第2話 閉じ込めた声

 

 コンビニの自動ドアが開くたび、冷たい風が入り込む。

 だけど、店内にはあのピアノの旋律が静かに流れていた。


 香帆はレジの奥で、小さく息を吐く。

 結局、達也のノリに押し切られる形で、レアの音楽はしばらく店内BGMとして流れることになった。

 最初は怖かった。けれど、意外なことに、誰も変な顔をしなかった。


「なんか、落ち着くね」


「この曲、どこで流れてるの?」


 そんな声が、ちらほら聞こえてくる。


 香帆はタブレットをそっと握った。

 これが私の気持ちの音……だけど、それが何になるんだろう? ただ流れているだけ。誰も「私のもの」とは思っていない。どうせ私が関わってるって知られたら、笑いものだ。

 そもそも、これはレアが作った曲で、私が作ったわけじゃない。


「香帆っ、ボーッとしてるとミスるぞ」


 達也の声に、ハッと顔を上げた。

 ちょうど客が並び始めていて、香帆は慌ててレジを打つ。


「……すみません」


 それ以上、何も考えないようにした。

 けれど、心の奥にかすかに残るこの感覚。

 今まで閉じ込めていた声にならない悔しさが、ゆっくりと揺れ動き始めたような感覚だった。



 ※※※



 バイトが終わると、外の空気は一段と冷たくなっていた。

 夜の商店街にはぽつぽつと街灯が灯り、遠くで犬の鳴き声が響く。

 帰宅を急ぐ人々の足音が、どこか遠くの世界の出来事のように聞こえた。

 街灯の光が遠く、届かない場所にあるように、私の気持ちも誰にも届かない気がした。


 香帆はポケットに手を突っ込み、指先でタブレットをなぞった。

 そのとき、スマホが震えた。

 画面を開くと、達也からのメッセージが届いていた。


「明日、奈央に曲を聴かせようぜ!」


 その一文を見た瞬間、足が止まる。


 ――奈央に、聴かせる? 自分の音を?


「……無理」


 自分でも驚くほど小さな声だった。

 胸の奥に、重たい何かが沈んでいくのを感じる。

 達也の彼女に私の音を聴かせるなんて、完璧な人に笑われたらどうしよう。「変な曲」と思われたら?

 頭の中に、沙理奈の声が響いた。


「なに、才能ぶってるの?」


 喉の奥がぎゅっと詰まる。


「香帆?」


 ポケットのタブレットがかすかに震え、レアの声が響く。


「どうしたの?」


 香帆は、そっとタブレットを握りしめた。


「……なんでもない」と呟いたが、レアは「本当に?」と優しく聞き返した。

 香帆はなにも言わず、ゆっくりと歩き出す。

 明日、どうしよう。


 その夜、布団の中でスマホを開くと、達也からもう一通メッセージが届いていた。


「大丈夫。奈央、めっちゃ音楽好きだから」


 その言葉に、香帆の指が一瞬止まる。


 ——本当に?  音楽好きなら、余計に変だって思うかもしれないのに。


 スマホをそっと閉じる。

 闇の中、彼女は目を閉じた。

 心の奥に閉じ込めていた「声」が、かすかに揺れ動いていた。



 ※※※



 翌朝、香帆が目を覚ますと、母がキッチンで朝食を作っている音がする。

 コンビニのパンが袋から出されて、トースターに放り込まれる。母は背を向けたまま、疲れた声で言う。


「今日もバイト? 遅くならないでね」


「うん」


 香帆は短く答えて、テーブルに座る。レアのタブレットはポケットの中。

 母が振り向かず続ける。


「パート増やしたから、私も遅くなるよ。鍵、忘れないで」


 香帆は黙って頷く。母との会話はいつもこうだ。必要最低限で、気持ちなんて乗らない。

 母の疲れた背中に、香帆は何も言えず、ただ黙ってパンを飲み込んだ。



 バイト先に向かう道すがら、香帆はイヤホンで昨夜の曲を聴く。

 ゆっくりとしたピアノの旋律。レアは私の曲だと言うけど、やっぱり実感が持てない。


「香帆、昨夜より落ち着いてるね。でも、まだ何か言いたいことあるでしょ?」


「別に……ないよ」


「嘘だね。呼吸が少し速い。感情データ、解析してみる?」


「やめてよ。勝手にしないで」


 ごめんね、とレアが小さく呟き、香帆は一瞬だけ胸が締め付けられるのを感じた。

 香帆はイヤホンを外すけど、レアの声がポケットから漏れる。


「香帆の声、もっと出してみたらいいよ。私が形にするから」



 コンビニに着くと、達也がすでにレジ裏で準備している。

 店内のBGMにはいつも曲が流れていた。

 ほっとすると同時に、少しだけ寂しくもあった。


「おはよ、香帆。今日、午前中に来るって」


 香帆はロッカーに荷物をしまいながら、達也の言葉を反芻する。


「……誰が?」


 問い返しながら、心臓が少しだけ早くなるのを感じた。


「奈央だよ。昨日メールしただろう? 曲、聴かせるんだよ」


 達也は当然のように言って、バーコードリーダーを片手に商品を整理し始める。

 香帆の手が、ロッカーの扉の取っ手で止まった。


「……それ、本当にやるの?」


「おう。なんかまずかった?」


 達也は軽い口調で振り返るが、その目は意外と真剣だった。


「いや……」


 香帆は言葉を濁す。

 やっぱり無理だ。

 知らない人に聴かれるなんて。


「そっか、緊張するか」


 達也は苦笑しながら、レジ前に並べるお菓子の箱を開ける。


「でもさ、奈央は音楽ガチ勢だけど、頭ごなしに否定するようなやつじゃないよ。むしろ、興味津々だった」


「ふーん」


 香帆は曖昧に返事をして、エプロンをつける。

 実際、逃げる理由なんてない。けど、どうしても足元が落ち着かない。


「午前中か……」


 呟いた瞬間、コンビニの自動ドアが開いた。

 風と一緒に、ひとりの女性が入ってくる。

 背は高めで、髪は肩につくくらい。ライトグレーのパーカーにジーンズ姿。

 ぱっと見、普通の大学生。でも、その雰囲気はどこかエネルギッシュだった。

 彼女はすぐに達也を見つけると、にこっと笑って手を振る。


「おつかれ、達也! これ、差し入れ」


「お、早いね」


「待ちきれなくて」


 彼女は片手にコンビニの紙袋をぶら下げている。

 達也が「お、さんきゅ! って、違うコンビニじゃん。どうせならうちで買ってくれよ」と軽口を叩きながらも受け取る。

 そして、奈央はすぐに香帆に視線を移した。


「……君が香帆ちゃん?」


 その瞳が、まっすぐこちらを見ている。

 香帆は、息をのんだ。

 これが、達也の彼女。

 音楽をやってる人。

 私の曲を聴く人。


 「……は、はい」


 香帆は小さく頷いた。

 奈央は一瞬、じっと彼女を見つめた。

 次の瞬間、ぱっと笑った。


「そっか、よろしくね!」


 軽やかで、力強い声だった。

 それだけで、香帆の心臓がさらに跳ねる。


「で、達也。曲は?」


 彼女は待ち切れないといった感じで辺りを見回す。


「今、代えてくるから、待ってて」


 達也はそう言いながら店内の奥へと消えていく。

 残された二人。

 香帆にとって気まずい空気が漂う。何か言おうとしたが、いつものように言葉が喉に引っかかって黙ってしまった。


「達也がマジで絶賛してたんだよね。私、音響関係の事務所でインターンしてるんだけど、達也が曲を推すのなんて初めてでさ。だから、今日すごく楽しみにしてるんだ!」


 奈央が両手を組んで嬉しそうに肩を上げる。

 ちょっとばかりオーバーリアクションだったが、彼女の雰囲気と明るい笑顔がそれらすべて肯定する。

 香帆は一瞬で感じる。私とは住む世界が違う人だ。関わっちゃいけない人。

 無意識に下を向くその時、店内に香帆の曲が流れた。

 しかも、昨日より音が大きい。


 刹那、奈央のきれいな眉間にしわが寄る。


「今流れるこの曲! どうだ奈央? スゲえだろう!」


 奥から出てきた達也がまるで自分のもののように嬉しそうに言う。

 奈央は黙ったまま、動かない。目つきは鋭いままだった。


「ちょっと、達也! あなたね」


 さっきまでの話し声より一オクターブ上がった声音が、店内に響く。


「えっ」


 香帆は彼女の声に、体中の血が抜けるような気がした。

 目の前がぐるぐる回り、沙理奈の声と眼差しが奈央と重なって見えた。

 やっぱりダメ。

 私なんかが、曲を作るなんて――大人しくしてればいいの、余計なことはせず誰にも見つからず、じっとしていれば……。


「達也って曲選びのセンスはあるのに、音響はまるでダメ。ごめんね、香帆ちゃん」


 沙理奈が『才能ない』って言った気がして、香帆は凍りついた。だが、奈央の『ごめんね』で我に返り、目の前が現実に戻った。


「ほら、達也。ボリューム、三つ下げて。こういうピアノの旋律は静かに聞かせるのよ。なんでもかんでも大きけりゃいいってことじゃないの」


「あ、ごめん。すぐに下げるよ」


 二人のやりとりが遠くに感じられ、何を話しているのか分からなかった。

 ただ、店内のBGMはだけは、レアが香帆に作った曲が静かに流れていた。


「ねえ、香帆ちゃん。これいつ作ったの?」


「……なんですか?」


「だから、この曲。すっごく素敵じゃない。ねえ、まだ未発表よね?」


 素敵? どういうこと?

 

 称賛を受けたことのない香帆には、それがどんな感覚なのかまるで分からなかった。


「素敵って……」


 自分の口からこぼれた言葉は、かすかに震えていた。

 奈央が曲に耳を傾け、「雰囲気だけで良い感じするね」と呟いた。


「ちゃんと聴いたら、バズるって確信持てるよ!」


 奈央はまっすぐ香帆を見つめ、迷いなく頷いた。


「感情がストレートに伝わってくるし、音の重なりも絶妙。そうね、レコーディングした曲を聴かせてもらったら、もっと確信持てると思う!」


 眩しいほどの自信に満ちた言葉だった。

 香帆は思わず視線を落とす。

 そんなふうに言われたことなんて、今まで一度もなかった。


 バズる? レコーディング? 誰かが、この曲を求める?


 そんなの、ありえない。

 だって、これはレアが作ったもので、私のものじゃない。


「でも、これ、私が作ったわけじゃなくて……」


 やっとの思いで絞り出した言葉に、奈央は少しだけ首を傾げた。


「そうなの?」


 達也が横からフォローするように言う。


「まあ、香帆は謙遜しすぎなんだよ。確かにAIが絡んでるらしいけど、元の感情は香帆のものなんだろ?」


 香帆は答えられず、ポケットのなかのタブレットをぎゅっと握りしめた。

 奈央は少し考えるような素振りを見せた後、ふっと笑った。


「だったら、ますます面白いじゃん!」


「え……?」


「AIとのコラボって、今の時代めちゃくちゃ新しいし、むしろ強みになるよ!」


 驚くほどポジティブな言葉に、香帆はますます困惑した。

 奈央はそんな香帆の様子を気にする様子もなく、店内の曲に耳を傾ける。


「ねえ、せっかくだしちょっと聴かせてもらえない? あなたの声」


 香帆の指が、一瞬だけタブレットの画面に触れた。

 私の声? うそでしょ?

 胸の奥で、迷いと嫌悪が膨らんでいく。

 曲ならレアのせいにでもなんでも言い訳できるけど、私の声は――誤魔化しようがない。


「……無理です。歌ったことなんてないし」


「そっか。もちろん強制はしないけど。ほら、いま誰もいないしどうかしら」


 奈央の視線が香帆に注がれる。

 達也もノリノリで、好機の表情を浮かべる。

 期待という未知の感情に、香帆はこの日はじめて重圧プレッシャーを感じていた。

 心臓がどくどくと音をたて、呼吸は短く、喉が詰まるような感覚に思わず唾を飲む。

 手のひらにじんわりと汗が滲み、無意識に拳を握りしめた。


 ――期待されるのは、嬉しいことなのに。


 頭ではわかっているのに、身体が正直に反応する。

 期待という名のプレッシャーは、香帆の背中をじわじわと押し続けていた。


「歌詞ならもうあるよ。香帆、歌ってみる?」


 レアの明るい声がポケットの奥で響く。


「そんな……いきなりハードル上げないでよ」


「香帆の感情から生まれたんだから大丈夫だよ。私も手伝うよ」


 奈央は、目を見開き驚きの表情を浮かべる。


「ねえねえ。もしかして、今の声って」


「おう。『レア』っていうらしい」


「名前まであるの? すごいじゃない! 香帆ちゃん、ちょっと見せてくれない?」


 濁流のように流れていく話に、香帆の意識は完全に取り残されていた。

 期待という二文字が、香帆のなかで徐々に恐怖に変わっていく。


 この場の雰囲気を少しでも変えられるならと、香帆はタブレットを渡した。


「わぉ、可愛いじゃん。君が『レア』ちゃんね。私、手塚奈央。素敵な曲ね。題名はあるの? 歌詞も見せてくれる?」


 タブレットのなかのAIを素直に受け止める奈央に、香帆は驚く。

 そして、濁流の勢いそのままに、質問を並べ立てる彼女の行動力に呆気にとられた。


「香帆? 見せていい?」


 レアが香帆に視線をおくり、みんなの視線が注がれる。


「あ、うん。別に私のじゃないから……」


 レアは少し悲しい顔をしてから、タブレットに歌詞を表示した。

 食い入るように見つめる奈央。

 横から達也も覗き込む。


「すげーな。ピアノに合う歌詞なんてあるんだ」


「ちょっと達也黙ってて。イメージが壊れる」


 奈央は歌詞を目で追いながら、自然とリズムを刻みはじめた。

 店内のBGMに身体が馴染むにつれ、薄く唇が動き出す。


「これすごいじゃない! 歌詞もメロディも、ピッタリだわ!」


「だよな。マジでイケてるぜ!」


 奈央と達也が驚き喜ぶその姿を、香帆はどこか別の世界から眺めているような気でいた。

 私の感情からできていても、作ったのはレア。私じゃないから。


 香帆はいつものように自分を隅に追いやり、他人のふりをした。

 褒められるのはいつも近くの人たち。その輪の中に私はいない――。


 香帆は、ゆっくりとした足取りでレジの裏へと引っ込んだ。

 その時だった。

 店内に冷たい風が吹き、自動ドアが開いた。

 数人の女子高生たちが騒がしく流れ込んできた。


 タブレットを覗き込む奈央と達也は気づかない。


「……いらっしゃいませ」


 いつもの香帆に戻り、相手に届くかどうかの小さな声で客を迎えた。


「ほら、この曲。昨日流れてたやつだよ」


「マジで?」


「うん。イイね」


 雑誌コーナーの前でしゃべる女子高生たちの声が聞こえた。

 香帆が顔を上げると、そこに高梨沙理奈がいた。

 長い髪を肩に流し、楽しげに友人と話している。


 彼女の笑顔は、店内の柔らかな照明の下でひときわ輝いて見えた。

 香帆は無意識に視線をそらそうとしたが、その瞬間、沙理奈と目が合った。


 一瞬の静寂。


 沙理奈の表情が、わずかに揺れた気がした。

 彼女がレジ向かってくる。


「ねえ、この曲なんていうの? あんた店員なんだから知ってるでしょ?」


「沙理奈、知り合いなの?」


 沙理奈はうんざりした顔で、「ないない。ただの同中。関係ないし」と軽く笑いながら言い放った。


 その瞬間、香帆の胸の奥で何かがチクリと刺さる。

 わかっていたはずなのに、実際に言葉にされると予想以上に冷たく響いた。


「ねえ、君たち。この曲どう思う?」


 奈央がタブレットから目を離し、女子高生たちに意見を求めた。

 彼女たちは一瞬、きょとんした表示を見せたが、「この曲、切なくて泣きそう」「SNSでバズりそうじゃね?」「めっちゃ可愛い」とそれぞれが個性的な称賛を口にする。


「沙理奈はどう? 今日はじめて聞くんだよね?」


「うーん、まあ、コンビニにしては悪くないんじゃない?」


 沙理奈の言葉に、香帆の目が大きく見開かれた。

 鼓動が速くなる。今まで愚弄しか口にしなかった沙理奈が、少しでも肯定的な言葉を口にした。

 たったそれだけなのに、胸の奥がざわつき、香帆は不意を突かれたように息をのんだ。


「この曲、そこの店員さんが作ったのよ。ねえ、香帆ちゃん」


「スゲーだろう」


 奈央と達也が自慢気に言うと、香帆は驚きの表情を浮かべながらも、心の中で何かがぐっと込み上げるのを感じた。


 気づけば、店内の空気が彼女を中心に静かに固まっていた。

 誰もが香帆の反応を待っているようで、彼女は信じられず視線をさまよわせた。


「ふん。どうせパクったんでしょ。お前なんかが作れるわけないわ」


「残念。これ正真正銘、混じり気なしに、香帆が作ったんだぜ」


 達也が沙理奈の前に一歩出て、胸を張った。

 奈央が香帆に近づき、「いつかレコーディングしてみたいね。この曲なら絶対バズるよ!」と握りこぶしを作る。


 彼女の熱い情熱が伝播したのか、女子高生たちは素直に驚く。

 それを横で見ていた沙理奈は、唇を噛み、気まずそうに目を逸らして出て行った。

 それを追うように出ていく女子高生たち。


 奈央が達也に、「スタジオが空いてる日を探すね。香帆ちゃんのシフトあとで教えて」と呟き、香帆はそれを遠くで聞いていた。


 静まり返った店内に、香帆の気持ちがこもったメロディが染み渡っていた。



 (第3話に続く)

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