的に通話を切った。
香帆はスマホをしばらく見つめたまま、何が起こっているのか全く理解できなかった。
頭の中は混乱し、目の前がぼやけるような感覚に包まれる。夢でも見ているのだろうか、と一瞬考えたが、すぐにその考えは打ち消された。
現実だ。
美咲の声、そしてレアの不在……すべてが現実だ。
香帆はバイト先のコンビニへ向かう道すがら、スマホを握りしめたまま歩いていた。画面を何度も確認するが、レアからの通知は何もない。
「レア、どこでなにやってるの……」
口に出すとよけいに胸の奥がズンと重くなる。
店に到着すると、店長がレジの奥から顔を出した。
「香帆ちゃん、今日もよろしくね」
「はい、お願いします」
いつもとは違う店長の元気のなさに香帆は首を傾げたが、深く考えすぎないように気持ちを切り替えた。
バックヤードで制服のエプロンに着替え、レジの前に立つ。しかし、接客しながらも心のどこかでスマホの振動を待っていた。
昼過ぎになって、店長の代わりに達也が出勤してきた。
「お疲れー、香帆」
「……お疲れ様です」
「ん、どうした? なんかあった?」
達也は香帆の元気のない声に気づき、問いかけた。
香帆は口を開きかけたが、すぐに閉じる。今レアのことを話しても、ただ自分の弱さをさらけ出すだけな気がした。
静かに息を吐き、昨日の出来事を説明した。
「ネクスライトが黒幕か。その時間なら店長が対応してたはず。そういえば店長、昨日何か変だったな。なにか言ってなかった?」
香帆は首を横に振りながら、「何も聞いてない」と呟いた。
「ちょっと俺、確認してくるよ。まだ裏にいるはずだから」
達也はそう言い残すと、バックヤードへと向かった。
彼の行動力に香帆はまた甘えてしまい、自己嫌悪に陥りそうになり、焦りが胸を締め付けた時だった。
駐車場に数台のエンジン音が響き、重いドアが閉まる音が続いた。
数人の足音とともに、自動ドアが静かに開く。
「いらっしゃいませ……」
香帆の声がふと途切れた。レジ横のコーヒーマシンが静かに唸るなか、この辺りではあまり見かけないスーツ姿。
しかし、昨日、彼女は確かにその姿を目にしていた。
美咲たちがエージェントと呼んでいた人たちだ。
彼らはまっすぐレジに向かってくると、そのなかでも体格の良いひとりの男が一歩前に出た。
笑みを作り、まっすぐ香帆を見つめる。
「こんにちは。昨日はどうも」
「……えっ」
「覚えてない? 木村さんの研究室で会ったよね?」
「……さあ」
香帆は視線を落とし、曖昧に頷くのが精一杯だった。
知らずにエプロンのポケットへ手を入れ、スマホを握り締める。――また誰かに頼るしかないなんて、悔しい。不安と恐怖に包まれ、顔を上げることすらできなかった。
「こんなところで会うなんて、偶然かな?」
「……」
「ちょっと聞きたいんだけど、いいかな?」
スーツ姿の男が顔を寄せると、香帆は再び視線を落とした。
「この辺りで、古いタブレットを拾わなかった? 見かけたでもいいよ。知らないかな?」
「……さあ。わかりません」
「そう。おかしいな。店長は藤崎香帆という人が、タブレットを持っていた、と昨日言っていたんだけど。君の名前は、藤崎さんだよね?」
香帆ははっとして自分の名札に目をやる。
もう言い逃れでできない。もうおしまいだ。そう思った時だった。
「いらっしゃいませ」
バックヤードから達也が戻ってきた。
すぐに香帆の横に並ぶと、男たちに向かって「なにか?」と声をかけた。
「いえ。彼女にちょっと話があってね」
「そうですか。申し訳ありません。彼女は今仕事中なんで、個人的なことでしたら業務時間外でお願いします」
「……なるほど。仕事中ですか」
「はい。で、なんの用事ですか? 商品のことでしたら何でも聞いて下さい」
スーツ姿の男と達也は視線を絡ませるように睨み合った。
達也も一歩も引かず険しい表情を崩さなかったが、男たちから漂う威圧感は息苦しいほど重かった。
「わかりました。それでしたらまた、あらためます」
スーツ姿の男はそう言い残すと、何も買わず、黙って出ていった。
「ふー、すげぇ迫力だったな。あれが大企業の社員か? 暴力団と間違えてんじゃねぇの?」
さすがの達也もレジカウンターに手をつき、その場にしゃがみ込んだ。
それでも顔を上げると、香帆に向かって楽しげな笑みを浮かべていた。
「……ごめんなさい。迷惑ばかりかけて」
「気にすんなって。それより、店長はやっぱり話したみたいだな。さっきの連中と同じかはわかんねえけど、ネクスライトの社員だって名乗る奴らが来たらしい」
達也は立ち上がって制服を整え、「店長、コンビニ本部からの圧力があったと嘆いてたよ」と呟いた。
「よっぽど取り返したいんだろうな。今朝になってまた本部から連絡があったらしいから。詳しい内容までは話してくれなかったけど、かなり落ち込んでたよ」
「そ、そんな……店長にまで迷惑をかけちゃったなんて……」
「こうなりゃグズグズしてられねえな! 俺、木村に連絡してみるよ! 攻撃され放しってのは、俺の性分に合わねえからな!」
鼻息を荒くしながら腕まくりをする達也を見て、香帆はどこか頼もしさを感じつつも、どこか諦めにも似た感情に包まれていた。
「でも、木村さんが協力してくれるかどうか……」
不安げに呟く香帆に、達也はニッと笑う。
「まぁ、やれるだけやってみるさ。アイツもただの巻き込まれ損はごめんだろ」
そう言ってスマホを取り出し、素早く木村の番号を押した。コール音が鳴る間、香帆は息を詰めて待つ。
やがて、電話の向こうで無愛想な声が応じた。
「……なんだ?」
木村の声を聞いた瞬間、達也の表情が引き締まる。
しばらく間、木村の声に耳を澄ましていた達也だったが、突然声を荒げた。
「よくやった! それでこそ天才木村だ!」
またしばらく耳を済ませたあと、電話を切った。
香帆の不安そうな顔を見て、達也はいつもの笑みを浮かべる。
「どうやら、木村がネクスライトの裏を暴く証拠をばらまいたらしいぞ!」
ニタニタしながらスマホを操作する達也に、香帆の不安はより大きくなる。
「木村、やるじゃねえか」
興奮した達也が見せてくれたスマホの画面にある記事が載っていた。
『ネクスライト社の強引な手法発覚! 違法な情報収集を内部告発者が暴露!』
その見出しに、香帆は息をのんだ。
発信元は不明だったが、この記事を書いたのが木村なのか、香帆はにわかには信じられなかった。
それにこの記事の反響は凄まじい勢いで拡散されていた。
ほんの数分前の記事なのに、すでに百万リポストされ、トレンド入りしていた。
「これでしばらく手出しできなくなるだろうって木村が言ってた」
達也は大きく頷き、香帆の肩を優しく叩いた。
「香帆、ここからだ。フェス、絶対成功させようぜ!」
達也の熱意が伝わり、香帆の張り詰めていた気持ちも少しずつ溶けていった。
エプロンの中にレアはいない。それでも、彼女が戻ってくるまで自分にできることをやろう――そう強く思えた。
「私、新曲を完成させて、レアと一緒に歌いたい!」
静かなコンビニの店内に、香帆の決意が静かに響き渡った。
(第9話に続く)
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