シュレディンガーの猫

@gaganight

第1話

『シュレーディンガーの箱』


終電というのはどうも特別な存在だ。


もちろん、終電がたかだか電車の一番遅い便に過ぎないってことは分かってる。

だけど夜の闇を突き進む感じは、何かこう、ただの移動手段を超えている気がしてならない。


主人公は黒いフードを目深に被り、スマートフォンを握りしめながら、西武新宿線の終電に揺られている。


終電は静かだ。

揺れはほとんど感じられず、ただガタンゴトンという規則正しい音が心地よく耳を叩いてくる。


外の景色は真っ暗で、街灯の光がぽつぽつと点滅するだけ。


「この電車、どこへ行くんだろうな」


ぼそりと呟いた言葉が、誰にも届かないことに安心する。


そんなことから


「終電って、シュレーディンガーの箱じゃないか?」


ふと、そんな考えが浮かんだ。

いや、浮かんだというより、引っ張り出された感覚だ。

まるで水底に沈んでいたものを、無理やり手で掴んで引き上げたような。


観測されなければ存在が確定しない猫。

ならば、この電車だって同じことじゃないか?

外の世界がどうなっているかなんて、俺がこの中にいる限り知る術はない。


窓の外は黒い。

まるでインクの海を切り裂いて進んでいるみたいだ。

街灯の光がぽつぽつと点滅するのが見えるけど、あれだって本当に存在するかどうかは怪しいもんだ。


「外の景色は存在するのか? それとも、ただ俺がそう思い込んでるだけか?」


言葉に出すと、急に現実味が失われる。

自分で作り出した仮説が、現実を食い潰していくような感覚。


考えてみれば、この電車が本当に西武新宿線を走っているのかさえ、今の俺には確証がない。

俺が「西武新宿線の終電だ」と思い込んでいるから、そう見えているだけかもしれない。


「俺が窓の外を見て『街だ』と認識するから、それが街に見えるだけで、本当は何もないかもしれない」


言葉が自分の耳に届くたびに、何かが削られていく感覚がする。まるで現実を疑うことで、それを削ぎ落としているみたいだ。


むしろ、俺がそう認識することで街が存在しているのかもしれない。


「終電ってのは、箱だ。観測者である俺が意識を向けなければ、行き先も決まらない。」


妙な確信が湧き上がってくる。


この電車そのものが「シュレーディンガーの箱」じゃないか?

中にいる俺が観測者である以上、外の世界は俺の意識が決める。


「観測されない限り、行き先は決まらない」


この終電がシュレーディンガーの箱なら


俺が観測することで、現実を決めることができるんじゃないか…………?


そう言い終えた瞬間、電車が減速を始めた。


耳をつんざくようなブレーキ音が、思考の流れを断ち切った。

まるで誰かが無理やり俺の頭を現実に引き戻そうとでもしているかのように。


「次は……」

機械的な女性の声が、冷ややかに駅名を告げる。


終電に乗っていると、駅名なんてただの暗号みたいに聞こえる。


どこへ行こうと、大して違いなんてないのに、律儀に名前を告げてくるその機械音が妙に滑稽だった。


俺の思考がどれだけ暴走しようと、この電車が駅に着くことに変わりはない。

どんなに深く掘り下げても、どれほど荒唐無稽な理論を組み立てたところで、鉄の箱は決まった軌道をなぞるだけ。


電車が完全に止まり、扉が開く。

冷たい夜風が車内に流れ込んでくると同時に、俺の思考をひとつひとつ吸い出していくようだった。


プラットフォームには誰もいない。

ガランとした空間に、静まり返った空気だけが居座っている。


そして、スマートフォンをポケットに突っ込み、立ち上がる。

さっきまであれほど頭の中で渦巻いていた考えが、もうどうでもよくなっていた。


結局のところ、あの思索は何も生み出さなかった。

量子力学だのシュレーディンガーの猫だのを、ただ、少し考えてみただけだ。

現実は何も変わらない。

いや、むしろ変わらないからこそ現実だと言える。


思考はただの道具だ。


頭の中で回し続けているだけじゃ、何も変わらない。むしろ、それが俺をどこかへ連れて行ってくれると信じていたこと自体が滑稽だ。


「行くか」


吐き出した息が、かすかに白く見えた。

冬の夜は鋭い。深く切り込むような寒さが、現実をいや応なく突きつけてくる。


電車を降りると、扉が静かに閉まった。

あの鉄の箱が再び動き出す音が、やけに冷たく聞こえた。


電車が走り去っていく。

あのまま乗り続けていたら、また何かを考え続けるしかなかったんだろう。

でも、今はもうどうでもいい。


「結論なんて出なくてもいいじゃないか」


あまりにも単純なことだった。

答えなんて求める必要はない。探し出すことが目的ではないのだから。


ただ歩き出した。

夜の闇は深い。凍えるような冷たさが、逆に俺の意識を研ぎ澄ましている。


ふと思った。


俺が「電車を降りた」という事実も、誰かが観測しなければ存在しないのだろうか。

それとも、今ここでこうして歩いている俺の意識が、全てを作り出しているのだろうか。


考え出すと止まらない。

でも、すぐにやめた。


何も考えずに歩くだけの方が楽だ。


でも、また次の終電に乗った時、きっと考えてしまうだろう。


結論なんて出ないまま考えるのが人間、歴史ってことなのかもしれない。


また次の終電で本当の答えに辿り着けるかもしれない。


考え続けることそのものが俺の唯一の旅なのかもしれない。


次の終電で、きっとまた。


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