寂しがり屋の

鷹野ツミ

 夜中に帰ってきた弟は、頬にガーゼを貼っていた。

 弟が実家を出てまだ三日しか経っていない。ホームシックかよ〜とバカにしてやるより先に「どうした……?」と声に出ていた。

「逃げてきた。もうあのボロアパートには帰らねえ」

 苛立ちと不安が混ざったトーンで言い放ち、両親を起こさないよう忍び足で階段を上っていく。俺は酒を片手によたよたと後ろをついて行った。

 弟の部屋は片付いていて広く感じる。敷いたままのラグに座り、まあ飲めよと飲みかけを差し出しつつ問う。

「何があったよ? ヒステリック彼女とケンカした?」

「……彼女なんかいねえよ。なんか、その、がオレのこと殴ってくるんだ」

 俺は百億回ほど聞き直したが聞き間違いではないらしい。

「酔っ払いにも分かるように言ってくんね?」

 飲みかけが一気に流し込まれた。弟は、ドジっ子ってツッコんだら殺すと前置きしてから説明した。

 要約すると、ボロアパートから出かけようとする度に壁やらロフトのハシゴやらにぶつかるのだそうだ。がっつり痣になるし、血が出ることもあると言う。

「ただのドジっ──」

 睨まれて言葉を止めた。

 弟は冗談を言うタイプではない。本気で家がおかしいと思っている様子だ。

「よし。お兄様が行ってみようじゃあないか」

「やめとけやめとけ。オレの二の舞になる」

 袖を捲った弟の腕には痛々しい痣がいくつもあった。流石に俺は言葉を失ったが、尚更そのボロアパートが気になってくる。

「まあ大丈夫っしょ」

 俺は社会人一年目の弟と違って、実家暮らしの引きこもりニートだ。例え何があったとしても迷惑をかける相手はいない。

 心配する弟を置いて、俺は早速ボロアパートへ向かった。


 歩いて数十分、実家から近すぎて笑える距離だ。

 隣の住人が鍵をガチャガチャやっている場面に出くわしたので愛想良くこんばんはー! と挨拶しておいた。そして笑顔が飛んだ。

 住人は顔にガーゼと絆創膏の他眼帯までつけていて、顔から地面にダイブしたんですか? と聞きそうになった。

「ああ、こんばんは」

 普通に挨拶を返してくれたが、俺の笑顔は飛んでいったままだ。弟の言葉が一気に現実味を帯びてきてやっぱり帰ろうかなと思ったが、身体が勝手に部屋の中へ進んで行った。

 外観もそうだが、中もボロアパートという割には綺麗だ。引越したてで家具が少ないせいか広く感じるが恐怖感などはない。

 俺は真新しいソファに寄りかかり、スマホでゲームをしつつ持ってきた酒を飲み始めた。

 再び酔いが良い感じになり、つまみが欲しくなり、備え付けの冷蔵庫を勝手に開けさせてもらった。

「……水とホットケーキミックスしかないだと?」

 コンビニへ向かわざるを得なかった。

 さて、これから出かけるワケだがどうなるか。家は俺のこと殴ってくるだろうか。

 ポケットの小銭を確認し、よたよたと歩いたところで何故かトイレのドアが開いて腕にぶつかった。勢いが良すぎて回避不可能だった。

「いったあ!」

 かなりの痛さである。もう腫れている。絶対痣になるやつ。

「マジなのか……マジで家が殴ってくる……」

 俺は恐怖より苛立ちが込み上げてきた。トイレのドアを蹴り飛ばし、部屋の壁という壁をぶん殴ってやった。拳が擦り剥けヒリついた。そして唾を吐いてさっさと帰ろうとした瞬間、足元が滑り、顔面から床にダイブした。火花が散った感覚がし、鼻血が流れてきた。

「ぐ……いっでえ」

 ふらふらと立ち上がれば今度は後ろ向きに倒れ、ロフトのハシゴに頭をぶつけた。ぐわりと脳みそが揺れる。そのまま前に倒れ込み真新しいテーブルに腹を打ち付けた。嗚咽と涙がこぼれる。

「うう……なんだこれえっ」

 這いつくばってベランダに出ると縁側ほどの段差から転げ落ちた。ベランダといえど隣との仕切りがなく、皆の庭という感じだ。

 ふわりと煙草の臭いがし、顔を上げれば先程の隣の住人が居た。口元の端に真新しい傷がある。

「おや、大丈夫ですか?」

 煙草を消して近付いてきた。俺は血と涙でぐちゃぐちゃの顔を晒して助けを乞うしかなかった。

「ははは。そのうち慣れますよ。寂しがり屋の犬や猫みたいなものと思えば、それが家だって何だって可愛いじゃないですか」

 住人は愛おしそうに自分の頬をさすっている。はっきり言って異常で不気味だ。

 俺は走って逃げた。転んであちこち擦りむいたが痛がっている場合ではなかった。早くおうちに帰りたい。


 帰った途端俺の情けない姿を見た弟は、ほらなという顔をしたが開けたての酒をくれた。

 優しさが沁みた。

 兄弟ボロボロの姿で、朝まで飲み明かした。

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