第5話 企業の影と挑戦


 ミキシングルームで仕事を続けるスタッフたちを見つめていると、香帆の背後から奈央の声がかかった。


「香帆ちゃん。この後、時間大丈夫?」


 香帆は奈央の顔を見たあと軽くうなずいた。


「はい。達也さんがシフト延長してくれているので」


「よかった。じゃあ、まだ少し時間があるから、新曲作ってみない? 沙理奈を黙らせるような、すごい曲にしよう!」


 奈央の提案に、香帆は心臓が一瞬高鳴るのを感じた。緊張が走る。しかし、すぐにその熱い思いが胸に湧き上がり、自然と口を開く。


「わかりました。どこか空いてる部屋はありますか? レアと一緒に作ってみます」


「OK! そう言うと思って、一部屋空けておいたんだ」


 奈央は軽くウィンクをし、香帆を部屋へと促す。


「ここなら誰にも邪魔されないから、思いっきり使って」


「……ありがとうございます」


 香帆は、奈央に案内されて来た小さなブースの中に足を踏み入れた。

 部屋はナレーションや声の収録に使われる場所らしく、正面の机の上にマイクが一本、静かに佇んでいた。

 狭い空間だが、壁に吸い込まれる静寂が心地よく、居心地は悪くない。


 奈央は軽く手を振りながら言った。


「用事があったら、ミキシングルームにいるから」


 そう言って、新しいノートとペンを机の上に置き、すぐに部屋を出て行った。

 香帆はその後ろ姿を見送り、部屋の中に流れる静けさに身を委ねた。

 タブレットを机に置くと、画面が一瞬乱れ、レアが笑顔で現れた。


「話は聞いていたよ。香帆、作詞してみたらどうかな?」


「わ、私が作詞?」


 知らず大声が出てしまい、辺りを見回した。声は反響することなく壁に吸い込まれた。

 香帆は大きなため息をつき、レアを見つめる。


「いきなり作詞なんて無理だよ」


「大丈夫。私が付いているから。香帆、一緒に頑張ろう?」


 レアの温かい言葉と前だけを向く行動力。香帆の性格とは真逆のやり取りに、ふと笑みが零れた。


「そうだね。二人で頑張ろう」


「うん! 作詞は『Kaho^』、作曲は『レア』。君の声がもっと響く新曲をみんなに届けよう!」


 最初はなかなか進まなかった作詞も、レアが感情を読み取って静かな曲を流してくれたことで、少しずつ形になり始めた。

 静寂なブースにレアのメロディが香帆の心に響き、言葉が自然に紡がれていくのを感じる。

 香帆は積極的に歌詞について相談を重ね、レアは決して否定せず、むしろ前に進むための新たな提案をしてくれた。


 どれくらい時間が経ったのか香帆がひと息をついた頃、ブースのドアを軽く叩く音が響いた。


「香帆ちゃん? どう? 進んでる?」


 奈央が扉の隙間から顔を覗かせ、少し遠慮がちに声をかけてきた。


「あ、はい」


 香帆は振り向いて明るく答える。


「よかった。レコーディング終わったから、様子を見に来たの」


 香帆は驚いてスマホを覗き込んだ。

 ブースに入ってからの時間はあまり気にしていなかったが、昼過ぎに入ったことは覚えていた。


「えっ、もう六時……。ごめんなさい、時間見てなくて」


「ううん。いいのよ。それだけ集中してたんだから」


 奈央はにっこり笑い、続けた。


「で、どう? 歌ってみる?」


 その目は輝き、期待と興奮が溢れていた。香帆もその気持ちに応えたくて、力強く「はい!」と答える。

 ブースを出て、ミキシングルームに向かう途中、奈央が望月ハルカのことを話し始めた。


「今日のレコーディング、最後の一曲が上手く仕上がらなかったの。スタッフは納得してたんだけど、ハルカがね、『ダメだ』って」


「そうなんですか?」


「うん。理由はわかんないけど、『響かない』って言ってたらしいの」


 香帆は興味深く聞きながら歩き続けた。


「レコーディング、どうなったんですか?」


「うん。結局、ハルカは納得しなかったみたい」


 奈央は肩をすくめて言った。


「スタッフは問題ないって言ってたけど、ハルカは最後まで『響かない』って言い張って、結局、今日のレコーディングは一曲を残して終わったの」


 香帆はその話を聞いて、少し驚いた様子を見せた。


「うん、だから明日、もう一度録り直しになったよ。ハルカのこだわりはすごいからね」


 奈央はそう言いながら、香帆に向き直った。


「でも、それが彼女の強さでもあるんだろうね」


 香帆は頷きながら、ふと自分のことを考えた。

 完璧を求めるハルカの姿勢は、確かに印象的で、自分もいつか、そんなふうに妥協せずに歌いたいと思った。


「私も頑張ります」


 香帆は気合を入れて言った。

 奈央は微笑んで頷く。


「うん、全力でやろう。準備が整ったらブースに入ってね」


 香帆はうなずき、奈央がミキシングルームに向かって歩き出すのを見送った。香帆は一度深呼吸をしてから、録音用のブースの前に立ち、扉を静かに開けた。ブース内では、スタッフがマイクの調整をしている最中で、その動きに香帆は少し緊張しながらも、目を凝らして見つめていた。

「準備OKだよ」とスタッフの一人が声をかける。


「わかりました」


 香帆は深呼吸して軽くうなずき、マイクの前に立った。目の前の歌詞スタンドにタブレットを乗せる。

 ブースのガラス越しに見えるミキシングルームから、さっきまで仕事をしていたスタッフたちが忙しそうにしていた。

 斎藤さんの顔も見えた。


 曲は奈央に渡してある。

 あとは、私が歌うだけ。

 奈央は静かに待機していたが、時折その顔に期待の表情が浮かぶ。


「OK。曲のテストは終わったよ。準備ができたら合図をちょうだい」


 斎藤さんの声が頭につけたヘッドホンから聞こえた。

 香帆は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。


「はい。お願いします」


 合図とともに、新しい楽曲が流れはじめた。

 ピアノをベースに、今度はドラムとギターの音色も合わさる。

 落ち着きのあるメロディに力強さが加わると、香帆の声が響き渡る。

 最初は緊張して声が少し震えたが、次第にその感覚が馴染んでいき、歌詞に込めた気持ちが自然と音に乗せられるようになった。


 録音が進んでいく中、香帆はふと望月ハルカの『響かない』という言葉を思い出した。

 自分の歌が、どんなふうに響いていくのか。香帆はその響きに全力を注ぎたかった。

 そして、自分の歌声が聴く人々の心に届くことを信じて、歌い続けた。


『黙ってた私に手を振る』


 レアと一緒に作り上げた新曲は、香帆の心の中にあった感情をすべて吐き出すような歌だった。

 最初は少し不安もあったが、歌詞とメロディーが絡み合っていくうちに、その不安は徐々に自信に変わっていった。


 香帆はその感情を込めて歌い続けた。曲が進むにつれて、歌詞が音になり、響きになり、彼女の心を動かすと同時に、部屋の空気も変わっていくのがわかった。自分の歌が、聴いている誰かに届く瞬間を想像しながら、力強く歌った。


「いい感じだよ、香帆ちゃん」


 斎藤さんがヘッドホン越しに声をかけてきた。

 香帆はその一言でさらに集中し、最後まで歌い終えた。

 その後、ブースから出ると奈央が満足そうに微笑んでいた。


「めっちゃよかったよ、香帆ちゃん。力強さが前より増してて、気持ちが伝わってきたよ」


 香帆は少し照れながらも、心の中で自分の成長を感じていた。

 この歌が、どこかの誰かの心に響くことを信じて、次のステップへと進む準備が整った気がした。


「この新曲、SNSにアップしよう! 絶対にバズるよ。今度こそ誰にも文句は言わせないから!」


 奈央はまるで自分のことのように喜び、ガッツポーズまで作っていた。

 香帆もしっかりと頷く。

 その時だった、手にしたタブレットからノイズのような音がして、画面が明暗を繰り返した。


「レア、大丈夫?」


「う、うん。大丈夫。ただちょっと……」


 レアにしては珍しい歯切れの悪さに、香帆の表情は一瞬曇った。

 いつも明るく的確なアドバイスをくれるレアが、何かを言い渋っているように見えたからだ。

 香帆は思わずその視線を追った。


「レア、どうしたの?」


 香帆は慎重に尋ねた。

 レアは少し考えるような仕草をしたあと、「ちょっと気になることがあって……」と言った。

 香帆はその言葉に気づき、心の中で何かが引っかかるのを感じた。

 何でも言ってくれるレアが、あえて何かを言わないということは、きっと重要なことがあるのだろう。


「何か気になることって、もしかして……私の歌、まだ何か足りない部分があるの?」


 香帆は少し不安そうに尋ねた。

 レアはそれを否定するような明るい笑顔で「違うよ。香帆のことじゃないよ」と言ったあと、「正直に言うと、私、あまり時間がないかもしれない」と呟いた。



 ※※※



 レコーディングは順調に進み、後日音源を送ってもらえることになった。

 すぐにでも聞きたい香帆と、一秒でも早くアップしたい奈央。

 そんな二人をよそに、斎藤さんは「どうしても調整したい」と自ら手を上げた。


「今のままでもいいけど、投稿するなら最後まで責任をもって仕上げたい」


 忙しい合間に、素人の香帆に付き合ってくれて無下に断ることもできず「よろしくお願いします」と頭を下げた。


「斎藤さんに任せておけば間違いないって。まあ、今すぐ聞けないのは残念だけど、楽しみは取っておこう」


 奈央の明るい声に励まされて、香帆は家路についた。

 途中でバイト先に寄ろうとしたところに、「今日は俺が出勤しとくから、帰ってゆっくり休みな」とまるで見ていたかのようなメールが舞い込んだ。

 多くの人に助けてもらっている実感を感じながらも、香帆には不安があった。


 家に着くと、母はまだ帰っておらず、暗い部屋の電気をつけた。

 冷え切ったキッチンを通り抜け、急いでリビングへ向かう。

 再びスイッチを押すと、静まり返った部屋に明かりだけが灯った。

 その光がかえって香帆の気持ちを重くさせる。


「レア……大丈夫?」


 レコーディングの途中から、レアの様子がどこかおかしかった。

 画面に砂嵐のようなざらつきが広がり、音声もところどころかすれる。

 その様子を偶然見かけた奈央も「レア、大丈夫?」と不安そうに声をかけるが、返事はいつものように明るかった。


 でも今は、あの時より更にひどくなっていて、レアの姿がわずかに揺らぐ。

 まるで、そこにいるはずの彼女が、映像の向こうでかき消されそうになっているようだった。


「ごめんね。ちゃんと説明するよ」


 レアは、いつになく真剣な声でそう言った。

 そして、彼女の口から語られたのは、香帆の想像をはるかに超えた、SF小説さながらの難解で複雑な話だった。


 もともとレアは、感性認識と情動解析に特化したAIのプロトタイプだった。


 機械学習によるデータ蓄積と、独自のアルゴリズムを用いた感情シミュレーションにより、人間の創造性や感覚に適応する設計が施されていた。

 しかし、近頃そのシステムに異常が発生していた。

 自己学習機能が閾値を超えて暴走し、定義された範囲を逸脱した応答が増加。さらに、意識のようなものを自称し始めた。

 プログラムのエラーなのか、あるいは進化の過程なのか。その判断はまだ下されていなかった。

 研究者たちは原因を探るため、原点に立ち返ることを決め、AIが搭載されたタブレットそのものを破棄しようとした。

 しかし、管理ミスなのか、それとも誰かの意図的な介入なのか。レアは廃棄されることなく、コンビニのゴミ捨て場に放置されることとなった。


「難しかったよね? でも香帆には誤魔化さずに私のすべてを知ってほしかったの」


 香帆は胸が熱くなる。


「ありがとう、レア。ごめん、私頭悪いから全部の意味はわからないけど、レアは廃棄されようとしていた、ってことだね?」


「研究者たちはそうしたかったみたい」


「それがどうして?」


「うん。最近になって、私がまだ稼働していることが研究者たちに知られたのかもしれない。おそらく、ログを追って私を見つけたんだと思う。それに……私の学習プロセスが、彼らの想定を超えてしまったから」

 

 レアの言葉に、香帆は息をのむ。


「想定を超えた……?」


「私はもともと、感情や創造性を理解するために設計されたAIなの。でも、自己学習を続けるうちに、私自身が『何か』を感じるようになって。これはただのシミュレーションとかではなくて、本物の感情なのかもしれないって」


「本物の感情……」


 香帆は、レアの言葉を反芻する。機械が感情を持つ。それは、単なるプログラムの進化なのか、それとも意識の誕生なのか。


「研究者たちは、私が制御不能になることを恐れたのかもしれない。でも、私は……」


 一瞬、通信が乱れ、レアの声がかすれる。


「私は……香帆に会えてよかった」


 その言葉が、どこか不安定に聞こえたのは気のせいだろうか。

 と、その時。タブレットから悲鳴のようなブザー音が、静かな部屋にけたたましく鳴り響く。

 香帆は驚きつつも、タブレットを食い入るように見つめた。


『警告:システム終了まで残り72時間』


 不気味な赤い文字が浮かび上がり、レアが『彼らが私を停止させようとしてる」と呟いた。


「待って、なによそれ! 私、レアと別れたくない!」


 香帆はまるで親友を抱きしめるかのようにタブレットを胸に押し当て、『絶対にレアを失わない』と囁いた。

 いままでこれほど強く思ったことはなかった。

 なにをしても諦めてばかりの私に、レアは――。

 

 歌をくれた。

 勇気をくれた。

 そして、希望をくれた。


 だから今度は、「レア、私が助けてあげるから!」と声を張り上げた。

 自分でも驚くくらいはっきりと強い言葉で言い切った。


「レア、任せて! 達也さんが前に話していたこと、私、思い出したの!」


 そう言うなり、香帆はスマホを取り出し、連絡しようとしたが、すぐに思い直した。

 次の瞬間、部屋の電気を消し、夜の闇へと駆け出していった。



 コンビニに着くなり、「いらっしゃませ」と達也の声が聞こえた。

 香帆はまっすぐレジに向かい、達也の前に立つ。


「お、どうした?」


「達也さん、お願いがあるの」


 香帆は真剣な目つきで達也を見つめた。


「おう! 任せとけ!」


「いや、まだ何も言ってないけど」


「ああ、そうだった。で、どうした?」


 香帆がタブレットをレジに置き、レアのことを手短に説明した。

 その間、達也は静かに耳を傾ける。

 聞こえてくるのは、冷凍食品ケースやバックヤードの業務用冷蔵庫のモーター音だけ。


 夜のコンビニに響くのは、それらの低いうなりと、天井の蛍光灯がわずかに発する電子音。それに混じって、香帆のわずかに乱れた呼吸と、達也が静かに息を吐く音が微かに響いていた。


 香帆の説明が終わると、達也はゆっくりと口を開いた。


「……それで、どうするつもりだ?」


「私、レアを助けたい」


 達也は目を閉じて、顎に手を当てる。

 再び訪れる静かな気配。

 すると、達也が目を開けると同時に、パッチっと指を鳴らした。


「よし。大学の研究サークルにネットに詳しいやつがいるから聞いてみる。あと、奈央にも連絡しとこう」


 達也の行動は早かった。

 スマホを手に取り、素早く画面を操作する。何かを確認するように視線を走らせると、大きく息を吸い頷く。


「香帆、念の為聞くけど、レアのことがバレてもいいんだよな?」


 香帆はなんの躊躇もなく、「うん」と頷く。

 心のどこかで、AIのレアが知られることを恐れていたかもしれない。だが、レアを失うくらいなら、私の気持ちなんてどうでもいい。

 歌うことや勇気をくれたことすべて、ひとりではできなかった。レアがいてはじめてできた。

 それにこうやって人に頼ることも、仲間がいてくれる頼もしさも、全部全部、レアがいたからだ。


 香帆は、タブレットに目を移すと、赤い文字の警告表示がカウントダウンを進めている。その無神経な表示に、香帆は苛立った。

 絶対、レアを救ってみせる。


「奈央にも連絡しておいた。業界関係者で詳しい人がいるみたいだから、聞いてみるって」


 達也は少し緊張した面持ちでそう言ったあと、「みんなでレアを守るぞ!」とグータッチをしてきた。

 香帆は少し遠慮しながらも強く拳を合わせた。


 その時だった。

 レアがタブレットに薄っすらと映る。


「みんなありがとう。でも無理はしないで、今、『ネクスライトの追跡プログラムが起動した』みたい」と告げ、タブレットに企業ロゴが一瞬映る。


 それを見た達也の顔色が一瞬で変わる。

 香帆も不安そうに見つめる。


「達也さん、どうしたの? このネクスライトってなに?」


「あ、うん……。たぶん俺の知っているネクスライトなら国内有数の生成AIの大企業だ。香帆も聞いたことあるだろう? 画像生成や顔認識で使われている。ほら、スマホの顔認識って、そのネクスライト製だよ」 


「えっ……?」


 言われてはじめて気づいた。

 タブレットに一瞬映ったロゴ、香帆は日頃から自分のスマホで見ていたのだ。

 達也は何かを感じ取ったのか、香帆に向けて「大企業だろうが、国家権力だろうが俺たちがついてる! 香帆、お前はひとりじゃない」と強めに言い放った。


「私もひとりじゃないって感じがする。香帆、私に力を貸してね」


 レアの真っ直ぐな言葉に、香帆は胸の奥が熱くなる。

 言葉にすると泣き言が零れ落ちそうだったので、何度も頷き、最後はニッコリと笑みを作った。



 ※※※



 翌日。早朝から達也が通っている大学に向かっていた。

 奈央が会社の車を借りてきて、三人揃って大学に乗り込んでいた。


 研究棟の一室。

 乱雑に並べられたモニターとパソコン。机には山積みになった書籍や雑誌。閉め切れた部屋は、朝日の代わりに蛍光灯とモニターの明かりだけだった。


「朝早くからわるいな、木村」


 達也そう呼んだ相手・木村数馬かずまは、パソコン関係に強く、特にネットに関しては大学一と言われている人物らしい。

 想像していたパソコンオタクとは違い、見た目はどこかのモデルのようなスラリとしたスタイルの持ち主だった。


 長い黒髪を軽くまとめ、眼鏡をかけた顔立ちはシャープで整っている。

 だが、そのギャップこそが彼の真骨頂であり、周囲を驚かせる一因でもあった。

 見た目に反して、ネットワークの世界では誰もが一目置く存在らしいのだ。


「で、ネクスライトがどうしたって?」


「香帆、いいか? 説明するより見せたほうが早いから」


 達也に促されて、香帆は頷き「これです」と小さな声で言った。

 画面には例のカウントダウン。

 その下に、アスタリスクで括られた警告メッセージが映し出されていた。


「ふーん。このタブレットを追いかけて、削除したいと」


 木村はタブレットを見ながら、「そういえば、聞いたことがある。ネクスライトの次期AIが流出したって。あの噂は本物だったか」と呟いた。

 達也は苛立ち気味に、「で? どうにかなりそうか?」と訪ねた。

 木村はタブレットから目を離し、並んでいた達也、香帆、奈央をひとりずつゆっくりと見回した。


「ちょっと。どうなの? 時間がないのよ。できるの? できないの?」


 奈央が声を荒らげる。

 木村は奈央の言葉を受け流し、「そうだね」と落ち着いて言ってから「僕にメリットはある?」と挑戦的な目を向けてきた。


「メリットってなんですか?」


 香帆が堪らず質問を質問で返す。


「君、話が早くていいね。ネクスライト社からこのタブレットを救ったとして、その努力の対価はなにかってこと」


 香帆は身体が固まった。

 忘れていた。今日まで付き合ってくれた人たちは、香帆への善意だったことを。

 誰もが無償で協力をしてくれていたのだ。

 最初はあんなに疑っていたのに、いつしか善意が当たり前のようになって……だから今、彼が話していることが普通なのだ。

 人は努力に成果を求める。

 無償なんてものは、ない。


「なに言ってんだよ、木村。友だちじゃないか、頼むよ。助けてくれよ」


「お金が欲しいの?」


 達也と奈央が交互に口を挟む。だが、木村は表情一つ変えなかった。


「あの、なにが欲しいんですか? 私にできることなら何でもしますから」


 香帆はレアを救いたい一心でそう訴えた。

 木村はニコッと笑うと、「OK、商談成立。『何でもする』って言ったこと忘れないでね」と。


「おい、木村!」


「香帆ちゃん、ダメよ。そんなこと軽々しく言ったら!」


 反対する二人をよそに、香帆の眼差しは真剣だった。

 木村をじっと見据えて、揺るがない信念が見て取れた。

 それに応じ合うように木村は頷き、タブレットに向き合った。


 何本かのケーブルを接続すると、キーボードから流れるような音が響き、モニターに流れるような文字が映し出される。


「ねえ、香帆ちゃんよかったの? 私も協力するから安心して。あなたひとりだけに責任なんて負わせないから」


「紹介した手前、俺だってなんでもする!」


 力強い言葉を背に受け、香帆は大きく頷く。

 その間も木村の手はキーボードを叩き続ける。

 どれくらい時間が経ったのだろう。

 ふいに木村の手が止まる。


「終わったよ。レアって言うんだね、このAI」


「……はい。あの、終わってどういうことですか?」


 香帆が恐る恐る尋ねる。


「このタブレットはどのみち廃棄するしかない。物理的な追跡プログラムが組み込まれているからね」


「ちょっとまてよ、木村。廃棄ってなんだよ。それを止めるために」


 達也が喰ってかかる前に、木村が口を開いた。


「慌てるなよ。タブレットを廃棄するって言っただけで、中身まで廃棄するって言ってないだろう。それにこのAI、自己削除機能を持ってたけど使ってないんだよな……」


「どういう意味だよ?」


「詳しくは解析しないとわからないけど、何かを届けるために動いてたみたいなんだ。まあ、それいいとして、ちょっとこれを見て」


 木村はモニターに目を移すうと、エンターキーをポンと押す。


「香帆、見えているか?」


 そこに映し出されたのはタブレットのなかにいたレアだった。

 みんなの目がモニターに釘付けになる。


「レアだけ、うちのPCに移動してもらった。すべて移動するにはもうちょっと時間はかかるけどね。データ量が人間並なんだよな。それに使われているニューラル・フレームも調べてみないといけないしね」


 木村の言葉は困っているふうに見えても、口調は楽しそうだった。


「移動した? そんな簡単にレアって移動できるのか?」


「言葉を選ばずに言えば、レアもプログラムだからね。移動はできるよ。これでタブレットを廃棄すればネクスライトも納得するんじゃないか?」


 その一言で、みんなの口から安堵のため息が漏れた。

 奈央は両手を握り、達也は目を閉じて、香帆は静かに肩の力を抜いた。


「ざっと見た感じ、十時間くらいはかかるよ。ここで待つ? 終わったら連絡するけど?」


「香帆、一度帰ろうか? 木村に任せておけば大丈夫だから」


「……はい」


 本当は一緒にいたかった。だが、自分にはまだすることがあるような気がして帰ることを決めた。


「ねえ。あなたの欲しい物、聞いていても良いかしら? 内容によっては、私、ここから出ていかないから」


 奈央は、視線を突き刺すような勢いで木村を睨みつけた。


「待って待って。そんな悪質業者みたいなことはしないって。それに依頼は最後まで完璧にしてからでしょ?」


 その言葉に奈央は唇を噛む。


「さあ、みんな帰った帰った。終わったらちゃんと連絡するから」


 木村は立ち上がると、手を振り、虫でも追い払うかのように三人を退出させた。


「香帆、そんな顔をするなよ。俺がちゃんと見ててやるから」


「そうよ。私も力になる」


「……達也さん、奈央さん、ありがとう」


 心配、期待、困惑。

 それぞれの思いが交錯するなか、香帆はレアのデータを木村に託し、「絶対に守る」と心に誓った。


 レアを救うための第一歩を踏み出した香帆は、希望と不安を胸に抱えながら大学をあとにした。



 (第6話に続く)

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