Signal CQ

Yuto

第1話

 光が点滅していた──そんな感覚だけが、網膜の奥に焼き付いたまま、私は目を覚ました。


「……また、だ」


 夢の残滓が、耳の奥にかすかに残っている。眠るたびに繰り返される、あの奇妙な光と音。それが何なのか、私はまだ知らない。



 名前を訊かれたとき、私は「エル」と名乗った。

 本名かどうかはわからない。でも、唇に馴染むその響きに、どこか懐かしさを感じたから。自然とそう名乗るようになっていた。


 私が記憶を失い、保護されたのは三年前のことだ。人通りの少ない郊外の路上でメモリーカードを握ったまま倒れていたらしい。意識は混濁していて、自分の名前すら答えられなかったという。偶然通りかかった人に助けられた──そう記録には残っている。でも、そのときの情景は、今も靄がかかったままだ。

 そうして私は、「エル」としてここで生きることになった。


 「エル、こっちの部品を取ってきてもらえるかな」

 「はい、承知しました所長」


 ここは、個人経営のロボット工学研究所。都市の片隅にあるビルの一室に設けられた小さなラボだけれど、先進的な義肢や人工知能の研究で、業界内では密かに知られている。

 そして、倒れてたところを偶然通りかかって助けてくれたのがこの研究所の所長だ。ありがたいことに、私はここで研究助手として働いている。

 白衣を羽織り、回路を組み、部品の調整を行い、データを整理する。そんな毎日にも、いまでは不思議なほどの心地よさを感じるようになっていた。

 きっと、以前もこんな仕事をしていたのだろう──そう思うことにしている。

 私は過去を持たない。でも、それで構わないとも思っていた。いまの私には「現在」がある。それだけで、十分なはずだった。



 ──あの夢を見るまでは。



 最初は、ただの雑音だった。

 眠りに落ちる直前、耳の奥に微かに聞こえる、電子の吐息のような音。


 ツー、ツツー、ツ。ツー、ツー、ツツー。


 まるで壊れかけた通信装置が漏らす、か細い断末魔のようだった。けれど、それは一度きりではなかった。夢を見るたびに、音は次第に輪郭を持ち、はっきりとした“何か”に変わっていった。

 何日か経ったある夜、私はそのリズムに既視感を覚えた。


(……これ、モールス信号?)


 私はベッドから起き上がり、作業台に積んであるメモ帳を取った。部屋はほとんど真っ暗だったけれど、機材のLEDがぼんやりと辺りを照らしていた。

 夢の中で繰り返された音を思い出しながら、私は机の上で指をトントンと叩いた。

 やがてノートの上に、こんな符号が並んでいく。


《ー・ー・ ーー・ー ー・ー・ ーー・ー》

《ー・ ・・・ーー ・・・・・》


「……CQ、CQ、N……3……5?」


 CQ──それは、無線の世界で使われる“すべての局へ”という意味の呼びかけだ。救難信号や一般通信の冒頭に用いられる、開かれた問いかけ。

 夢の中で、誰かが私を呼んでいた。切迫したような、懇願するような音の奥に、“誰か”の存在を感じた。

 私を、呼んでいる。


 その日を境に、私は業務の合間を縫って、信号の解析を始めた。

 メモに残したモールスを、変換ツールでアルファベットや数字に直し、意味を調べる。新たに夢に現れる信号を、一つひとつ記録していく。

 それは、明確な数字列になっていった。


《N35.61873》《E139.70498》


 緯度と経度──地球上の、特定の地点を示す座標だ。


「まさか……本当に……?」


 背筋を冷たいものが這い上がる感覚。けれど、それ以上に胸の奥がざわついていた。

 なぜ、私の夢にそんな情報が現れる? 誰が、何のために? それは幻覚か、記憶の断片か?

 でも、考えるより先に、心が動いていた。呼ばれている。そこへ行かなければならない──そう強く、確信していた。


 その夜、私は研究所の白衣を脱ぎ、コートを羽織って外に出た。

 夜の街は静かに冷え込み、舗道にオートタクシーのライトが滲んでいた。手元の端末に座標を入力し、迎車アプリで目的地を指定する。

 やがて、白いボディの無人タクシーが音もなく停車した。


「お願いします。行き先、ここです」


 スクリーンに緯度経度を映し出すと、AIドライバーは一瞬迷ったように見えたが、すぐに目的地が認識され、車は滑るように走り出した。窓の外を、都市の灯が流れていく。


 私はまだ、自分が何者なのかを知らない。

 けれど──あの信号は、私を知っている気がした。だから、応えなければならない。それが、私という存在を辿る、最初の手がかりなのかもしれないから。


 ゆっくりと、研究所の明かりが夜の帳に飲み込まれていった。

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