杏、からかわれる
朝の教室。始業前のざわざわした空気の中、杏はすでに着席して考えにふけっていた。
―― とってもいい音だった。けど私のÝ50も負けないくらいいい音で鳴った。明日、その秘密がつまびらかに……
机の上に未だ出したままのヘッドフォン。それに触れながら今朝の真秀とのやり取りを思い出している。
―― でも、粕畠先輩、すごく親切だったな。今考えたら、めちゃくちゃ図々しいお願いしたのに、な。
その思考は突然、一人のチャラ男に中断させられた。
「舎利倉~!めっちゃイカしてるじゃん、そのヘッドフォン」
突然杏の前に現れたのは、クラスの陽キャ、神崎だった。白い歯を見せて笑いながら、杏の机に肘をついて顔をのぞきこんでくる。。
「どこ製なのそれ、外国製?それとも限定モデルとか? ちょっと俺にも聴かせてよ、な? な?」
グイグイと距離感ゼロで迫ってくる神崎。杏は無言のまま一瞬フリーズする。やたら絡んでくる彼が、杏は苦手だった。どうにも嫌な感じがする。別に何かされたわけではないのだが、なぜか苦手。DNAレベルで相性が悪いとしか思えない。
「……嫌です」
「えっ、マジ? 照れてる? そういうのいいって~、俺、音にはうるさい系男子だし~」
「そういう問題じゃなくて……人に貸すのが、イヤなの」
笑顔で押し切ろうとするチャラ男 に、 ガチで嫌がり顔の杏。
「えー、いいじゃんか。ねえ、だめ?」
そこに、キビキビとした足音が近づいてくる。
「神崎、杏にウザがらみすんな!」
優美だった。
「え? なんだよ優美、おれなんか悪いことした?」
「名前で呼ぶなって言ってるでしょ、きしょい」
「え、お前と俺の仲じゃん」
顔をしかめる優美。
「やめろ。んな事より、杏が“貸したくない”って言ってんのに、“聴かせてよ聴かせてよ”って、小学生かあんたは」
「いやいや、別にそんなガチな感じじゃなくてさ~、ノリでちょっと……?」
「あんたは“ノリ”でも、杏には大迷惑って気づけ、はいはい、ハウス!自分の席に戻りな」」
「ちぇ、わかったよ。あー、しらけたわ。舎利倉、悪かったな」
「え、う、うん」
優美はため息をつきつつ、杏の腕にそっと触れた。
「ごめんね、あのバカ、ほんと昔からガチャ男だからさ」
「ううん、優美が謝る事ないよ。ガチャガチャした人が苦手なのはそうなんだけど、なんか“嫌~な感じ”がするんだよね、神崎君って。本当、なんだろ」
「まあ、うざいのは確かだから。なんか勘違いしてんだよ、あいつ」
「優美、レスキューありがとね」
杏は困り顔のまま優美に言うと、彼女は二っと笑って、杏の肩をぽんぽんと叩くと席に戻っていった。
*****
放課後。
昇降口付近は、帰宅する生徒たちで賑わっていた。
「杏、行くよー」
珠樹が声をかける。杏は小走りで出てきて、手を振りながら謝った。
「ごめーん、お待たせしましたあ。なっかなか履けなくて」
足元を見た珠樹が、笑った。
「うわ。めっちゃハイカット! もうそれブーツじゃん」
「うん。買ったばかりでさ。でもさすがに通学に20ホールのバッシュは無謀だった」
愛実が残念そうに言う。
「ごついよ、ごつすぎる。さっちゃんのコンバース見なよ。あんなに可愛いのに」
たまたま近くに、同じ黒色のハイカットを履いた級友がいたので引き合いに出した。
その子も《なになに、わたしが可愛いって〜》、とか言いながら寄ってきて、杏のスーパーハイカットを見て目を丸くする。
「舎利倉、それエっグいね〜」
「うー、さっちゃんもそう思う?」
正門には人待ち顔の生徒たちが集まっていた。
「あ、粕畠先輩!今朝はありがとうございました!」
杏はひとりの男子生徒を見つけて声をかけた。
周りの目が集まり静かになった中、真秀は軽く手を上げて杏に挨拶を返した。
「うん、いいよいいよ」
「明日、楽しみです。よろしくお願いします!」
「わかった、また明日。舎利倉さん、気をつけて帰りなよ」
「はい」
正門を通り過ぎてしばらくして、後ろで騒ぐ声がかすかに聞こえてき
た。
*****
「ねぇねぇ、いったい、どういうこと? 杏とあの先輩、知り合いなの?」
「なんかさっき、普通に話してたよね?なんか親しげだったし」
珠樹と愛実がじわじわと杏に詰め寄る。
杏はポケットに手を突っ込んで、何気ない風で視線を外した。
「先輩とは今朝、電車でちょっと話しただけだよ」
「えー? それであんなに仲良さげになる~?」
優美がくすくす笑いながら三人の前に回り込む。
「実はさ~、わたし、杏が先輩を電車でナンパしてる一部始終を、見ちゃったんだよね〜」
「優美ったら何言ってんの。わたし朝、ちゃんと説明したよね」
杏の否定は聞かぬふり、ここはとりあえず面白がっておく珠樹と愛実だった。
「マジで!? 杏が!?」
「あの先輩、ぽっちゃりだけど、 けっこうイケメンだよね」
「イケメンだけど、あれは残念だなあ。さっき“この着ぐるみがぁ”とか言われてたし」
「いや、実はデブ専だった杏には、どストライクなんじゃないん?」
「や・め・ろ〜」
杏が怒って低い声で言った。
「失礼でしょ」
「わ、デブ専呼ばわりに怒った?」
「違う!ひとの容姿を揶揄するのは、やめなさい!」
じょ、冗談だってばあ、ゴメンゴメンと謝る二人。
杏は自分の首元に手をやる。赤のハウジング上をデザインされたロゴが走るヘッドフォン。
「機種繋がりでヘッドフォンの事聞いただけだよ」
少しすねたように杏は言った。
「そういえばあの先輩も、首に掛けてたよね?」
「そう!おんなじ《AKG Y50》って機種なの!」
「なあんだ…」
「でも、優しそうな人だったよね」
と優実。
「うん、そうなの。いきなり話しかけたのに、丁寧に相手してくれたんだよ!」
(って、杏のやつまんざらでもないんじゃない?)
(よくわからんけど、嬉しそうではあるね。でも本人気づいてないっぽいし)
本人に聞こえないよう、ぼそぼそと話す珠樹と愛実。
「……もう、みんな、ほんとにからかうの好きだよね」
でもその声に、怒気はなかった。
むしろ、ちょっとだけ、うれしそうな響きがあった。
「明日が楽しみってだけ。だって、知らないこと教えてもらうんだもん」
(なんかちょっとエロくない)
(だね。“知らないこと”ですって。イヒヒ)
軽やかに先頭を行く杏の後ろでこそこそ話す二人。
「杏、お詫びにつーか、ドリンク、グレード上げた差額分、オゴるよー」
と優美。じゃあわたしも出資するー、と乗っかる珠樹と愛実
「え、悪いし。いいの?じゃ今日はロイヤルミルクティー頼んでしまうよ」
「ぷ。コーヒーとそう変わらないじゃん。いちごミルクフロートくらい行っとけ」
「じゃあ。ロイヤルミルクティー“L”で」
「オッケー!じゃ、行こ行こ」
*****
杏は帰宅後、帰り際の会話で分からないことがあったのを思い出してさっそく検索した。
えっと、“でぶ専”、とは…
《でぶ専とは、肥満体型の人に魅力を感じたり性的欲求を覚えたりすることを意味する言葉です。性的嗜好の一種に分類されます》
杏は誰も見ていないのにあわててブラウザを閉じた。
せ、性的嗜好…?つまり太った人が好きってこと?え?ええっ?
粕畠先輩。いい人。まだ少ししか接してないけど直観で信用できるタイプだと思う。ほんわかしてて、ムーミンみたい。ちっとも性的じゃないよね。もう少し踏み込んでみようか……たとえば先輩とキスとかできる?…お顔はすべすべだし清潔感あるし、チューぐらいは全然大丈夫だと思う、けど。じゃあ次は、抱きしめられたらどうかな?…うん、気持ちよさそう…だあ、やめやめ、止め!
なんだか粕畠先輩を汚している気がしてきて、杏はそれ以上踏み込むのをやめた。でも、ちっとも嫌じゃないよ、うん。
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