小旅行 アクシデント 甘やかな緊急避難




土曜日の朝六時。

通学時間より早いその時刻に、舎利倉杏は駅の改札前で小さく背伸びをしていた。朝の空気は澄んでいて、少し冷たい。だけど、心はちょっと浮かれている。


「あっ、おはよう」


背後から声がして、杏が振り返ると、真秀が手を振っていた。肩から提げたトートバッグが、ぱんぱんに膨らんでいる。


「真秀くん、おはようございます」


少しかしこまった調子で返すと、真秀は「そんな堅くなくていいのに」と笑った。


二人のバッグには、前日に買い込んだおやつやお弁当、飲み物がぎっしりと詰まっている。旅の準備としては上々だ。


いそいそと窓口に急ぐ。


「青空フリーパス二枚ください!」


JR東海の普通・快速列車が休日の1日乗り放題。値段は2570円。杏たちの最寄り駅から映画に行くだけで軽く3000円は超えるのに、圧倒的なバリューだった。


しかも行ける範囲が広大。鳥羽、伊勢奥津、紀伊長島、木曽平沢――どこそれ? って駅まで行ける。地図を見てるだけで旅した気になるレベル。途中下車だってできる。追加チケット買えばその先までいけちゃうという、魔法のようなチケットだ。



「今日は三重方面だね」


「うん。四日市、桑名、最後は鶴舞公園!」


行き先は、途中下車が楽しい駅を中心にピックアップされていた。

今日は四日市だけど、前に行った伊勢奥津までだと 片道4時間、車窓の景色も変化に富んで面白いし、ただ乗っているだけでも楽しい路線だ。杏は、真秀に教えてもらってから“乗り鉄”という世界をほんの少しだけ理解し始めていた。


名古屋で関西本線に乗り換える。二人はホームに滑り込んできたディーゼル車両を見て、声を上げた。


「やった!ボックス席だ!」


杏が先に見つけて、小さく飛び跳ねる。やっぱりクロスシート、ボックス席には

ロングシートでは味わえない、旅の特別感があるんだ。


窓際対面で席に座る。発車してすぐ窓際にペットボトルを置いた。そのあと一駅目くらいでバッグからおやつを取り出す。


窓の外は街から住宅地へ。そして田園風景に変わっていく。


木曽三川の鉄橋で盛り上がり、鈴鹿山脈の山々や伊吹山を眺める。もちろん沿線の住宅や店舗を見るのも面白い。車窓って最高!





四日市市立博物館は無料スペースが信じられないくらい盛り沢山。桑名の六華苑ではレトロな建物内で結婚の前撮りをしているカップルがいて、自分たち二人の将来を想像したりした。いいなあ。

最後に立ち寄った鶴舞公園では、風にそよぐ木々と噴水を眺めながらの散策…。


「……今日、楽しかったね」


「うん。なんか、まだ帰りたくないかも」


笑い合いながら駅に戻る。帰路も青空フリーパスの恩恵をフル活用――のはず、だった。


「……あれ?」


真秀が改札前を見て固まった。


「運休……?」


「えっ?」


目の前の掲示板に、無情な文字が並んでいた。


《中央西線は沿線火災のため、本日終日運転を見合わせます》



高蔵寺から先、全面運休。

掲示板に表示されたその言葉は、まるで悪い冗談みたいだった。


「ほんとに……動かないの?」


杏がスマホを見ながらつぶやく。真秀の方も、何度か検索し直していた。


「うん。中央西線は完全アウト。他の交通機関はないんだよね」


「……詰んでる、ってこと?」


「うん」



気づけばあたりは夕方、鶴舞公園を歩いていた時とは打って変わって、風が少し冷たくなってきていた。


二人は駅を出て、なんとなく駅のベンチに並んで座る。

日が沈むにつれて、だんだんと現実味が増してきた。


「バスも……うーん、やっぱりダメだ」


真秀がスマホを操作しながら言った。


「……うん。でも、実はさ――」


杏は、ふっと小さく笑った。


「わたし、こうなる気がちょっとしてた」


「え、予知能力?」


「ちがうちがう。火事とかは予想してなかったけど、もしものための“シミュレーション”くらいは、ね」


そう言って、スマホを操作し始める。真秀が少し驚いたように覗き込むと、杏は親指で画面を示した。


「『精華荘』っていうお宿。熱田区にあるんだけど……知ってる?」


「んー、聞いたことない……」


「だよね。でも、そこはママと前にも何度か泊まったことがあるの。うちの両親と、小西さんっていう宿の方が、古い友達でね」


「つまり、そこに――」


「たぶん、泊まれる。空いてるか今、連絡してみるね」


杏はまず母親に電話をかけ、事情を手早く説明した。

電話の向こうの杏ママは「ちょっと待って」と言ったあと、「今日は自治会の旅行の幹事で旅館のチェックインに付き添ってるから、名古屋まで車は出せない」と申し訳なさそうに伝えてきた。


でも――


「小西さんに連絡入れとくし、あんたのこともパパにはうまく言っとくから。お泊まり、了解!」


ママの声は、頼もしくて、ちょっと笑っていた。


「パパは?」


「心配するに決まってるでしょ。だけど佐和子から連絡入れてもらえば、たぶん大丈夫」


「あ、そっかそっか。ありがとう、ママ」


電話を切った杏は、小さく息をついた。


「ということで……今夜の宿、確保です」


「う、すご……嘘みたいな流れだ」


「ふふ、ママは応援してくれてるからね。パパには悪いけど」


真秀は、苦笑いを浮かべた。


「じゃあ、行こっか」


「うん。こっからなら地下鉄で行けるし。」


二人は駅構内の人混みを抜けて、地下鉄へと向かった。


精華荘は、旅館というにはカジュアルで、ラブホテルというには趣味が良すぎた。

深いグレーの板塀に囲まれた平屋建ての建物。中庭に面した部屋には障子と木の床、そして柔らかな灯りのフロアスタンドがともされていた。


「へぇ……なんか、お洒落だねえ。落ち着く感じ」


「でしょ? いいでしょ?」




精華荘の玄関ロビー。受付には佐和子さんが待っていてくれた。

杏と、隣に立つ真秀を見て、くすりと笑う。


「いらっしゃい。ママから電話もらったよ」


「佐和子さん、よろしくお願いします」


「まかせなさい!」


「えっと……その……小西さん。あの部屋、空いてますか?」


「――ああ、ステラの間ね。空いてる空いてる」


名前を言わずとも通じるところが、長年のつきあいということか。

小西さんはほんの少し目を細め、軽く顎に手を添える。


「ふふ……まさか杏ちゃんが、彼氏を連れてくるとはねえ」


真秀がぺこりと頭を下げる。


「粕畠真秀です。よろしくお願いします」


「真秀くんね、よろしく。しっかし、あの杏がもうそんな年かって、ちょっと感慨深いわぁ」


「もう、佐和子さん。からかわないでくださいよ~。今回は緊急避難なんですから」


「ふふっ。いやあ、歳食うわけだよねえ。まあいいや。使ってちょうだいな。……うん、緊急避難、楽しんでね!」


その言い方に、やっぱりどこか悪戯っぽい響きがあったし、そもそも終始ニヤニヤ笑いだ。


「一晩、お願いします」


杏と真秀はバツが悪い思いで、頭を下げた。


案内されたその部屋――通称“星空部屋”は、宿の一角にひっそりと設けられた特別室だった。

半ドーム状の天井と壁に囲まれた空間。

中央にはベッドが一つだけ、ぽつんと据えられている。天井には小さな家庭用プラネタリウムの投影装置。


「すごい。何この部屋?」


「真秀くん、ベットに仰向けに寝てみて」


杏がリモコンを操作する。照明がゆっくり落ちて、柔らかな星々が、部屋の中に広がった。


「わ……」


思わず、真秀が声を飲む。


「すごいでしょ」


「うん」


まるで本物の夜空の中に入り込んだような錯覚。天井だけじゃない。壁にも星が瞬き、流星まできらりと横切る。


さらに、森の奥のような環境音と虫の声が辺りを包み込む。


「没入感すごい…ここ、ほんとに宿?」


真秀がぽつりとつぶやく。


「あー、ここ佐和子さんの夢のお部屋。友人にしか泊まらせないらしいよ。わたし、このお部屋で何度も遊んだことあるんだけど……泊まるのは初めてだよ」


どこか得意げな響きで言う杏の言葉。


真秀はベッドの上で、星空を見上げた。隣に杏も添い寝する。


「うわ、天の川もあるんだ……」


杏はバッグから自分のスマホを取り出して、再生アプリを操作する。


「真秀くん、この曲」


流れ出したのは、あの日、最初に二人で分け合ったUSBプレイヤーの中の一曲。

その頃と今とじゃ、関係性は少しだけ変わった気がして。


「……この曲、ずっと聴いてると、眠くなるんだよなぁ」


「わたしも。それで、ちょっとだけ夢を見たくなる」



二人で手を繋いで星を見る。虫の声がまるで本物のように響いて、秋の草原で夜空を見上げているような気がしてくる。


突然、部屋の電話が鳴った。



「え、はい。…ありがとう。え、えっ?やだあ、そんなことしませんよお。やだなあ。じゃ、貰いに行きます」


「何?」


「お風呂。開いたから一緒に入れって。45分間貸し切り。変な事しちゃだめだって」


クスクス笑う杏となんとも言えない顔の真秀だった。





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曲は、


ハナレグミ 『眠りの森』

https://www.youtube.com/watch?v=2QiaqDL-0Z0


松本隆作詞 富田ラボ作曲による名曲です




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