第49話:この道を先に進む

 窓の外が、すこし赤くなりはじめていた。


 放課後。課外活動までの、ゆるやかな空白。


 夕方のラウンジには、紙コップを手にした生徒たちがぽつぽつと集まっていた。

 どの顔も、数日前よりどこか落ち着いている。

 ——三者面談は、もうほとんどの子が済ませたらしい。


「マヨネーズとかさ、揚げ物系って、異世界チートの定番だよね」


 ナナセがさらっと口にした言葉に、場がふわっと和んだ。


「ジャガイモ見つけ出してフライドポテト作ったり、油と卵と酢でマヨを作っちゃうみたいなやつ?」

 モモリンが笑いながら言う。


「未知の味覚で文明を殴る感じですね」

 セリナが、微笑ましいと言いたげに補足する。


「でも、そういう意味じゃさ……大将の唐揚げって、もうチート級じゃね?」

 カイトが言った。


「うん、たしかに」

 チアリが素直に頷いた。

「あれは、すごい」


 私はちょっとだけ考えてから、ぽつりと尋ねた。


「……こないだって、唐揚げだった? 竜田揚げだった?」


 カイトは一瞬だけフリーズした後、「え?」と首をかしげた。


「えっと、からっとしてたし……美味しかったよ?」


 ——ああ、そうだった。


 私は小さく笑いそうになるのをこらえた。


 カイトは、味の違いにあまりこだわらない。美味しければ、それでいい。昔からそういう奴だった。

 まぁ、母は「食べさせ甲斐がある」っていうけれど……なんでも美味しそうに食べるのは良いとこ、か。


「こないだ、男子寮で出てたのは唐揚げですね」


 静かな声が割り込んできた。声の主はヨウタだった。

 端末に写真とメモを記録してる。食べ物のことになるとまめだ。


「塩麹ベースのタレにほんのり生姜。衣は片栗粉と小麦粉を合わせて、冷めても衣がふんわりしているのが特徴」


 そういう分析をメニューごとにメモしてあるのだろう。

 私は、思わず身を乗り出した。


「唐揚げの時って、レモンが添えてあって、配膳済み?」


「そうそう。唐揚げの時は、配膳台にスタッカーで重ねてあるね」


「大将、仕込みを変えててさ、配膳しておく方には、時間が経っても美味しく食べられる唐揚げを、揚げたてを出せる方には軽くて香ばしい竜田揚げを。あの人、そういう手間を本当に惜しまないでしょ」


 ヨウタは少しだけ笑って言った。私の“仮説”は正解だったようだ。


「女子寮の方では竜田揚げが出たんでしょ」


「うん、そう」


「あの竜田揚げ、生姜と酒で一度漬けて、それを拭いてから醤油ダレ。衣は米粉混ぜてあって、二度揚げ。軽さと、噛んだ時の香り、それからジューシーさ。衣の赤い色まですごく上手に出してる」


 赤い色、か。

 醤油と味醂の赤……でも、それだけじゃない気がした。

 なんだろう、この感じ。香ばしさと、透けるような紅色。


「……紅葉?」


 私が思わずつぶやくと、その言葉に、すっと声が重なった。


「千早ぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」


 和歌の一節を、まるで風のように静かに引き寄せたのは、ミコトだった。


「衣の色と、生姜の香り。味と香りがほどけて重なる。——まるで、紅葉が水に染まるように、ですね」


 彼女の声はやわらかく、でも芯があった。


「衣の色に意味を持たせるって、すごいよね」

 チアリが感心したように言った。


「そうだ、親御さんとは……話せたのか?」


 カイトの問いに、ヨウタはほんの一瞬だけ黙って、それから静かに答えた。


「うん。話した。話して……話したんだけど、結局、ダメだった」


 笑顔はあった。でも、その奥に、少しだけ滲む何かがあった。


「母さん、自分達が飲食で苦労してきたからって。ありがたい話なんだけどさ、やっぱ危ないこととか、大変そうなことはさせたくないって気持ちが先に立っちゃって」


「そっか……」


 カイトが短く返す。


「向こうで料理作ってみたかったけど、そういうのって、思いつきでできるほど簡単じゃないって、思い知った感じ」


 空気が、すこし沈んだように感じた。


「え、それじゃあ第一陣って、イケメンと勇者と天才だけ? 女子の華が足りませんけどー!」


 ナナセが、軽口のように言って、笑ってみせる。


「ナナセ」


 セリナの柔らかな声に、彼女は肩をすくめた。


「うちは、行きたいってずっと言ってたんだ。でも、母が“危ないから”って。面談で、須藤先生が間に入ってくれて、ひとまず今回は見送って、また考えれば良いってなった」


 私は、その言葉に返すことができなかった。


 うちの両親は、私が行くと言えば、止めなかった。

 心配はされた。でも、最終的には任せてくれた。


 ……それが、普通だと思っていた。


 ヨウタも、ナナセも。

 ちゃんと考えて、ちゃんと願って、それでも行けるようにはならなかった。


 私は、偶然この学校に入って、たまたま適性があって、それで“行ける側”にいる。

 ……それって。

 いったい——なんなんだろう。


 誰にも何も言わず、手に残った紙コップを、そっと見つめた。

 それから、静かに立ち上がって——

 ゴミ箱に落とす音だけが、響いた。


────


 ベッドに横になっても、今日の会話は、まだすこし、胸の奥に棘のように残っていた。


 ——ヨウタ。ナナセ。


 行きたくても、行けなかった人たち。多分、他にもいるのだろう。


 きっと、みんなの方が、私よりずっと前から、異世界への想いを抱いていた。


 私は、ただ、進学先として選んで、たまたまここに入学して、異世界のことは、入学してから、授業や課外活動で少しずつ知ったにすぎない。

 なのに、私は行くことになってる。


 私が、行ける。

 ——それって、どうしてだろう。


 まるで、誰かの夢を、私が奪ってしまったみたいだった。

 申し訳なさ、後ろめたさ、迷い——


 でも、それでも。

 だからこそ、私は——この道を先に進む理由を、持たないといけない。


 視線をずらすと、ナイトランプの光が、天井に模様を描いていた。


 ……この模様、ずっと昔から見てきた。

 実家の部屋でも、何度も何度も、同じ形を追っていた。

 シェードが揺れるたびに、模様は少しずつ形を変えるけれど、でもまた、元に戻る。

 なんだか、それが——今の私の気持ちに、似てる気がした。


 ぐるぐると迷って、でも、きっと、どこかで形になる。


 それなら——


 たとえば、戻ってこられるという証を、道の上に残していくこと。

 そして、後に続く誰かに、“ここを通っていいんだよ”と、そっと伝えること。

 ……きっと、それが、「先に進む」私たちの、大事な役割。


 私は——この道を先に進む。


【第49話:了】

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