第2話

 婚約が決まった子どもの頃、イアンとルイーズは定期的に、どちらかの家でセッティングされたお茶会で顔を合わせていた。

 社交シーズンが始まり、領地から王都に戻ってきた頃、招待状のやりとりを経て互いの家を訪問するのだ。

 周囲にメイドや従者がぞろぞろといて、両家の親も顔を見せる中で、形式的にお茶を飲み、最近読んだ本の内容などに関する会話を小一時間程度して終える会である。


 十歳前後になると、まだ社交界デビュー前なので夜会や舞踏会への参加はないものの、内々の晩餐会で学習の進捗報告がてらふたりで合奏を披露するようになった。これは練習や打ち合わせが必要なため、以前より顔を合わせる機会が多くなった。


 イアンはピアノを弾き、ルイーズはヴァイオリンを弾く。あらかじめ曲を決めて練習をしておき、合同練習で合わせるタイミングを確認。会っている時間いっぱいをほぼ演奏に費やしているので、会話はさほどない。終わったらお茶でもという話になることもあるが、たいていは時間が押しているので互いに「後の予定がありますので」と理由をつけて、長居をせずに相手の屋敷を出る。


 十二歳を過ぎた頃、本来ならイアンはルイーズとともに王都の学校へと通う予定であったが、思いがけない事態に直面することになった。

 イアンと同年齢の第二王子クリストファーが異国の学校へ留学することになり、同行する学友の一人にイアンが選ばれたのである。

 期間は五年。長期休暇になっても国に帰ることはなく、留学先を起点として周辺国を巡り、見識を深めるというのがその内容だった。


「そういうわけですので、しばらくお目にかかることはないかと思います。どうぞお元気で」


 旅立つ前の最後となるお茶会で、イアンはルイーズに慌ただしく別れを告げた。

 そのとき、ルイーズがどんな表情をしていたか、イアンはもう覚えていない。「お元気で」という型通りの挨拶を交わして終わった記憶がある。

 手を繋いだりキスをしたりという「恋人感のある」儀式は特に執り行われなかった。


 なにしろ、イアンに求められているのは「ナイトであること」だ。ルイーズにとっては「面倒よけの口実」であり、自分自身が彼女にとっての「面倒」になるなどとんでもないことだと一貫して信じている。

 彼女にとっての自分は「ただの押し付けられた婚約者」であり、自分から必要以上に干渉しない程度でちょうど良いはずと、考えていた。


 別れから、実に五年が過ぎた。

 留学先と故国の間で年に数回、互いの誕生日などにメッセージカードのやりとりはあったが、日常的な内容を綴った手紙のやりとりはなかった。


 イアンには、書くことがなかった。留学の機会を無駄にしないために日々勉強漬けであり、そうでないわずかな時間は男同士の友人関係が楽しい時期でもあった。

 ルイーズからの手紙も、特になかった。書くことがないのだろうと、イアンは気にしてもいなかった。


 留学先で十八歳を迎え、帰国することになった頃、ルイーズから連絡があった。


“イアンさまのお帰りを待って、今季の社交界で皆様にご挨拶をいたします”


 イアンは、ルイーズが自分を「待っている」ことをこのとき初めて意識して、動揺した。

 

「珍しいな! 婚約者殿から手紙か」


 荷造りを終えて、旅立つばかりの状態になったイアンの部屋で、受け取った手紙を呆然と見ているイアンに対して、クリストファーが冷やかすように言う。

 イアンは茶化す空気には一切反応せず、手紙から顔を上げて呆然とした顔で答えた。


「ルイーズは、僕より先に誕生日がくるから、もう十九歳ですよ。この間、誕生日祝いのカードを送ったので間違いないです。まだ社交界デビューもしていないだなんて。こちらの国で、ご令嬢たちの婚約者探しの激しさは目にしていましたが、我が国でも事情はさほど変わらないはずです。これでは、ルイーズは完全に出遅れてしまっていることでしょう」


「……んっ? 何に?」


 イアンのベッドに寝そべっていたクリストファーは、むくっと体を起こして不思議そうな顔をして尋ねる。イアンは、納得がいかない顔のまま、言い返した。


「婚活戦線にですよ。十九歳なんてもう、婚約どころか結婚していてもおかしくない年齢です。いまから社交界に出てもろくな相手が残っていないのではないですか。ルイーズ、大丈夫かなぁ」


 クリストファーは「んっ? んっ?」と首を傾げながら、イアンに確認をするように尋ねた。


「ルイーズ嬢というのは、イアンの婚約者じゃなかったか?」


「そうですよ? 子どもの頃からずっと一緒でした。ルイーズは、おっとりしたところはありましたけど芯が強いというか、真面目で努力家で頑張り屋で、楽器の演奏を一緒にしたときなんて一度ひっかかったところは次に会うときまでにきっちり仕上げてきていて、頼もしかったですね。読書家で聡明な女性だったと思います。五年前の記憶ですが、顔立ちも可愛かったな。今なら本当にものすごく綺麗になっていると思うんですけど、社交界に出ないということは、彼女のことだから他で忙しくしてそうですね。それでも、自分の将来のことはもっと真面目に考えた方が良いです。『結婚だけが女の幸せじゃない』と目を向けないのは本人の自由ですが、世の中には全部を手に入れる女の人だっているわけですから、結婚は結婚で真面目に検討してもいいはず」


「待て、待て。お前は何を言っているんだ。お前の婚約者がお前を待っていて、婚活しないのは普通だろ?」


「えっ」


 完全に、予想外のことを耳にしたようにイアンは言葉を詰まらせていた。クリストファーは微苦笑を浮かべて、優しいまなざしをイアンへ向けた。


「真面目で努力家で尊敬できてかわいい婚約者。わかる。好きなんだろうなぁ……。お前は、たとえ婚約者の目が届かない異国の地にあっても、絶対にどんな誘いにも靡かなかったからな。『婚約者がいますので』の一点張りで、姫君の誘いさえ断りきった。国際問題になるんじゃないかと俺が気を回して『あの、俺で良ければ』と言ったのに、あの気の強い姫様には『それくらいならイアンを引きずってこい』ってぶん殴られかけた。お前の強情さのせいで俺がいつも理不尽な目に遭ったが、お前はいつも素知らぬ顔で『婚約者がいますので』と言い続けてダンスの誘いすら断り続けていた。愛が強い」


 指摘されて、イアンは記憶をたどる。


(そうだな。そういえば、そうだ。僕はいつも「婚約者がいますので」と言っていた)


 ルイーズのためのセリフのはずだが、イアンもたいがい多用していた。とても世話になっていた。だが、自分がそれをどんな気持ちで口にしていたかは、すぐには思い出せない。


「愛? 愛が強い……? 殿下こそ何を言っているんです? 婚約者のいる男が、他の女性の誘いに応じないのは当然ですよ。『婚約者がいますので』は最高の断り文句なのでルイーズも面倒なときにはガンガン使っていてほしいと思います。ただ、僕なんか親に押し付けられた形式上の婚約者ですからね。その気になれば捨てていいわけですから。ルイーズはこれぞという相手に目星をつけるくらいのことはしておくべきだったと思うんですよ。社交界デビューこれからか……」


 深刻に心配している表情をしつつも「国際交流も仕事のうちと、殿下に引きずられて社交の場にはずいぶん顔を出しましたからね。僕が場数を踏んでいる分、エスコートは問題なくできるのは良かったかな」とぶつぶつ言う。

 そこで、イアンはハッと何事か思いついてしまったような顔をした。

 クリストファーは穏やかな微笑を浮かべて「どうした?」と聞く。


「デビューの日は、彼女をエスコートして会場に入場し、最初のダンスを踊ると思うんですが……。そうすると、他の参加者に対して彼女の婚約者は僕だと完全に印象づけられますね……? いいんだろうか。せっかく彼女がこれからというときに、僕が邪魔をしてしまうなんて」


「いいも何もお前、婚約者だろう」


「僕はいいですが、ルイーズはどうなんだろうという話です。こんなことなら、ルイーズがこの五年間どう過ごしているか、確認しておけば良かった。ルイーズは、もっと自分を大切にすればいいのに」


 クリストファーは無言となり、両手で顔を覆った。


 * * *


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